誰も知らない国
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秘密のかくれ家で本のページをめくる。
かくれ家といっても、巨大な廃屋の物置だ。僕が勝手に侵入して、電気スタンド、大量の本、ミュージックプレイヤー、カントリーマアム、はと麦茶、駒の足りないチェス、なんかを持ち込んで、かくれ家って呼んでるだけ。
もともと置いてあったぼろぼろのソファやら額縁に入った変な抽象画やら、なかなか雑多な感じだ。
だけど、かくれ家の扉を閉めると、いつもこの上なく安心する。
もう誰も入ってこない。
僕だけの国。
とか思った瞬間に扉が開かれて菱川リカが入ってきた。学校の制服を着たままだ。外は雨なのか、ずぶ濡れになっている。
菱川が来るのは仕方がない。この屋敷はもともと菱川の家だったから。菱川家は没落してしまったのだ。それは菱川とは関係ない大人たちの話なのだけど、結果として菱川も没落してしまった。
「雨がすごいすごくてさー」とか言いながら菱川はかくれ家の真ん中あたりまで一気に歩を進める。
「帰れよ。本が濡れるだろ」
「じゃあ帰るけど」菱川は不敵に微笑む。「これで終わったと思うなよ。私を倒しても、第2、第3の私が現れ、おまえの前に立ちはだかるだろう……」
「ああそう」
「いまの、文化祭の劇でわたしが言うはずだったセリフ。もう言わなくていいんだけど」
「どんな劇だよ」
菱川はスカートの裾を手で絞る。ほこりっぽい床に水がしたたる。はねた水が僕のスニーカーを濡らした。
「なんで制服着たままなの」
「補習出なくちゃいけなくて。こないだ23点だったから。世界史」
「菱川って頭悪いもんな」
「まあね。数学はもっと、壊滅的にわからないんだけど。3点とか。その3点も謎なんだけど」
「可哀相」
「体を動かすことは得意なんだけどねー」菱川は変なストレッチみたいなのをはじめた。細くて長い手足がらくらくと動いて、僕は悔しいけどちょっと見とれてしまう。
菱川は壁を背にしている僕の隣に座った。肩が少し当たる。あたたかく、しめっている。
「静かだね」菱川は息を吐く。「ここに来ると、この部屋の外の世界には、もう誰もいないんじゃないかって気にならない?」
「じっさいそうなんだと思うよ」僕は本に視線を落としたまま言う。「この部屋の外の世界は滅んでしまったんだ。って、いつも思ってる。そのほうが良いし」
「ふうーん」菱川は急に手を伸ばして、僕が読んでいる本を勝手に何十ページもめくった。
「やめろよ」
「犯人だれ?」
「そういう小説じゃないんだ」
「わたしたち二人だけしかいないんだよ。世界中に。犯人のこととか考えないでよ」
「犯人なんていないんだよ」僕は菱川を見ない。すぐ横に、黒い目と、濡れた髪の感じ、を感じる。「外で服乾かしてこいよ」
「外には何もないって自分で言ったんでしょう? 服を乾かす場所も、過去の歴史も、全部なくなっちゃったの。だから世界史の点数だって本当はどうでもいいんだよ」菱川は僕から少し離れた。「それに、服だって乾かす必要ない。どうせ脱ぐんだから」
菱川は勢いよく制服を脱ぎ始めた。
菱川の上半身は下着だけになって、長い髪が胸と肩に流れる。うす暗いかくれ家のなかで、菱川の肌だけが白く輝いて見える。僕はいつもそれを不思議に思う。
「わたし、体を動かすことしか上手じゃないんだ」菱川がゆっくり僕に近づいてくる。「知ってると思うけど」
菱川の視線と僕の視線は、菱川が没落する前には交わることはなかった。
菱川が僕の膝に手を置いてキスをする。
僕は僕の血液の流れ方を感じる。
僕の気詰まり。菱川の絶望。雨の匂い。読みかけのブローティガン。ここだけ滅んでいない国。AM0:13。
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