進路

(初出2017年)

  問
 最近、私はポニーテールにしている彼女の姿を見ていない。それは何故?
 A.私のせい
 B.あなたのせい

  答
 A.私のせい

  前髪を二~三センチ短くして、
  あの子はただ美しく笑ってた。
  私もつられて笑うけどだから何。
  あなたのあなたの後ろ髪。
  重力引かれて落ちてった。

「ねぇ、あんたはもう決めた?」
 友達の明が、私の前の空席―男子だったことは覚えているけど―に座って、後ろを向いて尋ねた。
 まるで、とても高価なドールのようにアクリル製の半球に魂を吹き込んだような、―彼女は実際生きているけど―今にも吸い込まれそうな大きな大きな双眼が、私のことを見つめた。
 そして私の進路表を覗き込もうとして私の妨害に遭った。私が突っ伏して進路表を隠してやったからだ。真っ白な進路表には、私にしか読むことのできない文字で何か大げさなことが書いてあった。
「秘密!」そう言って私は笑った。
 明は悪い癖だと指摘した。明にはこういうところがある。だから教えるのが怖いんだ。だって明はいつだって正しいんだもん。
「明は何にしたの?」
 話を逸らすために話題を明に振った。
明は、やや間を置いて就職と答えた。まるで水滴がシンクに垂れたような、か細く主張するような声。
「えっ?」私は驚いた。それに対して明は、自嘲的な笑みを浮かべた。
 明は学年一の秀才だ。難関国立大学を志望していることは、周知の事実。ここは田舎だから、ご近所のおじさん、おばさんだって知っているし、商店街の八百屋の多恵さんだって、総菜屋の喜久代さんだって知っていた。
「大学なんてさ、行ってもしょうがないじゃん」
 明は笑顔で言う。自分を納得させるために言う。きっと、私でなければ、私にしか分からないような言葉で、明はポツポツと、降り始めた雨のように語り始めた。
「……業種も決めているの?」私はたどたどしく、まだ覚えていない台本を読むように喋った。
 何を話せばいいのかよく分かんない。窓外に目をやると、強い日差しが部活動中の生徒達に降り注いでいた。あの人達一人ひとりにも、思いもよらない悩みや秘密、決断があるのだろうか。それに比べて私ときたら。
「サービス業かなぁ」
「そうなんだ」
「そう」
「うん……」沈黙。
 私と明の二人の仲だ。沈黙程度どうってことはない。でも気まずい……。エアコンから出る冷風の音が、教室内によく響いている。
「あんたは出るんだっけ、ここ」明は自分の手のひらを見つめながら尋ねた。
「分かんない。出たいとは思うけど」私も、ペンを握り直すと、書くでもなしに見つめながら答える。
「どうして?」
「どうしてって……このまま、このまま、ここで生きているのは嫌だ」
「どうして?」
「そんなの分かんないよ」
 明はそっかと呟いて、窓外に目をやった。上履きを脱いで椅子の上であぐらをかくと、細くて、陽の光を知らないような白い脚がさらけ出されて私は思わず目を逸した。それから推薦を欲して媚びるような声を出して、不愉快に笑ってみせた。
 私もつられて笑った。変な声。明が出すと余計におかしく聞こえちゃう。
「だよね、そうだよね」明は反動で、今度は低い声で笑った。
「明……?」
「なんか邪魔してごめんね」
 そう言って明は立ち上がると、鞄を肩にかけて投げキッスをした。思わずドキリとする。熱湯を頭から被ったみたいに頬が火照って、心臓を絞られたみたい。
「ねぇ……」
「ん?」
「……」明は首を振ると、じゃあと言って教室を去った。
 明、止めてほしかったのかな。私が何か言ったって言うこと聞きっこないと思ってた。無人島で2人きりになって、明が、もう私何も思いつかない! だなんて言い始めても私には頼らなさそうなのに。
 数分間、いや十数分間考えていたかな。すぐに明の顔が頭に浮かんで、頬が赤くなってしまう。
「なんか、気が乗らないな」独り言を呟く。追いかければ間に合うかな。

『私の友達が、就職するって言い出したんだけど、どういう風の吹き回しだと思う?』
 あいつに送信すると、鞄の中に紙や筆箱をしまって帰る準備を始めた。
『その友達は、どういう人なの?』
『とっても頭が良くて、最難関大学とか狙っているような人』
『大学に行く必要性が見いだせなかったのかもしれないね』
『そうなのかな』
『僕には分からないよ。僕は合理的にしか物事を判断することが出来ない』
 こいつでも分からないことがあんのか。下駄箱に着いた私は、上履きからローファーに履き替えてムシムシとした校庭に出た。すぐに汗が吹き出してきた。衣服が汗で体にまとわりついてかなり気持ち悪い。
『じゃあ、大学に進学するのと、高校を卒業して就職するの、どっちがいいと思う?』
『人それぞれだと思うよ。人間はより多くの給料を貰うために生きているとは限らない。結婚をして他人を養ったり、養われたり、支えあったりして生きるべきとも限らない。働くのが早いか遅いかってだけなのかもしれない』
『もう少し具体的に言ってよ』
『正解は人それぞれであり、その答えをくだせるのは自分だけだ。でもその答えを他人に委ねたい時もある』
『あんたならどうする?』
『大学に進学する。合理的に考えて進学した方が大は小を兼ねる。不要だと考えれば、入学してからでも退学は出来るからね』
『成る程。お金のこととか抜けているような気がするけど、参考になった』
『家庭の事情等で大学に進学することが難しい、という場合の合理的な判断を問われたわけではないので』
『ごめんごめん』
『あんたなら私に相談したいって思う?』
『人間は程よく馬鹿なことをするように出来ている。だから相談したいと思うかもしれない』
 はぁ?
『分かった。もういい』聞いた私が馬鹿だった。
『もう一つだけ。どうして、私に相談したいと思うの?』
『馬鹿なことをしたい時は、馬鹿に聞くのが一番』
「うるさい」

 最寄り駅に着いた私は、次に到着するK駅行の電車を確認した。
 ふと、いつも行かない南口に行こうと思った。階段を降りると、喫茶店が目に入る。あそこで涼んでから帰ろう。そう思って喫茶店に足を運ぶと、明の姿を見付けた。明は21世紀におけるなんちゃらという難しい本を読んでいた。分厚くて、私なら読み物より武器か重りにしちゃうなだなんて考えた。
 店内に入ると、ヒンヤリとした風が、酷暑の中、傷付きに傷付きぬいたやわな体を癒やしてくれる。涼しい。でかしたぞ。
「お客様は何名様でいらっしゃいますでしょうか?」
 気弱そうな女性の店員が声をかけた。友人が既にいることを伝えると、申し訳ございませんと謝って、奥の厨房に消えていった。私別に、悪いことをされたわけではないのに。
 店内は混んでいるので、明は喫煙席のテーブル席に通されたようだ。煙草臭くてもおかまいなしというのが、明っぽくて……。何考えてんの私。頬がまた赤くなる。カウンター席は、PCを操作している人や、明同様分厚い本を開いて、それを一生懸命ノートにまとめている人らで埋まっていた。明は読書に夢中で、横に立っても気付かない。
「わ!」
「ん。ここ南口だよ」
「知ってる」
 あまりにも拍子抜けする反応に、私は脱力した。明は二人がけの椅子の通路側に座っていたけど、奥に詰めてくれた。ありがとうと言いながら私は腰掛けた。
「私、本当は就職したくない」
 本を閉じて明は言った。10連勤明けのお父さんみたいな顔をしている。
「なら大学に行こうよ」
「まあ、そうなるよね……ねぇ何飲む?」メニュー表を手渡された。明の手が私の指先に触れた。
「同じの。それ何?」
「順番逆じゃない。何って、見ての通りアイスコーヒーだよ、いい?」
 私は頷く。ベルを鳴らすと、先程の店員が出てきて、お冷とお絞りを出してくれた。明がブラックを飲んでいたので、私も合わせる。注文を済ませると、私はお冷を口に含む。それを明はじっと見つめていた。
あまりにも真剣な眼差しで見つめるものだから、私は目を逸らす。
「あんた、彼氏とは上手く言ってんの?」
 豆菓子を頬張りながら尋ねる。ふざけているかと思いきや、真面目な表情をしているのが伝わった私は、思わず背を伸ばす。
「か、彼氏?」
「何その声」
 私が間の抜けた声を出したから、明は大きく笑った。急に彼氏とか変なこと言うから。
「彼氏なんていないよ」綻ぶ明。
「嘘」何故か悲しそうな明。
「嘘じゃないってば」
「じゃあ証拠を出して」明は両手を私の方に差し出す。
 私は不思議と迷わなかった。明の右手を優しく握ると、私の胸に押し当てた。それから左手を握った。
「私の心臓、熱いでしょ。ヤカンに触れたみたいに。今、私の体には熱湯が流れているみたい」
「うん」
 明は体の芯に鉄棒を通したようにして、私の話を聞いている。
「明の手、温かい。春の野原に寝そべって、柔らかな日差しを浴びているみたい」
「何それ、気恥ずかしいよ」
「私、明が好き。ねぇ、東京に行って」
「……」
 明はそっと両手を私の体から離すと、唇を少し弛ませた。
「こちらアイスコーヒーになります」店員がコーヒーと豆菓子を置いていく。
「私、家を出るつもりなんだ。自費で大学に行きたくって」
 店員が離れたのを見計らって、明は会話を再開した。でもどうせ周りには筒抜けだ。それにさっき、私達はとても恥ずかしいことをしてしまった。カップルでもやらないような、甘ったるいことを。
「そう……なの?」
「そう。だから就職。馬鹿みたいでしょ」
「そんなことないよ」
「どうだろうね」
 無理なことくらい分かってるよ。子供のように言う。駄々をこねているわけじゃない。何も出来ないと知って諦めた子供の声。
 明はコーヒーを飲んだ。私もコーヒーを飲む。苦い。それでも明が口を離すまで、私もコーヒーを飲み続けた。
「聞いてもいい?」
「駄目」
ごめんねと明は言う。
 また沈黙。
「私、東京とか、関東の大学を目指してるんだ。だから一緒に暮らしたら生活費浮くよ」
「そんな、悪いよ」
「じゃあ、どうするの?」
「私も良く分からない。でもいつか行くって決めてるんだ。今はそれでいい」
 言い終えると、明はアイスコーヒーを飲み干す。伸びをして辺りを見渡した。なんだか、このままお家に帰りたくないと私が言うと、そうだねと頷いた。
「就職するって、親に言った?」
「言ってない」
「言ったほうがいいよ、……とは言えないね」
「うん。でも、だいたい私が悪いから」
「悪くないよ。理由は知らないけど、自費で大学に行くなんて明が決めるくらいだから、よっぽどのことでしょ? だから悪くないよ。明は正しい」
「正しいことが悪い時だってあるよ。それに私にとって正しいことが、親にとって正しいことだとは限らないでしょ」
「そりゃそうだけど、でも明の人生じゃん。明の人生が正しいかそうじゃないかを決めるのは、明なんじゃないの?」
「それは違うよ」明は首を振った。
「それは違う。人生は一人で形作るものではないもの」
 まるで言葉を再生するように、一語一語に力を込めたその言葉の意味を、私は今ひとつ理解できなかった。
「それに、私にもいるよ。好きな人」
 残りの豆菓子を口に入れながら言った。あえて何事もないかのように軽く言ってみせる明の声は、私を傷付けないようにという優しさを感じさせた。
「どんな人?」
「言わなきゃ駄目?」
「私は言った」
「うーん……。その人はいつも、私を笑わせてくれる」
「面白い人?」
「うん。凄く面白いの。私にはないものを持ってる。かと思いきや抜けているところもあって」
「おっちょこちょいなんだ」
「そう」
 明は次第に熱を込めて語りだす。明が熱くなればなるほど、私の心は氷水に浸かったみたいに縮こまっていく。
「すごく好きなんだね。その人のこと」
 私は明の手元に視線をズラした。見ていられない。
 頬を涙が流れ落ちていった。軽い液体が、頬をなぞるようにして机に垂れた、私にしか聞こえないかすかな音で、明は静かになった。
 アイスコーヒーを口に含むと、しょっぱい味がした。明は、白黒付けようとしてハッキリと言ってくれているだけ。それだけ。それだけなのに、こんなにもコーヒーを不味くさせるなんて。
「何泣いてるの」
「……」
 明はハンカチを取り出す。
「触らないで」
 明が私の頬を拭いてくれようとしたのに、私はそれを拒んだ。
「ごめんね」
 明は気まずそうに笑った。人にはいつも言うくせに。
「悪い癖だよ」
 私は鞄から財布を取り出して、自分の分の代金を置いた。明は何も言わず、私の行動を見つめていた。
「どこ行くの?」
 立ち上がった私に、明は声をかけた。お手洗いと答えた。背後から忘れ物だよという声が聞こえた。
 私はそのままお店を出るつもりだったが、忘れ物が気になって席に戻った。そこに明はいなかった。ただ紙ナプキンに伝言が書いてあった。
『癖って移るよね。東京の件考えておく。また明日』

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