眩い光の群れに思い出が宿るとしたら悲しい類の?楽しい類の?って聞いたのは初めて出会ってから数えて3回目の夜の頃。

 まずテンポが遅くなる。しばらくして視界が狭くなっていく。言葉が意味を持たなくなる。ゆるい眠気がやってくる。ちょうど向精神薬のデッドピークみたいな「もたつき」が身体に現れて、日差しは陰り、夕暮れになる。こうやって記憶は溶けていく。私たちはそれをサインだと気が付かずに、例えば恍けた顔で集まり、そうだな、やっぱり、酒を呑んで、集まるんだろう。

 大切なものと大切じゃないものって簡単に逆転する。あんまりピンとこない顔の君にも今までも、これからも、この瞬間にも、その逆転という運動は起こり得る。起こる。起こった。少なくともそのどれにも君の切実さ(切実さを秤にのせて値踏みをする奴らの言葉に耳をかしちゃいけない)が宿っている。だから不安よりも、安心よりも、興奮とか、ワクワク、ドキドキみたいな気持ちになるべきなんだ。失われたものは取り戻せる。抱きしめたものは失われる。そもそもの最初から失われてるみたいな感じに泣きたくなりそうな夜のお風呂場でも、君の裸体は具体的にも抽象的にも美しい。

 そも出会う為に言葉を交わす訳ではないのだ。別れる為に言葉を交わすのだ。出会った瞬間に「永遠の別れ」の砂時計は逆さまにされる。ブレーキは切れて、止まる為の全ての術は意味をなくす(この世界で誰が1秒を1秒以上静止させることができるだろうか)だから私も君も若さを失い、老いを得て、それすらも失う。その過程にあるのは、もうその視力では見ることの出来ない言葉たち。身体たち。エロの夜も、静的な孤独も、傷付けた所作も、傷付けられた心も、最後の瞬間にそれは正確な計測が出来なくなる。その有様を今私は「失われる」と形容しているのだけれど。意味を把握できなくなった君のピースサインの前で酷く奇妙な顔をしている自分。

 まずテンポが遅くなる。しばらくして視界が狭くなっていく。言葉が意味を持たなくなる。ゆるい眠気がやってくる。ちょうど向精神薬のデッドピークみたいな「もたつき」が身体に現れて、日差しは陰り、夕暮れになる。こうやって記憶は溶けていく。私たちはそれをサインだとは気が付かずに、例えば恍けた顔で集まり、そうだな、やっぱり、酒を呑んで、改めて集まるんだろう。

 自然主義的酩酊で所構わず欲望を振り撒く。誰が凹んで、誰が笑ってるのか、そんなもの全て関係ない。私たちは私たちと名乗ることで匿名の行為主体性を背景に物を言うが、そも私たちとは私と「溶けた幾つもの私」の総称であり、もうこの世界にはいない羊を連れた疲れた羊飼いの様である。だから私たちなんて欺瞞であり、それを暴く為の自然主義的酩酊なのである。

 貴方は最近ハッキリと思い出せる範囲で明確に誰かを傷付けた記憶があるだろうか。もしくは明確に傷付けられた記憶があるだろうか。苦い想いと共に、過ぎ去りし日も、これから到来する日にも、朝には忘れてしまう物憂げさで持って、傷付ける/傷付けられるでしか溶け出す私の再結晶化は不可能である事に思い至るのだ。初めて知るような顔をしてる君も、それは忘れてるだけ。普段は開けない引き出しの奥の方に包んである用途不明な塊。触った瞬間にわかり始める悲劇の笑えるスタート。

 だからこそ、その場に私を留めようとする行為は全て自傷行為なのだ。インターネットに転がる無限の自撮りが全て血塗れに見える。古いフィルムには全て血が付いているし、映画の音声は全てそこに留まることを強制された分裂した私の悲鳴である。

 生きるとか生きていくとかそんな事を言う恥知らずは、出会うために言葉を交わしてる、記憶は永遠に私に宿っている、誰かを傷付けない、傷付けられない。という敏感にみせた鈍感によって、目も当てられないほどの醜態を晒してること。君がいないこと、君とうまく話せないこと、忘れてしまったこと。

 涙が流れるから哀しいのか、哀しいから涙が流れるのか、涙流してれば哀しいのか、流れないから哀しいのか。

 合理主義者のセンチメンタルと感傷とノスタルジアにこぼしたジュースを拭いた昨日のクイックルワイパーを。

 春の日差しは私たちにこのまま死んだ方がいいってささやき続ける。うなずきそうになるのを何とか誤魔化してみせる君の顔を春の日差しは最も輝かせる。

 


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