愚鈍

(初出2016年)

 愚鈍な彼にとって、クラス対抗リレーたるや恥であった。
 運動の苦手な者なら存分に知っているであろう敗北感や劣等感、屈辱を、彼もまた味わっていた。クラス対抗リレーなんてものは、一握りの足に自信のあるもの達がその才覚を、人生の中では一瞬にすぎないその中で発揮するものである。駆動する足は地を蹴ってどこまでも行けそうに思うかもしれないが、その足取りは僅かな先の平凡な未来さえ見通せやしないほどの、とても小さく脆い足取りである。それでも彼らはその瞬間に絶えず輝くのである。この事実は変わることはないであろうし、彼自身その事実に対して嫉妬の炎を燃やすことはなかった。
 彼は、クラス対抗リレーでどこに配置すればいかにロスが少ないかということで揉めるクラスメートを尻目に、懸命に飛ぶ蝶を見ていた。
 蝶の行く宛を彼は知らなかった。そもそも、蝶は行く宛を決めて飛んでいるのか、それすら彼には定かではなかった。蝶はただ飛んでいる。羽があるから飛んでいる。何ら不思議なことではないし、それは優っているとも劣っているともいえない種の個性であったが、彼のひそかな劣等感は蝶に対して向けられることになった。
 彼は羽ばたく蝶を容易く捉えてみせた。音もなく、クラスメートの誰も気付かぬ間に、蝶は彼の奴隷となったのである。彼は奴隷をしばし眺めた。その羽の触感を丹念に確かめた。それから彼はそれを地面に優しく置くと、右の足で踏み潰してみせた。足の裏には微かな感触があった。軽いものを踏み、それに体重をかけていく。抵抗することなくそれは受け止めた。何の苦労もなく右足は地面との再開を果たした。蝶は呆気無く彼の右足によって命を断ったのである。絶ってみせたのである。彼は密やかに微笑を湛えた。クラスメート達は一瞬のくだらない事に時間を割く中、彼はそれこそ一瞬のことで命というかけがいのないものを奪ってみせたのだった。彼は性器の屹立を目の当たりにして、己の不純な性欲を自覚した。自覚して、そうしてそれによる快楽を得たのである。ともなれば彼はもう虜である。彼は命を奪うことこそ己の性の、そして生の表現に他ならないのだと断定づけた。
 それらは全て級友たちによる彼の押し付け合いをする僅か数分の出来事である。

「お前さ、さっき蝶殺して勃起してただろ」
 体育の時間の後、級友の原田は彼を廊下に呼び、紛い物の笑みを浮かべながら言った。彼はどうにも原田という男が好きにはなれなかった。こればかりは級友との数少ない共有できることであったが、それも今となっては共有できることなのか、彼は屹立した性器が、性的頂きに達し、我慢ならぬ欲求と性器の意に赴いたことで、射精にいたりかけたことを思い出していた。いたっていれば彼はすっかり怪しまれたことであろう。とはいえ、級友の体育着姿に劣情を催したというはてさて健全な欲求の嫌疑は、彼を底に突き落とすものではなかった。彼は命を奪い去ったという確かな自信があった。
「見ていたのか」
 彼は原田をやはり好きにはなれない。原田は動物虐待をしていることを、級友が彼女とデートしたかのような素振りで話す男である。野良猫を捕まえてどうしただの、保健所の犬が死ぬ動画で何回もオナっただの、常軌を逸した原田と同じに思われたくはなかったし、好かれたくもなかった。彼は確かに原田と似たことをしたのであるが、原田とは違うと思っていた。彼は傷めつけることに性的興奮を覚えたわけではない。命を奪うことに性的興奮を覚えたのだ。彼はむしろ、原田より自分の方が狂っているのではないか?
 生物の死に耐え難い射精感を募らせてしまうなんて、ああなんて親不孝な……ああなんてキチガイな……彼はそんな風にも思っていた。それを踏まえて、やはり原田と同じふうには思われたくはなかった。原田は命を奪うことにさえ、傷めつけたということしか感じることのできない愚かな人間である。命を奪い去ってやったことに対する圧倒的優越感を知ることのない人間と、同じかもしれないという好意を抱かれたことに、彼は焚き付けられた。
 いいだろう。原田、君ができないことをしてやろう。
「お前も好きなら動画送ってやるよ」
原田は言った。だがそんなものに興味はない。君は命を奪う際のあの音を知らないのだ。知らないのだ。

 放課後になって、リレーの練習をしようなどと級友が言い出したことで、彼は幸先が狂った。彼は足を引っ張るだけだから、参加する意味なんて無いように思えた。
「お前がいないとロスが分からないだろ」
 角田の発言にクラスメート一同は笑みで返す! ワハハという声が彼の耳を超え、劣等感をチクリとぶっさしてみせた! ああ、彼は劣等感が裂けて、そこから零れ出た血をドクドクと禍々しく降り注ぐ血をその身で受け止めている。受け止めてしまった。
「僕には関係のないことだ」
 彼が見たこともないような顔で言うものだから、角田は呆気にとられた。格下の名前しか知らない奴が、遥か格上の角田に恐怖を与えた。角田はその異常性に怖気づき、何もすることができなかった。肩を掴んで説得すれば渋々参加するだろう。喧嘩すればあえなく彼はひれ伏すことだろう。角田はそのことを重々承知しつつ、恐怖を感じたことを重く受け止めて彼を帰すことにした。思えば彼をここで帰したことは、転機であった。

「角田の妹か」
 彼は小学校の方に歩を進め、そうして校門前にて、狙ったわけではないが角田の妹が目に付いた。歳相応のあどけない顔。ああ、殺したら角田は何て言うのかしら。角田の親は? 彼の親は? 学校は? 原田は? ああ、彼は自分が狂いの沼に沈み行くことが楽しくて仕方がなかった。
「角田、君がいけないんだ」
 彼は言った。それは罪悪感を和らげるための嘘ではなかった。殺したことで角田がどれだけ苦しむのだろうかと思うと、角田の泣き叫ぶ顔が、可愛らしかったのである。可愛らしいから彼は、こう言ってその顔をたんまりとその瞳に焼き付けようと決めたのである。
 角田の妹はどうやら一人で帰るようだった。襲いやすいのかどうか、彼には分からなかった。行き交う人のいない静かな道を角田の妹はゆっくりと歩んでいる。彼はそれをどうしたものかと微笑みながら追うのである。家々が無言で見張っているのが彼を押し留めていたのであるが、これは幸いである。

「きららちゃんだね」
角田の妹は、対向から大人の女の人に話しかけられた。彼は携帯を取り出し、眺めるふりをした。
「そうだけど、おばさんはだれ?」
「あら……昔会ったじゃない。もうっ、まあいいわ。お母さんに話があってね、ちょっと車に乗ってくれる?」
「ママに知らない人にはついていっちゃいけないって言われているの」
「その佳苗ママに言われたの。きららを連れてきてって。ね?」
「うん」
 そのような会話を、彼は遠巻きに何となく聞いていた。彼はどこか安心していた。焚き付けられた挙句、黒々とした劣等が身を包んだあまり感情的な行動をしたが、彼は蝶を殺したことで満足する男であった。人を殺すなんてまだ早いし、準備もしていないのに、その首を締めることが彼には出来たであろうか。声をかけられたかどうかさえ怪しい。場数を踏んでから人に試みるべきである。そうしてそれらはこの場である程度よく働いた。
prr……prr……
 彼の携帯が鳴った。鳴ることはないものだから設定を変えておらず、ある意味で無味な音が鳴った。それはどうやら大人の女も聞いたようで、ズンズンといった歩幅で詰め寄った。彼は携帯の待受けに表示された名を見て、そうして大人の女が睨みつけるのを見て、すっかり縮こまった。
「やあ、坊や」
 その第一声は、大人の女がどうやら、きららちゃん、とやらとの面識がないことを示すには十分であったが、それと話しかけてきたことはいまいち繋がらなかった。確かに怪しい。愚鈍な彼でさえ訝しんでいたのだが、それにしてもこの行動……。かえってこちらに来ないほうが良かったのではないか。来てしまえば、よからぬ動機で話しかけたことを告白してしまうようなものではないかと思ったのだが、彼は至極単純な答えを知る。彼は愚鈍な畜生である。大人の女が何も女児を狙っているとも限らない。そうでないにせよ、取るに足らぬ畜生を封じるために、合理性を努めて欠いた行動に出たのではないだろうか。
「坊や……坊や……」

 ……。
 彼は意識を取り戻した。しかしここがどこであるか、彼は知る由もなかった。彼は目隠しをされ、猿轡をされ、手足を拘束されている。体が横たわっており、揺れていることから車内であることは分かった。分かっただけである。彼はすっかり今日の特異な体験を忘れ去り、その経験も価値観も消失していた。生への執着が忌々しく指先から壁を伝う。伝ったそれは隙間から後部座席に侵入を果たしたようであり、女はそれに気付いていない。
 それは助手席を経由して、女の太ももに降り立った。太ももからそれは二手にわかれた。それの内、抑えきれない欲望を携えたものは、女のズボンと服の隙間をスルリスルリと抜けていき、下着を乗り越えて秘部へと辿り着いた。秘部にそれは跨がり、形状を肉肉しく変えていく。女も異変に気付いたようで、下腹部に視線を逸らす。
 それの内、愚鈍なものは太ももから下に落ちた。ひっくりがえると、それは吐き気を催して女の靴に吐いた。それが功を奏した。もしも当初の目的を果たそうとしていたら、それは忽ち見つかって、踏み殺されてしまうことであろうから。であるから、それが愚かにも吐いたことは幸いだったのだ。肉々しいそいつは、最早それではなかった。下着一杯に膨らむものだから、秘部にそいつは押し付けられ、しっとりと濡れていく。女は頬を歪めながら太ももに手を伸ばすが、そいつは秘部に侵入し、中で暴れることにした。暴れると言っても、痛いことはない。かといって気持ちよくもない。こそばゆくて、ムズムズする。女はしきりに下を見下ろした。
 それはそいつの所業に舌打ちをしてみせた。足を引っ張る。そいつもやはり中々どうして愚鈍だ。それはアクセルの上に気付かれるように乗ると、アクセルを踏んだ。踏んだ。踏んだ。踏んだ。

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