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【死語の世界】 第二十二話 『道楽』


「下手の横好き」は「好きこそものの上手なれ」と対をなす、可愛げのあるいい言葉だとおもっていたが、昨今あまり聞かなくなった。下手のままずっと続ける根気が足りなくなっていることもあるだろうが、どちらかというとみんなそれなりに上手くなってしまうから、という理由のほうが大きいようにおもう。走ったり歌ったり、楽器の演奏も釣りも山もゴルフも、上手い人が多い。ブロガーの文章なども、プロの評論家や学者の論文には比べられないが、新聞や雑誌のベタ記事とはほとんど変わらないレベルにあるものが多いし、オタクと呼ばれる文化の専門性は、分野をぐっと絞るとしてもプロの書き手や学者のそれとまったく変わらない。


20代の終わり頃に、ユーゴスラビア人のピアニストと話す機会があった。それより15年以上も前にその地に移住した声楽家である私の母親が、日本でリサイタルを開く際に連れてきた伴奏者である。

「君は音楽はやらないのか。では何が好きなのか?」

とそのピアニストがいうので、映画だと答えたら、ユーゴスラビア映画の傑作の紹介をはじめるのである。そうくるだろうなとは予測していたが、好きだという以上、知っていて当然だという顔をする。ユーゴスラビアの映画を、である。
運の良いことに、彼が話題にした4本中2本を見て知っていた。ひとつは単館でそれなりにヒットした『パパは出張中!』で、もうひとつはそれより前に岩波ホールでまったく地味に上映された『歌っているのはだれ?』である。両方とも素晴らしい出来栄えのもので、前者の監督はやがてカンヌのパルムドールをとるエミール・クストリッツァである。この2本については監督名も言えたので、私はなんとか面目を保ったとおもったのだが、見ると彼は首を横に振ってちょっと納得できないという表情だった。

欧米人の趣味のレベルは段違いで、英語のhobbyは日本語の趣味とはだいぶちがうという話題はよく耳にする。ただ好きで、よくやる、という程度のことはhobbyではない、hobbyとはそれを楽しむために知識やスキルを要するものを指すのだと。ひと財産を突っ込むほどの金をかけるものなのだと。たとえば音楽鑑賞はhobbyではないし、テレビ鑑賞などといったら笑われるのである。
しかし日本人もいまや、欧米人並みのhobbyを持つようになった。衣食足りてhobbyの意味を知るといった風情であるが、いや待て、「道楽」といえば、その昔からあるじゃないか。落語など道楽の出てこない噺のほうが少ないくらいだ。


江戸から明治に変わる頃だろうとおもうが、どうしてhobbyを道楽と訳さなかったのだろうか。道楽には身上をつぶしても家庭崩壊してもまだ突っ込むようなダークで自堕落なイメージがあり、hobbyは健全で建設的なイメージで、そぐわないと思い込んだのだろうか。
道楽にはmaniaが対応するようだが、ニュアンスは少し異なっているようにおもう。「飲む、打つ、買う」は道楽ではあっても、maniaとはあまりいわない。maniaは深刻だが、道楽にはその雰囲気はない。道楽はなにより軽みが大事なのだ。

いま現在、maniaに対応する場所に「オタク」が座ったのだとすると、「道楽」の行き場がない。まだ死んでしまってはいないが、危篤といって過言でないだろう。こんな素晴らしい言葉を死なせてはならない。だが、君の趣味はなにか?とは聞けても、あんたの道楽はなんだい?とは聞けない。そんなことが聞けるような関係なら、そんなことは百も承知なのだから、聞かないのである。

世界がこれからグローバリズムだかで、なんでも口に出さなければ伝わらないローコンテキスト社会になっていくのだとするとさらに、「道楽」という素晴らしい言葉はコミュニケーションシーンから消えていくのだろう。惜しみきれないことである。

そういえば、「好きこそものの上手なれ」は「こそ已然形」の係り結びである。蛇足。

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