こちらとそちら

 腕時計に目をやった。時刻は20時13分。彼はまだ来ないようだ。私は背後の壁画を見つめた。下半身が湾曲した男性が、胴体に対して明らかに太すぎて長い腕を空に向けて伸ばしている。空には、不気味な顔をした三日月が佇んでいて、男性を嘲笑うように見下している。空及び月は彩色豊かであり、美術に教養や関心の乏しい私でさえ、神聖なものを前にした時に感じる緊張があった。一方、男性は白と黒を基調として単純な彩色が施されており、縁取る輪郭は力なく辿々しい。
 20時15分。彼はまだ来ない。私はスマートフォンを取り出して通知を確認した。彼からの連絡はない。それどころか、今朝私が送ったメッセージを読んでいないようであった。私は電話をかけることにした。しかし、1分程コールをして彼が出ないことを確かめると、私はスマートフォンを胸のポケットにしまった。ひっきりなしに改札に入っていくもの、出てくるものを見つめた。駅前のコンビニに入っていくカップル、サラリーマン、女子高生の集団。構内を歩く若い男性の2人組。1人1人に目的地と理由があり、感情があり、表情があった。私は迷子だ。神聖そうな壁画の前に取り残された迷子だ。
 20時20分。彼はまだ来ない。胸ポケットに入れたスマートフォンが振動した。私はスマートフォンを取り出して通知を確認した。それは彼からのメッセージであり、ドタキャンの連絡であった。また、だ。私は迷子だ。溜息を吐いた。怒りがこみ上げた。肩を震わせた。私は電話をかけた。10秒程して彼は電話に出た。
「今日はごめん」と、彼が第一声を発した。
「今日が何の日か分かる?」
「……」
「私は、この半年、✕✕に戻ったら君に会うことを楽しみにしていた」
「うん……」
面倒臭い様子が感じられる空返事が受話器越しに聞こえた。
「僕……私達はもう駄目だと思う」
「それは違うよ」
「違わない。何も。もう駄目だよ。私が△△に行く前も、だ。君は来なかった」
「……。好きな人が出来た」
「……」
「女の子、だ。僕は、こういうことが初めてだからどうしていいか分からない」
「じゃあ、さっきは何を否定したの? 何が違ったの?」
「分からない」
「そうか」
「ごめん」
「僕は……」
「ごめん……」
私は電話を切って、先程より深い溜息を吐いた。女が好きになった。私だって、女が好きだった。裏切られたような思いで私は目眩がした。一息ついたら冷静に考えられる。そして考えなければいけない。そう思った私は、西口を出て最寄りの喫茶店に入った。
 席は空いていないようだ。既に客のいるテーブル席を見渡すと、1人で読書をしている女が視界に入った。私はその席に向かい、相席をしても良いか尋ね、一瞬驚いた彼女から了承を得た。バッグを置いてレジに向かい、注文と商品の受け取りを済ませ、彼女の前に腰を下ろした。彼女は、ホットコーヒーを飲みながらブックカバーをした本を読んでいた。私は、出来たてのホットコーヒーを口に含み、喫煙して良いか尋ねた。彼女から、仄かに喫煙者の匂いがしたからだ。許可を得た私は、バッグからJPSを取り出した。
「……」女がこちらを見つめた。
「何か?」
「いえ」
「はあ……」
タバコに火を点けた。苦味が口内に広がって行く。血管が膨張して沸き立っている脳を冷ましてやる。吸える限りの煙を吸い、紙風船を膨らませるかのように矢継ぎ早に吸った。もっとも、風船を膨らまわせる時は吐くのだが。
「何かあったんですか?」女は本を閉じて口を開いた。
「あったように見えますか」
私はコーヒーを口に含みながら答えた。
「まあ」
「なかったんです」
「は?」
「何も」
「……。私は、今日、この時、ここで、何故、読書していたと思いますか。しかも得体の知れない変な男の同席を許してまで」
「僕の前にも誰か来たんですか?」
「もう……何を言っているんですか。それで、どうしてだと思いますか?」
「何もなかったからですか」
「そう。あ、ごめんなさい。そうなんです。何もなかったんですよ」
女は微笑を浮かべて言った。
「実は……失恋したんです。それも手痛い失恋」
「へぇ」女は本をバッグに閉まった。
「そちらは?」
「先に話して」
「恋人に好きな人が出来たそうで、それを電話で告げられたんだけど……」
「うん」
「向こうから言ったんです。君が好きだ、と。僕は最初冗談かと思ったけど、か、彼女が本気だったから。なのに、どうしてなんでしょうね」
「それは知りませんけど」
「……深い喪失感に包まれています」
「あはは、重症ですね」
「ほやほやなんで」
「ほやほやだね」
「そちらは?」
「死んだの。妹が」
口に含んでいたコーヒーの熱が、やけに熱く感じられた。
「家行ったらさ、頸動脈切って死のうとした妹が浴室にいた。はっきりと覚えてる。忘れられることはないんだと思う。壁に飛んだ血痕、服の柄、青くなった唇。映画みたいだった」
「はい」
「カッターは浴室に落ちてた。妹は右手を伸ばして取ろうとするんだけど取れないんだよね。セーブしちゃったのか、切り所が少し違ったみたいでさ。もう数分したら死ぬって分かるんだけど、救急車を呼ぶべきだって分かるんだけど、カッターを右手に持たせたんだ」
「もういい。もういいよ」
「どうすればよかったと思う?」
「分からない」
「私も分からない。ねぇ、失恋したんならさ、どうせこの後暇でしょ? 私、警察に行くからさ、着いてきてほしい。お願い」

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