悲観論者をやめようかな、と思ったら「オトナになる」ことが大事だと気づいた話

ちょっぴり哲学チックな雑記を。

【警告】クソ長い【警告】

私は悲観論者だ と思っている。

人から嫌がられることは多いものの、
私個人としては得をしていると思ってきた。

予めうまくいかなかったケースを想定して準備するため、滅多に失敗しないし、保険も打ってあるのでどん詰まりになることがまずないからだ。

それこそがスマートな生き方だと信じて疑わなかったが、40歳を手前に改めて人生を振り返ったとき、なんだか窮屈な人生で、嫌だなぁ、と感じ始めた。

ちょっと悲観論者を辞めようかな、と思ったので、色々考えてみた。

そもそもなぜ悲観的なのか?

幼少期、私は相当のビビリで世間知らずであった。

自分が何をやりたいか、よりも、
バカにされたり怒られたりしない道を優先してきたように思う。

安全が保証されている道を外れること、リスクのある行動をとることを避けたいがために、先読み能力(≒悲観思考)が育ち、今の悲観論者的思考が身についたのではないか、と推察される。

システム開発のPMを仕事にしていることも、この性分を助長している。

「何を」悲観しているか?

私にとっての「悲観」の対象は、だいたいが「社会」だ。
会社組織での将来に悲観する、老後の社会に悲観する、日本の将来性に悲観する。

だが冷静になって改めて考えてみて、今更ながらに気付かされるが、この「社会」の構成要素は煎じ詰めていけば「人(他人)」でしかない。

どれだけ確立され盤石であるかのように見えても、結局「社会」におけるあらゆる物事は誰かの思惑・意志によって成り立っているに過ぎず、それ故、実は不確かなものだ。

よって(今思えば)保証される道など実は存在しないし、
逆に無理だと思うものも結局自分の想定でしかない。
実際どうなるかなんてハッキリしないものだ。

「夢は叶う!」などと青臭いことを言いたい訳では無いが、要はやりたいこと(≒夢)に対して順番に、色々と手を打って行くだけの話で、その過去事例があるかないか、多いか少ないか、だけだ。

悲観論者というより頭でっかちなのかも

「私は悲観論者だ」と自分自身信じて疑わなかったし、間違ってはいないと思うのだが、将来発生するリスクに備える所作 ならびに リスクを想起することそのものは、別に何も悪くないはずだ。

私がやや自身を卑下するように「悲観論者」を自称するのは、やってみれば掴めたかもしれない幸せを、やる前から諦めていたかもしれない ということを、今更になってやや後悔しているからだろう。

要は考え過ぎ。
ゴチャゴチャ言わずにチャレンジしてみれば、もしかしたら出来たかもしれないのに、惜しいことをした という自戒から、自らを「悲観論者」と揶揄しているのかもしれない。

夢を探して38年

書いていて思い出してきたが、私が悲観的に物事をみていた最大の理由が「夢」が具体的に描けなかったことが挙げられる。

「夢(目標)」として掲げるほど魅力的なものが見つけられない。だから「失敗」や「損」に陥るリスクを避けることが唯一の正義となったふしがある。

平凡な運動神経の持ち主が、プロになれるはずもないのに部活に打ち込む姿を、つい最近まで私は「時間と労力の無駄」「無意味」としか認識できなかった。そんなことなら、勉学に労力を割いたほうが有意義だ と。

間違っちゃいない。

だが、それはあくまで「プロスポーツ選手になる」という目標を掲げるのだとすれば、という話であって、「試合に勝つ」という夢を掲げているのだとすれば、そこに向かって労力を割き、工夫することは、仮に試合に勝てなかったとしても非常に価値のあることだ。

なぜならば、万人にとって普遍的に価値のあることなどなく、その人にとっての「意味」は、人それぞれ異なる「幸せ」を体現するに至る物事に宿るためだ。その人にとって「勉学」が有意義か、「部活の練習」が有意義かは、人によって異なる。

統計的に、確率論として、偏差値の高い大学に進学して、給料の良い有名企業に就職すると安定した生活を送ることができる のは正しいと思う。そのために勉学を最優先することは理にかなう。

安定した生活をしてほしいと、子の親が望むこともまた摂理だ。
学校という教育機関において、勉学を優先することを是とする風潮もまた当然だ。

だが、その人生を送る張本人自身が自らの幸せとして「安定した生活」が最上の使命かと問われれば、そんなわけあるかと。

単に、親や学校の教師が「そのルートは保証できない」とした道でも、別に死ぬわけじゃないという情報が開示されず、何となく恐怖があっただけで、最も大切なことは「あなたは何がやりたいか」にどこまで沿った生き方ができるか である。

また、この「何をやりたいか」は、必ずしも職業ではないし、その時点では一般の概念として存在していない可能性だってある。慎重に、注意深く、正確に、自らの望みを抽出しなければ霧散してしまう、儚いものだと思う。

同時に、そうたいしたことでもない点が重要だ。
「夢」と掲げると、それなりにそれっぽいものを配置しなければならない気がするが、そんな決まりはない。何を夢とするかは、各個人が決めれば良い。自分以外がくだらないと切り捨てようが、自分にとってそれが夢ならそれが正解だ。

ガヤに惑わされずにとにかく自分の感性を信じ、こっちかな?いやこれか?と真剣に探って、自らの理解を深めていくことがメチャクチャ重要であった。私が気づいたのは最近だが。。

愚痴

なかなか気づけなかったのは、「将来の夢」という作文のお題に代表されるように、乱暴に扱われる学校教育にも責任があると、私は愚痴りたい。

早々に現世から離脱した超世間知らずの学校教師風情が、扱える代物ではないだろう。そんな繊細なものを、さも具現化可能なもののように取り扱うのは、ナンセンスの極みだ。

なぜ「将来の夢」が「職業」と結び付けられてしまうかも謎だ。
別に誰だって可能なら働きたくないだろう。
労働は生きていくための手段であって、夢とは別だろうに。

このあたりが落とし込めていれば、と、悔やまれる。

例えば「有名人になりたい」という夢があったとして、当時なら「馬鹿じゃん」と一蹴するだろうが、今なら全くそうは思わない。

一見すると荒唐無稽であり幼稚に見えるが、本質的な望みが「有名になりたい」と言葉通りであるとすれば、実は具体性と汎用性を持つ、実現可能な夢であったりする。

手段がTV他メディアでもYoutube他SNSでも政治家でもなんでも、とにかく大衆に名が売れれば良いわけで、決して容易ではないとは言え、誰にでも様々なチャンスがある、むしろフィジビリティの高い、そこそこ控えめな夢とさえ言える。

皮肉を言えば「安定した生活を送りたい」の方がよほどキツイ夢だ。

話を戻して、私の夢

私の場合、「絵を描く」という圧倒的に好きなことがあったのは自覚しつつも、「絵描きさんになる」ことについてはかなり違和感・抵抗があった。

それが実現可能性の低さに起因する恐怖心 すなわち覚悟なり勇気によるものだろうと結論づけていたが、何にせよ「何となく絵描きになりたいと思っていたが、諦めた」というストーリーだと自分で納得していた。

だが実は「絵を描く」ことそのものが夢では無かった。
もし絵描きを目指していれば、比較的すぐに気付きはしただろうが、何にせよ私の判断は間違ってはいなかった、とは言えるだろう。
いや、是非そう考えるようにしよう。。

どれだけ早く自分の夢を見つけられるかは、運だ。

まず自分の感性を信じる力があって、それを阻害(否定したり馬鹿にしたり)する要因がなくて、感性を育てる環境に身を置くことができれば、もっと早く到達できたかもしれない。

やりたいことが見えてきたら

過去noteにまとめた通り、なんとかやりたいことは見えた。であれば、その夢に対しどうアプローチしていくかだけの問題になってくる。

(幸いにも)私の夢は「名を売る」「それで食っていく」など、他者の評価をに依存しないと成り立たないタイプのものではないため、仕事の傍らでコソコソと出来るものだ。

そこには悲観も楽観もなく、どこまでやれるかだけのストレートな道しかない。じゃあやればいいじゃん!

なのだが、ここで問題が発生する。

夢に割く時間の少なさ

「時間が足りない」

当方、38のおっさん。フルタイムで会社員をする、一児の父だ。

平日は言わずもがな、休日だって結局、子供のお出かけなり何なりで、完全にフリーな時間など実質ないようなものだ。

退屈で仕方なかったこれまでの人生が、前述の夢の発掘で一転、
自らの裁量で自由に動ける時間はとても貴重なものとなった。

あまりにも急激な見え方の変化に、私は色々なところで対応できていない。
その代表例が、残り時間に対する危機感だ。

風邪をひいて実感する、人生の残り時間の少なさ

よく考えると、物理的に私に残された時間はそう多くない。

40歳手前というと、平均寿命から逆算すれば40年近く余命がある。ようやっと折り返し地点。とは言え、それは「死」をエンドポイントにおいた計算であって、やりたいことができる時間とイコールではない。

2週間前、私は久々に風邪を引いた。これがまぁなかなか治らない。
35歳くらいまでは、家系ラーメンを食べて1日ガッツリ寝ればほぼ回復していたのに、ココ最近は一度完全に風邪を引いてしまえば、平気で2週間は咳が残ったり、だるさが残ったりする。

無意味に徹夜してもなんとかなっていたが、最近だと夜勤後数日間程度は無理できないダルさが残ってしまう。

あからさまに老化を感じる。
そしてこれは予兆でしかなく、加速度的に老化は進むだろう。
40歳、45歳、50歳と、ぐんぐんと体力は衰え、一層無理が効かなくなってくることは、統計上自明の理だ。

感覚的に、体力的な制限をとっぱらった本当にやりたいこと にチャレンジできるのは、45歳くらいまでの、今から7〜8年間しかないだろう。

本当に時間はない。
無駄なことに時間を割いたり、迷っている時間はそうないと、もっと危機感をもたなければならない。

どうでも良いことに時間を割くことに対する危機感

時間がないはずなのに、よくわからないことに時間・労力を割いてしまうことがある。

最大の例は、対人関係でのイザコザを起こしてしまう ということだ。

家庭内、会社内などにおいて、イザコザが発生するとめちゃくちゃ消耗する。揉めている実時間以外に、その後も尾を引くので、かなりの時間そのことばかりを考える羽目になる。

対人関係の揉め事など、百害あって一利なし。
捨てられるプライドなら早々に捨て去り、今最も重要なことに労力を割くべきだ。

さて、ようやく本題に入る。

対人関係のイザコザを排除するには

仕事でも家庭内でも、しばしば感情的になるシーンがある。
これを避けるべく、分析と解決法の検討をしたい。

期待しない を深め広げる

結論から述べると、誤った「期待」が怒りを産み、どれだけ深く広く「期待しない」よう構えられるかこそが、対人関係における大人"さ" ではないかと考えた。

この大人"さ"を極めた状態、つまり、誤った「期待」はしないが間違いを押し通されるようなスキも見せない、真にフラットな目線 を会得できれば、他者の行動によって一喜一憂することは無くなるのではないだろうか。

仮にそうなれば、イザコザを回避することに加え、究極的には世を悲観することもなくなるのかもと思ったりした。

ユースケース

この年齢になると、感情的になる(要は怒る)直接的な要因がわかりやすくなくて、自分にないか、そもそも甲乙つけがたいもの(見方によって線引きが難しいこと)のほうが多くなってくる印象だ。

お仕事で

私の場合、仕事でよくあるパターンが、
「言っていることは正しいが、言い方がキツイ(良くない)」もの。

論理的にはこちらが正しく、非は相手にあるのだが、
組織内における序列の都合、その局面における立場、背景などを踏まえた時に、"和を乱す、波風を立てるような動き"が、本質的な誤りへの指摘(正しさ)よりも優先される というあれだ。

この持って行き方は上役の顔に泥を塗ってしまうので良くない
この人の出世のため、華(手柄)を添える
上役が感情的になることを避けるため事実を捻じ曲げるetc

私の今の職場はそういうのが多い。
わかっていても、たまに怒ってしまう。

お家で

家でも似ている。
仕事と違って厄介なのは、明確な役割分担や責任分界点が不明瞭かつ答えがない点。

家事育児仕事の割合。
「自由さ」の議論。
「忍耐具合」の議論。
どんな家庭でも、まぁだいたいこのどれかでは、まずもって揉める。

詳細は省く。

くだらない論争は必ず起きるもの

会社内における前述のような論争も、家庭内における論争も、いずれもほぼ避けることができない。

判断の軸が個人的な感情/思い込みによって捻じ曲げられること(端的に、頭のよしあしのバラツキ)を除けば、組織内における人間心理的に、こういった議論が発生するのは自明の理ともとれる。

だからなくすとか避けるというのはナンセンスで、どう受け止めてどう処理するかがポイントになると思う。

「怒る」のはどんなとき?

そもそも何に怒るのか。

私の場合だが、仕事の特性上もあるが、あまりにも酷い段取りによって発生した問題のケツを、悪びれなく or 繰り返しこちらに持ってくる場合に怒るケースが多い。

それ、2週間前に言ってくれてれば全く問題なかったのに"なぜ"今更もってくるの? とか、 "なぜ"そちらの合意をとらないまま決定してしまったの? とか そういう類だ。あるあるだ。

誰しもイラっとは するはずだ。
問題は、このイラっとするメカニズムにあると思う。

要は「恐らくこれくらいのことをやってくれる"はずだ"」
という「期待(想定)」があって、これを一定以上超えてできなかった場合、イラっとする。

だから期待しないのが大事 だけど・・・

だったら、はじめから期待しなければ、怒ることは無くなるはずだ。

比較的すぐ怒ってしまう私も「どうせできないんでしょ?」と予め構えておいた事項については、冷静に対処できている。

「まじでそんなこともできないの?」ということは、38歳になった今も不思議と継続的に尽きない。読みが、外れる。

諦めず、ちょっとずつ怒った事例を自分のデータベースに積み上げていって、次に同件が起きた時に感情的にならないように"学んで"いる

のだが、どうもこのデータベース積み上げ方式でも、特定のタイプの人は感情的になることを抑えられない傾向にある。

どうしてもイライラしてしまうタイプの人はいる

ある程度身構えていても、やっぱり怒ってしまう場合がある。

少し自己分析してみた時、恐らく共通しているのは
「期待などしてないが、"それは流石にやっちゃだめでしょ"というラインを下回ってやらかし、しかも何度注意しても全く成長しない人」だ。

この"それは流石にやっちゃだめでしょ"とは、
その人固有の「拘り」とか「正義」とか「常識」と呼ばれる、
要するに譲れないラインを超えたこと だと私は思っている。

期待することと決別した世界線について考える

私は多分、とても性善説で世界を捉えてきた。

正しさが尊重され、間違いは正されるべきで、優秀さは尊重されるべきだと信じてきた。

だが往々にして、そんな理想郷が実現されているのは局所的だし、そもそも合理性と性善説に則った世界が形成されなければならないのは、それくらいしか正義がないと考えた、夢のない人間の消去法の世界だ。

本質的な正しさよりもその場しのぎの耳障りの良いことが優先され、間違いには蓋をして、愚者が声を大にして騒ぎ立てる世界がそこらじゅうに広がっている。

それはなぜだろうか。

ちょっと考えればわかることだ。
そりゃそっちのほうが楽だからに決まってる。

その場を凌いで人に押し付けて逃げてしまえば、自分だけは救われる。
それが許されるかどうかを決めるのは、その組織のルール次第。
嫌われようが、ルールにさえ準拠していればOKだ。

そして恐ろしいことに、自らの夢を優先し、どうでも良いと割り切った範囲を最小限の労力で凌ぐ生き方は、自らの夢を最優先し、最大限の幸福を享受する上では正解なのかもしれない。

イライラしてはならない。
むしろそっち側になるべきだ。




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