見出し画像

吉野家生娘シャブ漬け牛丼事件にみる想像力の厄介さ

「生娘シャブ漬け戦略」なるドン引きワードが世間を騒がせている。
牛丼チェーン吉野家の取締役伊東正明氏が社会人向け講座において、自身のマーケティング戦略について「生娘をシャブ漬け戦略」と呼び、これが大きな問題となった。

ネット上ではこのほかにも伊東常務が「田舎から出てきた右も左も分からない若い女性を無垢・生娘なうちに牛丼中毒にする」「男に高い飯をおごってもらえるようになれば、(牛丼は)絶対に食べない」などと発言したとの「投稿」が公開されていました。

吉野家は「一言一句については分かりかねる」とした上で、講座でこうした趣旨の発言があったことは認め、発言は「極めて不適切であり、人権・ジェンダー問題の観点からも到底許容できるものではない」と謝罪しました。

吉野家は「発言は一度利用した客の継続利用を図る意図があった」と釈明していますが、今後の対応については主催者に改めて対面で謝罪をするとともに、本人の処分も含めて検討しているということです。

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye6013755.html

要するに「中毒性のある味付けにすることで、お客さんにリピーターになってもらうための戦略」という、ごく常識的なマーケティングの話をしているだけである。私は飲食店を経営したことはないが、飲食店の経営者であれば誰もが考えている問題ではないかと思う。

「生娘シャブ漬け戦略」というワードそのものからは極悪犯罪的な印象を受けるが、その内実は拍子抜けするほど平凡な話であった。
この極悪犯罪ワードについて吉野家は「発言は一度利用した客の継続利用を図る意図があった」と釈明しているのだが、だったら最初からそう言えよと突っ込みたくなる。なぜごく平凡な話を、わざわざみんながドン引きするような表現に言い換えてしまうのか?

もちろん、伊東氏もこうなることがわかっていたら別の穏当な表現に言い換えていただろう。これほど大きな問題になることが想像できなかったから厄介なのだ。いやもっと正確に言えば、

1.中毒性のある味付け→中毒といえばシャブ
2.高級な料理を知らない上京したての若い女性→まだ男を知らない生娘
3.生娘をシャブ漬けにする戦略だ!

と連想していってしまった伊東氏の豊かすぎる想像力が厄介なのである。

豊かな想像力は人間にとって大きな武器である。ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、ホモ・サピエンスは虚構を信じる力によって文明を発達させてきたのだと考察している。伊東氏の脳内で展開されたこの連想もまた虚構を信じる力である。そうでなければ、食べ物の味付けと生娘シャブ漬けという犯罪行為がどのように関係していて、この2つはどのようにして繋がるというのか?
牛丼の味付けと、生娘のシャブ漬けという、全く関連性のない2つのイメージを連結させるこの力こそが人間の想像力であり、「虚構を信じる力(ハラリ)」である。

想像力の何が厄介なのかといえば、自分の意図したことを正確に伝えようとするとき、想像力の働きを上手く制御できないと、受け手に誤解されるような表現をしてしまう場合がある、ということである。

自分の意図したことを誤解されないように正確に伝えるには、一義的な解釈しかできないように、可能な限り無駄な表現を省いた簡素な表現を使う必要がある。とはいうものの、簡素な表現を使うというのが実は非常に難しく、継続的な文章の訓練が必要となる。文章を書き慣れていない人ほど、小難しい表現を使ったり、一文が長く難解な構文を使いたがる傾向がある。

この事件を知った時に思い出したのが杉田水脈の「生産性」発言だった。あの発言は「少子化対策をするなら子供を産めないLGBTカップルよりも異性愛者カップルを優先的に支援をしよう」という意図だったと、何かの動画で杉田が釈明していたのを見たことがある。LGBTカップルは子供は産めないというのは、男同士、女同士では(生殖腺を除去した者同士では)生殖できないという単なる生物学的事実であり、これ自体は批判・反論の余地はない。もし杉田がその通りに発言していたとすればおそらく炎上しなかったのではないかと思われる。
しかし杉田は、LGBTカップルは子供を産めない→子供を産めないということは生産ができない→LGBTカップルは生産ができない→生産性がない、と連想の果てに意味をズラしていってしまい、結果的に「LGBTカップルは生産性がない」との問題発言をするに至ってしまったのである。「子供を産める/産めない」という単純な話を、「生産性の有無」という受け手によって多様な解釈が可能な表現に変えてしまったのである。その結果、LGBTカップルには生産性がない→生産ができない役立たず→LGBTカップルには価値がない、と受け手側にも連想的に解釈をされてしまい、「LGBT差別だ!」と猛反発を食らうことになった。これも想像力の厄介な働きによるものだといえるだろう。

ところで、「吉野家生娘シャブ漬け牛丼事件」は今後どのように呼ばれるのだろうか。「生娘シャブ漬け」はさすがにコンプラ的にアウトな気がする。ではその部分をなくして「吉野家事件」だろうか。「吉野家事件」というと新撰組の「池田屋事件」を連想してしまう。全く関係ないのだが。ことほどさように想像力とは厄介なものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?