見出し画像

「手巻き寿司」 けっち



先日、英会話のYouTubeをみていたらゲストがウィル・スミスでした。いまは素人がハリウッドスターをゲストによぶ時代なのか……と驚愕。もちろんウィル・スミスが友人として出演するわけではなく、映画の宣伝として来日した際に人気YouTubeの番組にも顔をだした、という流れではあったのですけれども、それでも人気さえでれば自分のところにウィル・スミスがやってくるんですから、時代は本当に「実力至上主義」へと移り変っていってるんですね。

印象的だったのがそのYouTubeのメインテーマが「ウィル・スミスと手巻き寿司をつくってたべよう」というもので、ふだんは出演番組のなかで食べることがないらしいウィル・スミスがワアワア楽しみながら手巻き寿司をつくってもりもり食べている姿が新鮮でした。ウィル・スミスにとっても、むしろハリウッドの大スター、ウィル・スミスだからこそ「寿司は(職人から)握ってもらうもの」であって、きっと「自分でつくる」機会がなかったんでしょうね。

おもえば「手巻き寿司」というのは美味しい以前に「たのしい」ものです。寿司屋ではネタを注文する順番やら醤油のつけかた、寿司ネタの呼び方にいたるまで一種の厳格さがあり、客と鮨職人の立場が店によっては逆転しているような高級店もあります。リラックスして食べるというより、ピンと背筋をのばして職人と鮨をつうじた会話をしにいくような、そんな鮨屋がある一方で、手巻き寿司にはルールがありません。

あの日本人の度肝をぬいたアボガド入りの「カリフォルニア・ロール」でさえ、手巻き寿司というフィールドにおいては「発明されたときから時代おくれだった」ほどに、手巻き寿司は昔からなんでもありでした。鮨屋で静かにルールを守りながら「つまむ」一方で、家庭であぐらをくんでツナやマヨネーズや時には焼肉や納豆や野菜を自分ルールで巻いて食べる自由な寿司が日本の家庭の一般的な人気メニューだったわけです。

手巻き寿司と鮨。この両極端なスタイルをあわせもっているからこそ、sushiというメニューはずっと日本人に愛されつづけているのではないか。そういえば回転すしというジャンルもありますね。家では手巻き寿司、外でお手軽な回転すし、ごちそうとしての鮨屋。どれも同じように寿司なのだから、本当はどれか廃れてしまってもおかしくないのに、回転すしも高級鮨も、家庭の手巻き寿司もそれぞれうまく棲み分けて栄えているのも不思議です。僕はやはり、寿司人気を支えている原点は「家できらくに食べる手巻き寿司体験」があってこそだと思っています。

あ……この鮨、最高にうまいな……と高級にぎり鮨を食べたときその旨さに気がつけるのも、自分が「手巻き寿司」というかたちで食べているものをベースとした体験があるので「えっ、職人が握るとこんなに俺の手巻き寿司とちがうの?」と発見できるのではないでしょうか。そしてたまに緊張して(お金をたくさんはらって)食べたあとの家庭でつくる手巻き寿司の開放感に、ヨガでいうところのシャバアーサナ的な癒しを得て、「家で食べる手巻き寿司がやっぱり好きだよ」とホッとしたり、そしてまた鮨屋に行っては感動する。その繰り返しを通じて寿司という食べ物にあるとき「文化」を感じる自分をみつける。親しみや愛情が深まっていった先に感じるのは文化なのではないか、と思うんです。というわけで、僕もちかいうちに、ちょっと高級な(そして洗練された)鮨を食べたいです。もちろんそれから数週間たって食べる、家の手巻き寿司をたべて「やっぱりうちが最高だな」ということもわかりつつ。今日もありがとうございます。

この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?