死と愛と幸せ

少し、書きたいことが思い浮かんだので筆を取ることにした。

普段あまり使わない場所に書いているのは、すぐに目についてしまわないためだ。

自己防衛でもあるし、他者防衛でもある。

彼女の目につくことは構わないけれど、自分の心のうちをさらけ出して、それで傷ついてしまわないようにと思って書いている(とはいえ、多分マイナスではない、はず)

死は、平等に、万人、万物に降りかかる。人類史が始まって以来、誰1人として死から逃れてはいない。

死をずっと恐怖に感じてきた、自分にとって"死にたい"という言葉は、小学校の頃に使っていたような気がするが、いつの間にか怖くなって(というより意味を考えて)使わなくなっていた。

うそ、3ヶ月前に使った。自分の思い通りにならない部分にぶつかってしまった時、その無気力感から発言した。

そう思うと無気力感をずっと感じているのだろうか。それがずっとまとわりついている空間にいることが苦痛で死にたいと感じるのだろうか。

聞いてみてもわからないと返ってくるならば、考えるしかないが、わからない以上近しいものも見当がつかなくてわからないのだ。

少し逸れそうになった。いじめによって自分の栄光ある道筋、進んでいた華やかな道筋が閉ざされてしまい、一方でいじめていたやつがその道を進むこと、それが身内であることがどれだけ苦痛であろうか。今回の事件にしろ、見えなかった世界が多くて嫌になる。自分の世界がどれだけ豊かで、落ち着いていたか。当たり前だが東京の景色は日本の景色ではない。

いじめによって閉ざされた道、停滞することになった世界で、そこにいる子に何をすれば良いのか。何が正しいのか。何をするのが本当の意味で彼女のためになるのか。それがわからない。さっきいろいろ考えたのは、自発的な活動を促すだとか、本人の意思を尊重するだとか、何かをやらせるだとかだけど、これってとても独りよがりというか、無意味な気がしている。

否、別に無意味ではないのだけれど、気を紛らわせる行為の延長線上でしかないのだ。というより、本人がしたいと思わない部分を尊重したとて、意味はないのだと思う。促すにしろ尊重するにしろやらせるにしろ、そこには結局本人の意思ではなくこちらの親切風な心しかのこっていないわけで、本当の意味で彼女の助けになるのは、彼女が助けてと言った時だけなのだ。余計なお世話にしかなり得ない。

たぶんだけど、やっぱり人が人にできることはお手伝いのお延長線上でしかない気がした。本人がしたいことをするのが一番、であるならば自室に引きこもり続けようが、人と話すのを恐怖し続け回避しようが、体を売ろうが、人の興味を引くための行動をしようが、全て本人がしたいことであるならばそれが正しいのではないか。なら自殺と言うのも正しいのだろうか。

いくら症状の克服のために認知行動療法が必要だとして、自傷行為が心にダメージを与えるからやめた方が良いのだとして、慣れが必要であるとして、これら全てが、社会に適応できる人間(もしくは最低限のラインの人間)のための正しい行動だとして、幸せになれる行動だとしても、本人がやりたくないのであればそれは正しくないんじゃないか。

もうわからないのだ。自分が何をすることが彼女のためになるのかわからない。

本当に変わりたいと願うその心を自分でもって、自分自身で努力して、歯を食いしばって、できたことを喜んで、できなかったことを悔いて、一喜一憂して、それでも少しずつ進んで、成長の実感を得れるのが、それがゴールな気がする。そのための手伝いをしてほしいと頼まれた時が、自分が何かできる瞬間なのだろう。

それがいつになるのか、早ければいいが、遅くても構わないが、一生来ない可能性もある、自分との時間がズレてしまう可能性もある。だから早くできるようにサポートして急かす。

結局その行動の全ては自分本位でしかない。そんなことはわかっていて、というよりもう何年も自分の行動軸は自分本位だから、とても身勝手に見えるだろうけど、そのおかげで自由に打算なく人に優しくしていた気がする。(それは別にいいや)

またズレそうになった。結構戻るかも。

結局死は平等に訪れて、そのことから今やることすべてに意味がないんじゃないかと感じたり、自分自身の存在がどうでもいいのかと思ったり、無気力で何も手に入らないと思うことの対処法というのは、俺がどうこうする話ではなく、当人自身が自分の人生に意味を定めるという行為をしなければ、解決しない気がする。

人生の定義づけ、それをしなければ、自分の人生を自分自身の責任下に置けず、他者に振り回され、他者のせいにし、他者に食い物にされてしまうからだ。

私自身もかなり疑心を持っているが、疑心は世界を歪ませる。疑心に振り回され、疑心にコントロールされる世界では、本当に信用できる人でさえも歪んで見えてしまうからだ。

その不安は誰の不安、自分の不安、だからそれを解消できるのは自分だけで、それを人に押し付けるのは悪い方向に進んでしまうのだが、そういった教育をされていればそのような行動をしてしまうし、自分で理解した上で強い自制をかけなければコントロールできないだろう。

疑心を持ちつつ、それに振り回されない方法は騙されてもいいと思うことしかないと思う。ピエロでも構わないとし、プライドを捨て去ること、プライドを折ることだと思う。自分自身の特性を愛し、共存し、うまい方向に導くようにし、現状を素直に認め対策を立てることだと思う。とはいえこれを求めるのは酷なのだろうかと思ってしまうと、多少の言及はすれどはっきりと伝えることはできない。

思考を捨て、楽になること、逃げることで幸せになれるのだろうか、自分はそう思わないが、そう思わないのは自分だけなのかも知れない。結局エゴの押し付け合いであるならば、余計なお世話をしているのは俺なのだから。

たぶんこれ、悪影響ある文だから目につかない方がいいな、俺の思考も固まってないのに見せるもんじゃない。

俺が思う楽や幸せと彼女が思う楽や幸せが違うならば合わせる必要はなく、尊重するのが筋なのだろう。


でも大好きで愛していて、助けたいと思ってしまうのだからどうしようもない、人間不完全すぎる。

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