Pelliculeって知ってる?

今日の俺はちょっぴりポエミー。
さて、本題。d

Pellicule(ペリキュール) 仏語
意味:(写真や映画などの)フィルム
   薄皮・薄膜・被膜
   ふけ

………ではなく、俺が聞きたいのは不可思議ワンダーボーイの楽曲について。
2011年に夭逝してしまったラッパーなんだけど、この歌がめちゃくちゃ刺さった、いや、刺さってるのでちょっと紹介したい。

ラップって言っても通常のラップともサクラップとも違って、ポエトリーラップと言われるジャンル。
ポエトリーラップがなにかっつーと、要は詞をラップのビートに乗せて聴衆に叩きつける感じ。変なテクニックとかじゃなく、思いの強さが曲の強さにつながってる気がする。
最近だと、Morohaとかがそれに当たる。俺もMorohaを先に知った口である。

で、この曲なんだけど、どういう曲かっていうと、思春期と青年期の入り交じる微妙な時期の心情を、久しぶりに会った友人との会話っていう体で語っている曲だ。
Pelliculeって言葉の意味は冒頭で紹介したとおりで、なんとなく思い出話っぽいからフィルムって意味合いが強いのかもしれないのだけど、個人的には「膜」って意味が腹落ちした感じがある。

20歳で大人って言われて、でも別に働いているわけでもない。
20代前半っていうのはとかく不安定な時期だと俺は思っている。
だから、特に意味もなくインドとかに言ってみたり、特に深く知りたくもないのに哲学に手を出しちゃったり、村上春樹の厭世的な雰囲気にハマってみたりしてしまう。かくいう俺も、ちゃんとヤレヤレ系主人公(的なモブ)だった。

んで、そういう大人とも子供とも言えない時期ってのは最高に自由なようで、実は過去の自分の願望や、社会からの圧力、未来の自分への希望や諦めなど、過去と未来の板挟みにあっている時期でもある。
最高に自由で最高にお気楽で最高に厳しい不自由な時間。それが20代前半なのである。

歌詞を書くと、どこぞの秘密結社に扉をノックされて俺の未来が閉ざされてしまいそうなのでニュアンスだけで紹介するのだが、この曲の歌詞の中には、なにかに囚われて身動きが取れない様子がありありと表現されている。

曰く、来るべき何かが来ると思ってずっと待ってたり
曰く、何かが終わっていくと思ってみたが、始まってすらいないと絶望してみたり
曰く、誰も自分たちのことなんか見ちゃいないと言ってみたり

過去を美化するでも、将来に悲嘆するわけでもない。
だが、過去には戻れないし、無邪気に将来に希望を託せるほど若くもいられない。だから、曲の登場人物は戻れない日々を思い出したり、ありもしない未来について語ったりなんかしてウサを晴らす。
カッコ悪いけど、誰も俺たちなんか見てないよと自嘲しながら。

結局、曲の中では現在が出てくることはない。
見ようとしていない節さえある。
過去も未来も現在でさえも、全てが薄い皮に覆われている。
見ようと思えば見えるのに触れられない。そんな状態だ。
でも、実は過去や未来は閉ざされているのではなく、覆われているのは現在だけなのだろう。
今の視点が曇っているから、過去も未来も濁って淀んで見えるのだ。

この曲ほど青臭くなくても、いつだって現在というのは過去と未来の板挟みだ。選択を強いられるのはいつだって現在である。
この選択というものに、恐怖心や漠然とした不安を覚えると、人の現在というのは薄皮に包まれてしまうのかもしれない。

切り開くすべは、なんなんだろう。
俺にはまだまだわからない。
だからこそ、この曲が刺さってしまっているんだろうなぁ。

なんて思った夏の日でした。

この感想どうこうは関係なく、Pelliculeはいい歌です。
ぜひ、聞いてみてね。


https://www.youtube.com/watch?v=ueq2QFIIpu0


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