見出し画像

「美しい幻想風景」を撮る要素:その2 〜幻想さの松竹梅〜

はじめに(結論)

前回、「美しい幻想風景」を撮る4要素(浅はか編)と題して、幻想的な風景に必要な要素についてさらっと分析してみた。

大筋で間違ってはいない気はしつつ、少々乱暴な整理である気がしてきたので、この記事で検討を深める。

結論、幻想的な風景には希少な要素が必要。だがこの"希少な要素"が"誰にとって(何人にとって)希少か"で、「幻想性」の社会的評価、影響力が決まる ということがわかってきた。

詳しく記す。

おさらい

以前の記事で、下記の要素をどう組み合わせるかが自然風景の表情を変化させる要素だ、と定義した。

  1. 季節性・状態(新緑、紅葉、開花、枯れ木etc)

  2. 天候(快晴、雨、雪、くもり)

  3. 日光の差し方・時間(朝日、日中、夕日、夜)

  4. 自然現象(靄、霜、露、虹、風etc)

  5. 光の選び方(サイド光、逆光、順光 など光の方向)

  6. 構図

  7. 画角

  8. 現像

  9. オプション(野鳥を入れる、何かしらアイテムを添える など)

このうちで、特に「4.自然現象(靄、霜、露、虹、風etc)」における「霧」という要素と、前回、「美しい幻想風景」を撮る4要素(浅はか編) で述べた「白基調だと幻想的に見える」という点から、改めて「人が幻想的と感じるのはどういった情景か?」を再考する。

北海道の住民にとって雪景色は幻想的なのか?

私は神戸市出身、横浜市在住の人間だ。
故に雪には縁遠く、年数回程度の雪か、スノボ旅行で東北・北海道に行くことでしか出会えない、貴重なものだ。

だからスノボ旅行に行った時、特にシーズン一発目、白銀のゲレンデに降り立った時、思わず走り出して雪に顔を埋めたくなるくらいに興奮する。白銀の世界は、それだけで幻想的だと私は思う

それは人間誰しも同じだとも思いつつ、
単純に私にとって雪が珍しいからだ、とも考えることができる。

さて、東北や北海道に長年住まう住民にとって、白銀の世界はどう映るのだろうか?

白一色に染まった冬の景色は、多分ある程度は「美しい」と思う気はするが、果たして「幻想的だ」とまで言えるだろうか。

仮説1:幻想的な風景に"慣れた人"は「幻想的」と感じないのか?

「幻想的」という印象・感情は、その人にとって珍しいものかどうか ということがかなり大きな要素になっているのではないか。私を例に考えてみる。

私は出身地の都合で三宮のハーバーランド付近の夜景は非常に多く見る機会があった。就職してからは職場と住居の都合で、横浜みなとみらいの夜景
もほぼ日常と言える環境にある。

そんな私の今のフラットなそれぞれの印象は
「行けば見れるけど、やっぱり綺麗な場所」だ。

あそこを超える夜景はなかなか無いので、間違いないなとは思うし、絶対値的な感覚では「幻想的」とは、うーん、、、やっぱり感じる

てっきり「もう日常の風景なので何も感じません」と感じるかと思ったが、残念ながらそう簡単ではないようだ。難しい。

もう少し深堀して仮説を立てて考えてみる。

仮説2:見慣れているかどうかで強弱は変わるものの、その希少度が高いと判断した人にとっては幻想性は損なわれない?

みなとみらいの夜景は腐る程見た。
でも相変わらず「綺麗」「幻想的」とは思う。
 ※私の場合、そこに、残業というマイナスの思い出補正はかかるが

見慣れていれば、幻想的とは感じなくなるのでは?という仮説は崩れた。

では、その光景が「幻想的か、そうでないか」を決める要素に、観測者側の主観は関係ないのか?客観的・社会的な評価に依存する?本当か?

例えば、「神戸ハーバーランド」や「みなとみらい」は、「都市」であり、ほぼ自然風景に近い普遍的な規模の景観と言える。

そこまで多くの都市を見たわけではないが、少なくとも日本においては、まぁ十分キレイな夜景を見せてくれる都市だよね、というのは、ほぼほぼ否定されることのない意見だと自負がある。この自負は一定の妥当性も提示できる(夜景何選とか)。

社会的に一定程度認められる希少性があるから幻想性が損なわれないのか?

では逆の理論で。

人生経験の浅い子供の頃、いまとなっては当たり前と感じる様々な些細なことに感動を覚えていた気がする。やはり、個人の主観として、それが自信にとって初めて目にすることは、(幻想的かどうかは別かもしれないが)大きな感動があるのは間違いない。

・・・なるほど!

「幻想的である」と感じる源泉に「希少性」は絶対的に存在している。ここまでは正しい。次にその「希少性」に「永続性」が付与されるかどうかは、ものによる、ということか。

子供の頃に目を輝かせていたことがあったとして、それが大人になっても変わらず希少なものと思えるかどうかは、ものによる。大人になって再検証しても、相変わらずこれは凄いよね、と耐えられるか、いやいや、こんなのどこでもあるよ となるか次第 ということだ。

「神戸の夜景」「横浜の夜景」は、いずれもたまたま出生地や職場の関係で触れる機会が多かっただけだが、旅行や知識でそれ以外の夜景を知っていく中で、もちろん上を見ればキリはないが、でも日本最強クラスの位置はキープし続けており、どこでも見れる「わけではない」と、年月が経っても思える、ということだ。

仮説3【結論】:幻想的な風景には希少な要素が必要で、この希少な要素が誰にとって(何人にとって)希少かで、「幻想性」の社会的評価が決まる

より整理すると

子供の頃に目を輝かせていたことがあったとして、それが大人になっても変わらず希少なものと思えるかどうかは、ものによる。

大人になって再検証しても、相変わらずこれは凄いよね、と耐えられるか、いやいや、こんなのどこでもあるよ となるか次第で、幻想性がいつまで継続できるかが決まる。

この「再検証」が自分自信の経験や知識によってのみ判断されるのが主観での「幻想的かどうか」のライン。

さらに自分の主観を超え、客観的な評価も含めると「普遍的に」幻想的かどうかが判断され、究極的には、第三者に専門家や統計情報を含めて評価して希少性があるというラインを超えた場合、無条件に幻想的だと言える。

大変キレイに整理ができた感触だ。
「幻想的だ」という、本来各個人によってバラツキのある感情を、再現性をもって導き出すためにはどうすればよいかが見えた気がする。

幻想要素の松竹梅

前述で整理した結果を踏まえ、先に挙げてきた幻想要素について、私の理論に基づいた松竹梅で分類する。

【梅】湖面リフレクション

例えば前回、「美しい幻想風景」を撮る4要素(浅はか編) で述べた「湖面のリフレクション」が幻想的な風景の要素として重要、と述べたが、もはや既に私の中でリフレクションには感動しない。

リフレクションそのものは、究極そこらの水たまりでも代用できるので、湖面の波の無さ具合、あえて波紋を表現に取り入れている、など、もっとマニアックな所で評価している。

これは私がリフレクションを風景写真の「おいしいツール」として活用し、身近な存在だと感じ始めているからこそ、であり、もしかするとそうでない人には全然響く要素かもしれない。

「湖面リフレクション」は、カメラ界隈には響かない という限定が入る幻想要素だと表することが出来そうだ。

【竹】朝靄・雲海

一方、有名撮影地(覚満淵、大正池など)またはそれに相当する絶景の朝靄や、標高の高い山頂からの雲海 といったものは、まず撮影地に赴くことが比較的手間であり、かつ朝霧や雲海が機構によっては発現せず、しかも極めて短い時間帯に発現するものだと、カメラ界隈でも知られるものだ。

あれに出会うには運と手間が必要で、つまり普遍的に希少なのだ。

よって、そういった知見がない人間にとって、シンプルに写真として幻想的であり、かつ、専門家クラスター(カメラ界隈)にとっても決して容易とは言えない(がんばったやーん!とか、ラッキーやったね!みたいなレベルではあるが)ため、普遍的に幻想要素として評価できる要素と言える。

【松】超希少な自然現象(ダイヤモンドダスト、樹氷、オーロラetc)

言わずもがなだが、実際に非常に限られた条件や土地で発現する自然現象は普遍的に幻想要素として評価できる要素と言える。

これは検討前から理解していた。(まだそれを目指すほど気合入っていないので検討から外していた。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?