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映画「福田村事件」と沖縄と私

観なければいけない。そう思って、観た。観終えて、正確には映画の途中から、自分が“日本人”であることがたまらなく嫌になった。この事件の延長線上の、そしてもっと酷くなっているようにも思える“日本人”が大半を占めるこの社会を構成している1人であることが、嫌だと思った。

私を立たせてくれるもの

泣きはらした顔をトイレの鏡で確認もせず帽子を深くかぶって桜坂劇場を出て、ゆいれーるの牧志駅に向かった。壺屋小学校の脇を抜け、ゆいれーるの通りに出た時に「大丈夫かもしれない」とふと思って顔を上げた。「私も何もできないのか」という恐れに対して「何かはできるような気がする」と思えた、大丈夫の中身はそんな感じだ。

常に“大きなナラティブ”を疑い、他者の困難に自然と体が動くようなところのある母の姿が見えて、私をそんな気持ちにしてくれた。

子どものころに見た、電車の券売機の前で苦労している車いすの方を、迷いなく助ける姿や、戦争や平和を本や資料館、映画を通して学ばせてくれ、毎年8月15日は「敗戦の日よ。終戦じゃなくて」と呟いていることが次々に思い浮かんで、そこに何らかの「確かさ」があるように思えた。

“日本人”ではあるけれど、福田村事件を引き起こし傍観した人たち同様にその空気に黙っている私ではない、そう思わせてくれる母に感謝だし、そういう私がより確かになるように生きていこうと思えた。

加害と被害

私は小学校5年生の11月~2月か3月くらいまで、教室の中でいじめに遭っていた。クラス中から無視をされるようになって1,2週間くらいだった気がするが、掃除の時間のことを鮮明に覚えている。出席番号の1~5番までの男女10人が家庭科室掃除当番だった。その日は、私以外の9人が家庭科準備室から出てこなかった。私はたった一人で箒と塵取りを持って、家庭科室の床を掃いた。掃きながら悔しくて涙をただこらえた。悔しかったのをすごく思い出す。

みんなでキレイにするはずの家庭科室。10人にその責任がある。でもあの日、その責任は私一人に負わされた。見回りに来る先生はいなかった。家庭科室は普通教室から離れた場所にあって、その状況は私たち以外の人には見えなかった。私には「一人で掃除するしかない」という唯一の考え以外浮かばなかった。

ふと思った。今、沖縄に米軍基地が集中し、大多数の国民からは見えないがゆえ、そこで起こっていることを訴え、助けを求められる存在がいない状況と、小学校5年生の私の状況はすごく似ていないだろうか。

私を最初に疎外した級友は、勉強も運動もでき生徒からも先生からも重宝される存在だった。その人が言うことが正しいように見える世界。その人が何と言って私へのいじめのリーダーシップをとったのか、そういえば誰からも聞いたことはない。その人(とは中学3年間同じバスケ部。クラスが一緒のときもあった。卒業後の付き合いもあった。)からは一度もあの時のことの言及はなく、同じクラスだった他の同級生から「おまえ、いじめられてたよな」と、自らもいじめに加担していたことにはまったく触れずに半笑いで言われたことがある。

無自覚に延長線上に居続けるのか

福田村事件と私の家庭科室の話と沖縄は、全部つながっているように見える。少なくとも私には。

幸運にも私には、思い出すと今でも苦しいし悔しい経験があるし、他者と一緒に社会をつくっていくとはどういうことかを、いろんな方法で教えてくれた母がいて、他にも導いてくれる人や出来事があったから、延長線上にはいたくないとはっきり思える。

小学校5年生の、冬がもうすぐ終わるかなというころ、西日が差す階段の踊り場で「一緒に帰ろう」と声をかけてくれた友人がいて、私への無視はそこから少しずつ止んでいった。今思い出しても涙が出る、あのときの安心感と、きっと勇気が必要だったその一歩を踏み出してくれた友人の気持ちも、今の私を支えてくれるものの一つ。

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