ホッキチス症候群

(初出2016年)

 あなたの奥さんの症状は、ホッキチス症候群の方に見られるものです。ホッチキスではありません。ホッキチス症候群です。いえ、発見した人間の名前からではありません。最初の患者が確認された地名からきています。何故かといいますと、この症候群はその地域の方だけに見られるものだからであります。ええ、訪れた方も含まれます。残念ながら、治療法は確立されておりません。また、症状の進行を遅らせることのできる薬の認可はまだされておらず、現状進まないことを祈ることしかできないのです。
 具体的な症状には、倦怠感、躁鬱感などがあります。ですので鬱病などと診断されることもあるのでございますが、鬱病や統合失調症等とは一線を画するものであります。ホッキチス症候群の方はしばしば物を挟むことを好むのでございます。ええ、ホッチキスを使用することもあります。身近に挟むものがないのであれば、自身の手で皮膚をつまんだりすることもございます。その程度であればよいのでありますが、欲求は増すばかりであります。瞼を引っ張らないと気がすまないと、千切れて病院にやってきた方もおられますし、重いものを上から叩き付けるようにして、指が折れてやってくる方もおられます。当院の話ではありません。ただ、そのような奇怪な行動が見られますもので、ご家族の方や身の回りの方が、常に紙とホッチキス等など、止めることのできるものを与えねばなりません。症状としては挟むということですので、クリップ、ハサミ、マグネットなども対処法としてありますが、少し目を離すと彼らはそれを自身の体で試してみたいなんて考えてしまう上、感情の起伏が激しく、面倒が見切れずに病院に入れてしまう方もおられます。いえ、悪いことではないのです。悪いのは誰でもありませんですので、ええ、ですからお気になさらず。
 ホッキチス地域と言いました。いえ、それがどうしてこのような症状が現れるのか、それは誰にも分からないのであります。現地の環境に問題があるのか、あるとしてそれは食物なのか、水なのか、土壌や動物、虫なのか、全くもって分からず、ちんぷんかんぷんであります。あなたの奥さんはこれから、症状は進むのみであります。倦怠感は増し、外出や運動、会話も困難になるでありましょう。その一方、急に活発になることもあります。人それぞれでありますが、社会生活を支障なく過ごせる方、活発になりすぎてしまい犯罪を起こしてしまう方もおられます。また五感や感受性にも影響をあたえるようでございまして、そうですそうです。何でも視界が歪んで見えたり、色がおかしく見えたり、音に敏感になったり匂いに敏感になったり、味覚がおかしくなってしまって食事が喉を通らなくなったり、ええ大変でございます。感受性はそうであります。創作に影響を与えたり、言動に影響を与えたり、ええそうであります。
 落ち着きましたか。そうですか。私からは何も言えませぬ。私は無力でありますから、ええ、申し訳ないのであります。

 あれまあ、あなたにも同じような症状が……夫婦とは……いえいえ、お二人で旅行すればそのようなこともございましょう。あなたの方が症状が進んでいる、ははあ、よければお聞きいたしましょう。ええ、医者というものはそういうものでございます。まあ私はそれほど悪くない方の医者ということになりましょう。ええ、ええ、そうです。そうでございます。ふむ、成る程成る程……それは大変でございましょう。あなたが平静を保てているのはもはや愛の力のみでございます。愛の奇跡が成す美しき物語ですよ。私はそのような物語には弱いもので、仕事中ですから泣きませんよ。しかしねぇ、仕事でなければ涙を隠しえないことでありましょう。夫婦で症状が見られるということでありますから、事態を重く受け止めねばなりません。あなたもまた今我慢しているのでしょう。ええ、顔に出ております。私をどうにかしてしまいたい? 流石にそれは仕事ではありませんのでお引き受けしかねます。それでも我慢できない? ふうん。よろしくない。よろしくないことだ。あなた、もう手遅れですねぇ。ああ、もう喋らないで。耳障りだ。第一ねぇ、君ねぇ、馬鹿なんじゃないの。常識的に考えないよ。まあ無理なんだろうけどね。出来無いからここにいるんだからねぇ、うん。そうだねぇ、でもねぇ、それは違うねぇ。よろしい。一つ一つ否定してあげよう。まずねぇ、君の奥さんはねぇ、もうとっくのとうに死んでいるのでありましてね、ええ、そうですねぇ。しかしねぇ、死んでいるんだよ。それからねぇ、君のその奇っ怪かつ滑稽な言動に真実など一厘足りともありはしないのでありまして、嘘と真の区別が付かず、現実と幻が混ざってしまうというのは、もうねぇ、こちらとしてはうんざりでございましてねぇ、仕事ですからまあ付き合っているんですがねぇ、ええ、そうです。そうです。はい。

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