朝に弱い

(初出2015年)

 季節は夏。
 外に出ると、溜息をこぼす前に汗が腕から滴り落ちた。次いで溜息をこぼす。
 服装に問題はない。化粧も薄いし、髪型や髪の色にも問題はない。飲食店というと、むしろ明るい服装や髪型をしていた方が良いのかもしれないけれど、後からしていけばいい。清楚といえば聞こえは良いけれど、地味なだけだ。自分に自信がない。
 額を覆う汗が時折目に入って染みた。これだから夏は嫌いだ。私は季節が変わる度に言っている。汗が入る度にハンカチで顔を拭いながら、私は暑さを助長しているであろうアスファルトの上を歩き始めた。
 アスファルトは良い。硬いから転ぶと痛いけれど、硬い感触のおかげで歩きやすい。ハッキリとした抵抗感が、歩く上で、走る上で、走りやすさを与えてくれる。都合の良い時だけ褒めて、都合の悪い時だけ不要だと不要論を唱えるのは、物事の大小にかかわらず同じだ。私はアスファルト不要論を唱えながら、熱心に鳴くセミの声に耳を傾けている。
 セミは長い幼虫期間を経て成虫になると、メスを求めて泣き叫ぶ。
 大学卒業まで童貞を貫き通した男達が、卒業した途端にその辺でヤラせろと叫び始めたら、普通は変質者として通報されてしまうだろう。
 しかし、他の生物においては肉食系でも恐れをなす求愛行動、及び交尾が容認されている。
 例えば、アンテキヌスは肉食系の頂点に君臨する生物だ。交尾をするためだけに生まれてくると言っても差し支えのない生物はいるけれど、ここまで交尾に特化した生物は中々いない。
 セミは成虫になる瞬間は綺麗な色をしている。好奇心旺盛な残酷な少年なら、見覚えがあるかもしれない。その残酷な少年は、綺麗だとは思わないだろうけれど。セミは一見すると変態だけれど、昆虫の中では不完全変態する昆虫だ。
 つまり、昆虫の中で彼らの変態性は不完全ということなのかもしれない。確かに、蛹になるような昆虫は完全変態と言っても差し支えない。

 駅が見えてきた。目的地はすぐそこだ。
 先日、私は面接希望の電話を入れた。いかにも厳しそうな男性の声で、今日の16時に来るようにと言っていた。
 時刻は15時38分。
 早すぎても迷惑かもしれないが、遅いよりはいいと思う。私は改札前の老人の集団を横切り、小学生の集団を横切り、老若男女が暑い日に駅に集まる理由を考察しながらJ飲食店の前に着いた。
 入る前に汗を拭いて臭いを確認する。臭くはない。問題は……追々話すことにしよう。
 店内に入ると、冷房がよく効いているから体の熱が下がっていくのを感じた。汗も止まった。
 レジの店員に面接希望の話を伝えると、少しして明らかに厳しそうな男性が裏から姿を表した。
 思わず足がすくんでしまった。息が上がり、心臓の鼓動が早くなる。紅よりも、Xよりも、今私の心臓の鼓動の方が早いに違いない。
「こちらへどうぞ」男性は奥の客席を示した。面接はそこで行うらしい。「はい」わざとらしく大きな声で返事をして、愛想笑いをしてくれる店員にお礼をしてから奥へと向かった。
 近くにはカップルが座っている。私のように地味な身なりをした少年と、同世代であろうけれど大人びて見える、派手な身なりをした少女が仲睦まじそうに話していた。
 なんとなくネットで知り合ったんだなと思った。同じクラスだったなら、二人は接点を持つことはなかったはず。
「私がJ飲食店で店長をしているAです、本日はよろしくお願いします」
「杉山えみです。よろしくお願いします」
 慣れた様子で挨拶をするA店長と、辿々しく挨拶をする私との温度差は既に大きかった。
 A店長は私の目を冷めた様子で覗いていた。目を見ているのではなく、覗いている。鳥肌が立った。このお店は冷房が強いと思った。私は用意した履歴書をA店長に渡した。
「高校二年生ということですが、部活はしていますか?」A店長は一言一言に重りを付けるようにして話す。その重りは口から私の胸に糸でつながっていて、心臓に少しずつ重りが移されていく。
「きたくぶです……」「はい?」「帰宅部です!」
「学業はどうですか? テストの点数は?」A店長は私の胸をジッと見つめているような気がした。
 汗をかいたから服が肌に張り付いている。少しばかり下着が透けているような気がする。面接だからと清潔感のある服を着ようと思ったのは誤算だった。
 私は腹痛と羞恥心に心を痛めながら考えた。
 面接を始めてから5分でA店長の私を見る目はコロコロと変わった。最初は冷たく、今はどこかイヤらしい。レジの店員もそういうイヤらしい面接を乗り越えたのだろうか。
 今目の前に完全変態がいます! と言ったら、ファーブルが珍しい人型昆虫を研究しに助けに来てくれるかもしれない。ファーブルは欧州よりも日本での方が一般的知名度が高いらしい。きっと助けに来てくれるはず。
「学業はどうですか?」A店長は胸に問いかけた。
「ひゃ、あかてんです……」
 私は勉強が得意だ。選んだのではなく、消去法として勉強することを選んだのだけれど、テストの点数も高い。100点を取ったこともある。なのに間違えて赤点と言ってしまった。
「赤点ですか。バイトを始めることで、より点数が落ちてしまうのではありませんか? 補習を受ける際に迷惑をかけませんか?」
「ひゃくてんです……バイトに支障はないと思います……」
「思うのではなく、そうしてください」
 A店長は履歴書に部活動のことや勉強のことを書き込んでいく。
 見てみると、部活動無し、成績優秀とあり、赤点だとか補習による支障アリという言葉が横線で消されている。
「お金はどのようなことに使いますか?」
「え……と……」
「お金はどのようなことに使いますか?」
「貯めます……」
「将来の夢は何ですか?」
「……」
 ここまで聞かれると思っていなかった。A店長の顔から目を逸らしてしまった。耳が熱くて顔から湯気が出そう。まさか顔から湯気が出るという比喩を使う機会が来るとは思わなかった。
 A店長は夢も進路も無しと書き足していく。私の性格評価が今この履歴書の上で行われているような気がした。
「土日は早朝から出れますか? 」
「……」
 私は朝に弱い。面接希望の電話をかける時、こういう話になることは分かり切っていたことだ。でもしょうがない。高一の夏休み、親は再三、家にいないで働いたらどう? と言ってきた。二年生になると、毎日言うようになった。せめて二学期になるまで待って。と私が折れるまで。
「……私、朝に弱いんです……」「はい?」「私には夜が来ないんです」
 私は弟以外に私の秘密を告白することにした。
「初めて来なかったのは小学三年生の夏休みでした。その日は9時過ぎに目が覚めました。その時は単に寝坊したのかと思いました。でも、それから月に数回、夜が来なくて、気付けば9時過ぎに目が覚めるようになりました。小学四年生になると、週に何回も夜が来なくなりました。やがて、毎日夜が来なくなりました。ずっと起きていようと思ったこともありました。でも、急に視界が暗転して9時過ぎに目が覚めました。修学旅行でも同じことが起こりました。同級生は口々に杉山さんが寝ていたような気がする。と言っていました。でも、夜寝ていた所も、朝寝ている所も、誰も見ていませんでした。私は寝坊をして先生に怒られましたが、私がどこで寝ていたのか、誰も分かりませんでした。私は普通に皆と泊まった部屋で目を覚ましたのにです。午後の9時から朝の9時までの記憶も意識もないんです。修学旅行では同級生も先生も部屋で寝ている私に気付かないなんて、おかしいと思いませんか?」
「では早朝に出られないと?」A店長は笑っていた。「はい……」
 A店長は私の話を何一つ信じていなかった。信じずに、人の決死の告白を笑った。殺してやる。
 私は自分が魔法少女なら良かったのにと思いながら、目の前の男をどうやって完全犯罪で殺すか考えてみたが、どう考えても殴りかかってしまう。でも高校二年生の私にこの男を殺すほどの力も経験もない。殺すことも出来ない。妄想の中では簡単に机に叩きつけることが出来るのに、現実では頭に触れるよりも先に腕を掴まれてしまいそうだ。
 A店長はずっと胸を見ている。腕が動けばすぐに気が付いてしまう。いっそこの胸に免じて受かるなんてことはないだろうか。不本意で不愉快だけれど、親はそれを望んでいる。私の家での住み心地も良くなる。後は夜は21時まで。朝は9時から働くようにシフトを組みさえすればいい。一度働かせれば分かるはず。私が21時から9時まで誰の意識からも消えてしまうことを。
「社会舐めてるの?」「いえ、そういうつもりじゃ」
 私はそう言いながら机に両手のひらを叩きつけた。叩きつけてから誰しもが思うのだけれど、痛い。でも今は心がもっと痛い。人の恥ずかしいことをいとも容易く笑ったこの男が憎たらしい。
 近くのカップルがこちらを見て笑っていた。多分Twitterで呟く。私が魔法少女なら彼らも殺しているかもしれない。でも、殺してしまうより、携帯を奪って恥ずかしい呟きをしたほうが彼らにとって辛いことだろう。今すぐ奪って真面目な政治の呟きをしてやりたい。その後にいくら下ネタを呟いて水に流そうとしても流せないくらい呟いてやる。
「合否の電話は数日後におかけしますので、本日の面接はこれにて終了とさせていただきます」

 そこからの記憶がない。私は怒ってお店から飛び出て、そのまま泣きながら家に走って帰ったような気がする。そのあと夕飯は食べたのだろうか。泣いている理由を説明したのだろうか。
 私は机の上に置いてあるメガネをかけて、時刻が9時を過ぎているということをデジタル時計で確認した。何か違和感がある……。何だろう。携帯を手にとってホームボタンを押すと、違和感の答えは液晶画面にあった。今日はバイト面接の日。でもバイト面接は昨日受けてきたはず。携帯のカレンダーを開くと、今日のイベントにバイト面接が記されていない。これからのイベントにも、終わったイベントにも、バイト面接のことは記されていない。
 インターネットブラウザを開いて、履歴からJ飲食店のバイト募集を探す。見付かったけれど、各支店ごとのページを開いたはずなのに、それは履歴から消えている。
 私は、ある仮説を考えながらJ飲食店を検索した。J飲食店はある。J飲食店のページを開いて、都道府県別店舗を探す。そこに私が面接受けてきた店舗はなかった。完全犯罪ということでいいのだろうか。私は内に秘める能力をまた一つ開花させつつあるらしい。
 改めて時刻が9時過ぎであることを確認すると、今日は駅前に行こうと決めた。


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