Nonsense

(初出CRUNCH MAGAZINE 2015年某月某日)

 世の中には、どうにも悪意が蔓延りすぎている。そう思うのは、きっと私が人の善意の数々を見て見ぬふりをしているからなのだ。
 世の中は愛に包まれている。そう思う人は、きっと愛に包まれて生きていて、愛とは当たり前のようにそこにあるからなのだ。

 私は残酷な人間だと言う人がいる。普通の人に比べて、残酷な発想をすることが出来て、普通の人に比べて、残酷なことに対する耐性が強いのだ。でも、その残酷はどういう残酷なのだろうかと思うことがある。普通の人が想像しうる残酷なことに対する耐性が強いのであれば、それは残酷なことに対する耐性が強い人なのであって、残酷な人間ではないのではないかと思うのだ。普通の人なら残酷だと思うであろう範囲内の残酷を見て、触れて、考えて、私はきっと残酷な人間に違いないと言うのだ。
 しかし、あなたは残酷な人間ではないのだ。優しい人間ではないが、冷たい人間ではあるが、残酷な人間ではないのだ。残酷な行動にはきっと理由があると思っている。その理由はきちんと理解出来るものであり、残酷な行動を引き起こすには重い引き金を引く必要があると思っている。だから、指で触れるように引き起こされる残酷なことを、そんなことは起きるわけがないと思ってしまうのだ。だって、そんな簡単に、些細な理由で、そんなことをするわけがないと思っているからだ。思ってもいない。そんなことは考えられない。
 だから、あなたは残酷な人間ではないのだ。


 駅前の人混みに酔ったふりをする。僕はおぼつかない足取りで西口へと向かう。沢山の人々が歩いている。若い女の人。年老いた女の人。子供を連れた女の人。笑顔の会社員の男の人。誰もが歩いている。この退屈な世界を退屈と思わないように、意味が無い世界のことを考えることを辞めて、目の前にある生をつまみながら歩いている。
 僕は改札の外で待っているという彼女を探す。服装を聞いてはいるものの、本当に酔ってきた。人混みは本当に苦手だ。電車の中で僕は何度も降りたいと思ったのだが、目的地につくまでの30分間、僕は鉄の檻の中でジッと時が経つのを待っていた。改札を出ると彼女はすぐに見つかった。彼女は素朴な顔をしていた。綺麗だとか、可愛いとか、子供っぽいとか、そういう特徴的な印象を抱くことはなく、素朴でどこにでもいる顔だと思った。その素朴な顔は化粧で彩られていた。それもまた綺麗だとは思わなかった。何故だろう。何故彼女は綺麗ではないのだろう。僕は彼女の体を見つめた。服を着ている。それは当たり前なのだけれど、その服装から抱くことは何もなかった。綺麗でもない。地味でもない。よく見ると、他の人もそうだった。誰も彼もが何でもなかった。服は個人を識別するものであり、それ以上の価値を見出すことは視覚からは得られなかった。僕は自分もまた個人を識別するためにだけ服を着ているのだと思った。
 彼女は無言気味で歩き出した。元々物静かな印象であり、実際にあっても物静かな人であるようだった。目的地はここからやや遠く、道中会話することはあるのだろうか。気まずさを生むのはお互いの関係性に依存するが、この場合、僕達は気まずさを共有することはないだろう。僕は彼女の後ろを追うことにした。後方を警戒しながら彼女の足取りに合わせて歩く。周囲の人々は格別気にすることもなく歩き、話し、生きている。僕は何故後方を警戒しようと思ったのだろう。前を向くことにした。彼女の後ろ姿を視界に捉える。目的地までやはり話すことはないだろう。そもそも、この歩き方では話そうにも不便である。つまり僕は無意識に彼女との会話を拒絶したことになるのだが、彼女もまた僕との会話を拒絶しているから、この場合お互いの意思を共有したといえるのだろうか。
 目的地につくと、それが事前に聞いていたものとは違ったことに僕は驚きを隠さなかった。確かに外装は暗いと聞いていたが、それは雰囲気や色合いが暗いという意味だと思っていた。実際のところ、外装は暗くなかった。一体何が暗いのだろう。彼女に聞けば分かる気がしたが、僕はそれを拒絶した。彼女は建物の入口に近づき、施錠されているか確かめているようである。僕は隣にあるよくわからない専門店の中の、仕事中なのか休憩中なのか分からない店員と、客としてきているのか、友としてきているのか、会話している人間のことを見ながら、次第に建物へと歩を進めた。つまり施錠はされておらず、入ることが許されたのだ。
 中に入ると暗かった。電気がついておらず、窓はあるのだが日当たりが悪い。高層ビルの迷路の隅に置かれているのだから、日の恩恵を受けることは許されないようで、ぎこちなく足元を確かめながら彼女を追うことにした。彼女もまた足元に気を許していないようで、右か左か上か下か、丁寧に行き先を確かめながら歩いている。2名の客人を迎え入れたこの建物は無言で、あたかも息をしていないようである。奥にある階段からは人の気配がするが、その人が出てくる様子もない。不意をつく意味は無いと思われるが、このままでは不意をつかれそうである。
 階段につくと、人の気配は上に続いていた。彼女は段差に無作為に散らばる虫の死骸を避けながら上がっていく。ここは3階だと示された時、彼女は階段を上がることを放棄した。入る時には3階まであるとは思わなかった。まだ上へと階段は続く。


 私は優しいと自称する時、優しさとは無条件な愛ではないのだと気付く。優しさとは心の暇つぶしではなく、己の欲求を満たすことも出来るのだと、そう思いながら、優しい人の優しい話を聞く私は、果たして優しいのだろうか。机に置かれたコーヒーが温くなったことで私は優しくない人よりは少しは優しいのだろうと言う結論を手に、優しい人に優しい言葉をかけることにしている。そうして優しい人達が今日もどこかで優しいことをしているのだが、その優しさはどうやらどこかで途切れてしまうようで、結果として優しくない人達ばかりクローズアップされてしまう。
 私は不幸であると自認する時、それは幸福を知っているからだ。同時に、私は幸福であると自認する時、それは不幸を知っているからだ。幸福を知らなければ自分のことを不幸だと思うことはない。それはつまり人という生き物は他者との交流を一切捨て去るべきであるのかもしれないと思うのだが、幸福であることを知るために不幸が必要である以上、やはり人が幸せになるためには人との交流が必要であるらしい。従って、自分は幸福であるか、不幸であるか、それは変動的なものであるのだが、それを支えるのは交流である。その人は不幸かもしれないが、周りにも不幸ばかり集えば相対的に幸せになれるのだ。でも、そんな幸福ばかり募ってもそれはどこまでも虚しいばかりであり、私は幸福が市販されていればいいのにと思うのだ。


 僕が右手を差し出すと、彼はその右手に自身の右手を重ねた。体温が緩やかに手を伝い、血肉は四肢へと行き渡っていく。彼は右手を通じて僕になった。服がその主を失ったことで床に落ちた。彼はもう全て僕になった。人の気配が消えた。ということは、ここでの僕の目標は遂行されたことになる。目的地への移動より、目的地での目標達成の方が早く終わってしまうと、やはり少しわずらわしかったという感情が強く訴えかける。彼女は窓の外に目をやっているが、そこに窓はない。壁に向けて彼女は遠い視線をくれていた。降りようと僕は言った。この後どこに行くのだろうか。それとも、このまま解散するのだろうか。僕の意識は既にここにない。彼女はその言葉を遮って口を手で塞いだ。ただ塞いだ。そうしてジッとして、やがて動かなくなった。その瞳は何も捉えなくなった。その手は僕の手を塞ぐことを放棄した。僕に触れたのだ。彼女は僕になっていく。

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