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家にいる日々

本当に、家の外に出る機会が減った。

仕方のないことだとは思う。平日は水曜しか出社をせず、それ以外はリモートワーク。その時点で1週間の半分以上は家にいることになる。そのうえ土日も、誰かに誘われない限りは終日家にいる。

家で何をやっているかというと、別に映えないようなことばかりだ。9時くらいに起きたら、家に何も食料のないことを確認して、他の人だったらゴミ捨てくらいしかできないような格好のまま、歩いて10分のパン屋までバゲットを買いに行く。もうすっかり顔を覚えられているのに、みんな私がだるんだるんの部屋着にすっぴんでも何も言わない。

バケットを抱えて家に戻ってきたら、あらかじめ沸かしておいたお湯でコーヒーを淹れる。豆の種類にこだわりはないけれど、朝は浅煎りか中煎りがいいな、くらいの気持ちでいる。コーヒーが入ったらバゲットを少し厚めに2枚切って、皿に乗せて20秒だけチンする。バゲットはカリカリよりもちもちの方が好きなんだということを、つい半年前くらいに知った。

普段は部屋の中央に置いてある座卓を窓の方に寄せて、その上にバゲットとコーヒー、そしてこの間フランスで爆買いしてきたエシレバターを置く。たくさん買ってきたエシレバターだが、まだもちもちのバゲットに乗せて食べる以外の方法で消費できていない。もしゃもしゃと咀嚼してフランスの風を感じつつ、部屋の端の方の本がつまれたスペースにずいと身体を伸ばし、適当な本を二冊くらい取ってペラペラとめくる。

つい四年前くらいまでは、雑誌のアンドプレミアムみたいな日々(偏見)が続くことに緩やかな衰退を感じていた。それが今となっては毎週のようにコーヒーとバゲットと本とともに週末を享受しているのだから本当に人間というものは面白い、と、自分のことなのにどこか他人事のように感慨深くコーヒーを啜る。そして同時に「本当はずっとこういう日々が欲しかった」と思う。

ここ数年、家に留まることを忌み嫌い外に出ずっぱりだった間も、家がなくなったわけではなかった。帰って寝る場所はいつだってわたし以外の人間の許可なしに誰かが入ることはない、間取りだって家具だってわたしだけが決めていい、自分だけの家だった。そういう場所に寄りかかりながら、家という場所の必要不可欠さを意識せずに生きてきたここ数年を振り返ったとき、「わたしは今、蔑ろにしてきた年数分だけ、家のことをやっている最中」と思う。

家は、意識下にあるときも、ただ帰って寝るだけの存在になっているときも、いつだって物理的に存在するものだった。けれどその存在にどっぷり甘えて衣食住を蔑ろにする日々が続いたぶんだけ、捨て置いたものをもう一度拾い集めて慈しむ日々がやってくるようにできている。そうしなくてはならないわけではならないけれど、そうせずにはいられないくらいには、わたしは生活と一蓮托生だったのかもしれない。


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