君のほうが

(初出2016年)

 まあ、美しいお花。
 彼女は僕の用意した花を見て、そう言ってくれた。
「君のほうがこの花よりずっと綺麗だよ」
 そう言って僕は花を握りつぶした。彼女はそのことにまゆ一つ動かすことなく、そのまま花があった方を見ている。僕が彼女が顔を向けている方に花を差し出したのだ。彼女は最初から僕の花を見てもいない。潰したことさえ、彼女は気付いているのだろうか。気が狂った女に、美なんて理解できるのか。花はパラパラと崩れ去り、欠片は緩やかに回転しながら落下していった。
「なあ、今日は少しお外に行こう。お医者様がいいって言ってくれたんだ」
 手を差し伸べると、彼女は僅かに視線を動かして手を見つめた。さあ掴んでと促すと、か弱い乙女の手は手のひらを撫でて、それから空を切ってだらんと下に垂れた。握ろうとしても、手一つ握れやしない。誰かが面倒を見てやらねば、彼女は呆気無く死ぬことであろう。
「さあ、外の空気を吸おう」
「でも、お母様がお怒りになるのよ……ごめんなさい」
 彼女は母の怒りに対しても申し出を断ることに対しても、眼の色一つ変えることはなく抑揚のない言葉をタイプライターを打つように言った。
「大丈夫。君のお母さんだっていいって言ってくれたんだ」
「嘘よ。嘘よ。お母様はとっても厳しいの。お母様は許してくれないわ。私はムチで叩かれて、家から追い出されてしまうもの。お父様も叩かれて追い出されて、凍え死んだのよ。私怖いわ。嘘よ。お母様は私が目の届かないところに言ってしまうことを決してお認めにならないのよ。決して」
「そんなことはない」
 そういって、僕は一旦部屋の外に出た。母親を持ってくるためだ。廊下に出ると、部屋の中よりも冷たい感じがした。部屋の中の女も、生きているといえば生きているが、死んでいるといえば死んでいる。そんな女だ。しかし、心が死んでいることと、生命として死んでいることにはやはり大きな隔たりがある。部屋の中には人間の気配がある。廊下に出てみると、それがなくなって孤独を感じる。

 僕は自動拳銃の持ち手の縁に親指を載せた。撃ちたくはないが、撃たねばなるまい。リビングに戻ると、そのお母様とやらは椅子に礼儀よく座り、何も載せられていない皿に箸を運んでは、それを口に運ぶ振りをしている。腐敗と筋肉の緩みから咀嚼しているつもりだろうが口は閉じていない。髪は抜け落ちて下半身は椅子に癒着している。引っ張れば腰から下は千切れてしまいそうにも見える。お母様は僕がこの家に来た時から、黙々と食べ続けている。ゾンビは生前の生活パターンを守るというが、随分と厳しいしつけを施してきたのだろう。僕は後頭部に銃を押し当てる。メリメリと音を立てて銃が沈んでいきそうだが、そうなると使いたくない。
 引き金を引けばゾンビは死ぬのだろうか。ゾンビは想像とは随分違った。人肉をあまり欲さない。頭を撃ったり、首を切断しても暫く死なないこともあるとか。ただし上半身と下半身を切断したりすれば動けなくなる。ちなみにその時上半身は暫く動くらしい。最初はゾンビということで騒ぎ立てられたが、それ程凶暴でもなく、頭を撃ってもしなないが敵意や殺意、その他の関心を向けることは乏しく、処分することはそれほど難しくなかったそうだ。人間はまもなくゾンビとの共存を画策した。映画なら失敗するのであろうが、それもうまく行った。感染源が分かっていないというのは少し不安ではあるが、感染経由は特定できており、二次感染は感染していることを他者に隠して引きこもりでもしてゾンビにでもならない限り、そうして人を見つめてもぼーっとしているゾンビに噛まれでもしない限り二次感染することはない。それすらワクチンで治せる。まあ普通に生きていればゾンビにならないし、感染しても治る。なら何故ゾンビはいなくならないのか。他の病気と違って、この病気は死後発症するという違いがあるからかもしれない。治療は保険に加入していなくとも無料であるのだから、断る理由なんてないと思うのだが、発症したゾンビは後を絶たない。その度に、ゾンビの処分、可能であれば捕獲―生き物以外にも捕獲という言葉は使うのだが、捕獲という言葉は適切なのか?―を任されたり、二次感染の有無や感染源を調べることが僕の仕事だ。まあほぼ趣味である。金は出ない。以上長い紹介と説明終わり。

 つまり僕は彼女とは数日前に出会ったばかりなのだ。赤の他人に対してリアクションが乏しい彼女だが、ゾンビにはなっていない。精神疾患と思われるが、であればここ最近誰が世話をしているのだろうか。僕はお母様とやらかと思ったが、何時間も同じことをしていて、それはいつ見ても変わらないことから違うという決断を下した。ついでに腰は椅子にへばり付いている。捕獲は無理だ。であれば処分。

 まあ、美しいお花。
 彼女は僕の用意した花を見て、そう言ってくれた。
「君のほうがこの花よりずっと綺麗だよ」

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