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誰も似てはならぬ (21990字)

カスタードプリンを口に含むと脳が揺れた。そのせいだろうか。久しぶりにあの感じがした。
並行世界の私がこちら側に召喚される、あの感じ。
前回はいつだったっけ?
思い出せない。
とにかく、今はやめてほしかった。
並行世界の私は闇の底からすっかり浮上し、平然と私に重なり合っている。
私は無印のパジャマ姿でプリンを食べているのだが、
並行世界の私はひらひらのドレスでピストルの手入れをしている。
私の部屋は無音だが、
並行世界の私は小さな声で歌っている。
私はプリンに集中した。
集中。
集中だ。

カスタードプリン

愛らしいその名を発音するとき、軽やかに動く上下の唇は一度も接触することがない。ぴったりと重なりあった並行世界に住む私たちが、手をつなぐことすらできないのと同じように。
「カ。ス。ター。ド。プ。リ。ン」
嘘だった。唇くっつく。
私はかの有名な文字列のことを思い出している。それを読み上げると、「舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く」という魔術的なモーションが引き起こされるのだ。

LOLITA

カタカナの発音でもそれは再現可能なのだろうか?
ロ。リー。タ。
異なる言語間での意思疎通は、人類に与えられた極めて難しい試練のひとつだ。もっとも、使用言語にかかわらず、人間同士のあいだに正確な意思の疎通なんて不可能だとも言える。
「ロ。リー。タ」
舌の先が口蓋を……そもそも口蓋ってどのあたりだ?
次第にものが考えられなくなっていく。
精神がプリンに支配されつつあるのだ。
舌の上に次々に刻印されていく品の良い甘さ。微かな苦みが砂丘のようになだらかにひろがる。口の中の情報が複雑なリズムで書き換えられ、低温の熱を帯び、じっとりと細胞の隅々まで行き渡る。途方もない万能感。一瞬の幻。残されるのは、明け方の夢のようなはかない余韻。
完璧。
完璧だ。
プリンの味をトリガーとして立ち上がった並行世界の私の気配は、プリンを食べているあいだに再び闇に沈んだ。もう読み取れない。未来でも過去でもない世界の、自分でも他人でもない私。おやすみなさい。またいつか会いましょう。どうかお元気で。
私はプリンの容器を軽くすすいで、ゴミ箱に捨てた。こちらの世界で、私はひとり。ひとりで歯を磨き、ひとりでベッドにもぐり、ひとりで目を閉じる。




私の最盛期は17歳の夏だった。

それ以降、私の数は減り続けている。





ピーク時の私は、100もの並行世界を同時に認識することができた。
100種類の世界に住む、100種類の私と常時接続できていたのだ。
この世界とそっくりの世界もあれば、まるで理解できない突飛な世界もあった。
だけど、どの世界でも私は私だ。
過酷な運命に翻弄される私。親の財産で豪遊する私。殺し屋の私。アイドルの私。ピアノのレッスンに苦痛を感じる小学生の私。有名私大に通う私。有名私大に落ちた私。義務教育を受けなかった私。仏門に入る私。狂ったように米粒に写経する私……どんな世界の私も、この世界の私と根本的な能力差があるわけではない。私の容姿が他人の目に魅力的に映る世界や、私より運動神経が極端に劣る生物しか存在しない世界なんていうのも、あるにはあったけど、どんな場所でも私は私。私に翼が生えていたり、超能力が使えたりするわけではないのだ。
つまり私は、この体のままで、もっといろいろな可能性を秘めているということだろうか?
そんな風には思えなかった。
ほとんどの私は倉庫に眠る埃をかぶった缶詰のようなものだった。もちろん賞味期限切れの。しかも錆びついた。
たいていの私は支配される側の、自分で運命を切り開く力を持たない、脇役ですらない、絵の背景の隅の隅に描かれた、かろうじて人、みたいな存在なのだ。

この世界の私(つまりこの私)も、当然そちら側に分類される。毎朝、何を目的としているのかわからない会社に出勤し、PCのキーボードを決められた順番に押してみたり、名刺を並べてタワーを作ったり、キットカットを食べたりして過ごしている。

人間は大きく2種類に分けられない。
どのような分類方法を用いても2種類に分けることはできない。
しかし1枚の紙を破いて100枚にすることはできる。それはたしかに100枚の紙片ではある。池に落ちたり、泥に落ちたり、子供のお絵かきに使われたり、さまざまな運命をたどるかもしれない。でも1種類の紙であることに変わりはないし、紙が自分の力だけで何かを起こすことは絶対にない。

真っ白な精神の平原に、私がひとつめの並行世界を発見したのは7歳の冬のこと。
触れることも話すこともできない、並行世界に住む同い年の私のことを、私は「不思議な鏡に映る不思議な私」みたいな理解で眺めていたと思う。
現実の鏡と同じく、並行世界の存在は、私に何の影響も与えなかった。

私が成長するにつれて、接続できる世界の数は増えていく。
17歳の4月に最大値の100に到達し、そして17歳の8月に初の減少を記録した。
とある並行世界の私が、火事で焼け死んだのだ。

その後の10年間で、新たな並行世界を発見することは一度もなかった。
それどころか98人の私が死んだ。
交通事故で。脳出血で。心疾患で。流れ弾で。天変地異で。結核で。梅毒で。ショックで。隕石によって。溺れて。雷に撃たれて。ハンター試験で。中忍試験で。宇宙空間に放り出されて。階段から落ちて。処刑されて。

凡庸で生命力の低い私の群れ。

私が死ぬとその世界は閉じられ、二度と感知することができなくなった。
たやすく死に続ける私と併走しながら、しかし私自身が「次は自分の番かも」と不安にかられたことは一度もない。悲しくもないし悔しくもない。つまらない映画を見ているのと変わらない。言語どころか世界そのものが違うのだ。おそらく向こうは私を認識してすらいないだろう。

27歳になった今、私に検出できる並行世界はたったの1つにまで減少している。そこに住む私と、ここに住む私。2名。私たちは永遠に接触しない別々の世界に分かれて、永遠に接触しない別々の人生を歩んでいる。これまでと同じように。

ベッドの中で寝返りを打つ。
私はキッチンのゴミ箱のことを考えている。
一人きりの生活なので、ゴミ箱のゴミはすべて私に関係している。
さっき新たに、プリンの容器が加わった。
私の孤独が、食べたプリンの質量の分だけ正確に増える。
私は孤独だった。この世界で。
ずっと。
すっと……。
ところで。
孤独について何かを語るのは非常に危険だ。「自分は孤独である」という陶酔的なセミナーを主催する行為にどうしたって似てしまう。ささいな孤独をかき集めて、文学だとかエモだとか、そんな計算づくの奇行を身にまとって、そのまやかしに惹きつけられた虫みたいな人間とつるんで、結局どんな小さな孤独からも遠ざかってしまう。

自分の弱さ、みっともなさみたいなものを、しっとりした暗く美しい文体でまとめ上げ、ときにユーモアを交えたりして耳目を集める狡猾な奴らの蔓延に、私はうんざりしている。もっとはっきり言ってしまえば、私は単純に、人生何度目かの難しい思春期にさしかかっているのかもしれない(あまり知られていないことだが、思春期は交響曲の主題のように、少しずつ形を変えて何度も人生に押し寄せてくる。そして死ぬ瞬間の人間の精神の針は、必ずといって良いほど思春期の目盛りを指している)。

しかし、そうやって孤独を語れる人間はまだましなのだ。私のように何の魅力もなく、エモだとか、文化的な振る舞いだとか、人権問題だとか、そういったものに一切無関心なクズ(でも本心では自分だけがクズではないとも思っているタイプ)は手の施しようがない。他人を傷つけることも、自虐ユーモアに逃げることも許されなくなった進歩的なこの世界で、歯を食いしばり、自分の孤独をひけらかしたい誘惑に耐え、青褪めた顔で黙っているしかないのだ。忘れ去られて錆びた缶詰として、ただ土に還っていくのを待つしかない。

私はゴミ箱のプリンのことを頭から追い払った。
ベッドの中で、今日の最後の儀式に取りかかる。
孤独に慣れすぎた人間は、オリジナルの儀式を際限なく増やし続けてしまうという哀しい習性を持っている。私も例外ではない。自分で考案した50を超える儀式を、毎日毎日、人知れずこなしている。そうでもしないと、孤独な人生にはやることが少ないのだ。時間が余ってしまうのだ。

私が眠るときに行う儀式は、私の生み出した儀式の中でもとくに美しいものだと言えるだろう。内容は単純。ベットに入って目を閉じたら、いま自分が寝ているのが、ここではない、自分のよく知っている別の場所だと想像しながら眠る、というだけのもの。
たとえば実家のベッドだったり、大学の頃に住んでいた安アパートだったり、あまり気の合わない友達と数か月だけ共同で借りていた部屋だったり、学生時代のホームステイ先だったり……。
リアルに細部まで覚えているそれらの場所に、今まさに自分は横たわっている。と思い込みながら目をつむる。
まぶたさえ閉じてしまえば、人はかつて存在したすべての場所に存在することができるのだ。
この儀式の素晴らしい点は(そして同時に最低な点でもあるのだが)、当時そこで一緒に暮らしていた人の話し声や、空気の揺らぎ、TVの音声みたいなものまでが、ぼんやりと再現されてしまうところにある。
まるで自分自身がいくつもの並行世界に分岐していくような、そのまま溶けて消えてしまうような、不思議な感覚に満たされて、疲れ果て、たやすく眠りに落ちてしまう。

眠っているあいだ、私は、私ではないものに変身したいと願っている。

目が覚めたら自分とは違うものになっていたい。凡庸ではないものになりたい。風変わりな生き物になりたい。まっさらになりたい。少なくとも缶詰ではないものに。いっそのこと巨大な毒虫にでも。

100人のグレゴール・ザムザ。
100通りのバッドエンド。

翌朝目を覚ました私は、やはり私のままだった。
仕事の身支度を整え、玄関を出る。
マンションの隣室で引っ越し作業が行われているようだった。引っ越し業者がうろうろしている。けれど住人らしき人間は見当たらない。誰かがここに引っ越して来たのか、これからどこかに引っ越すところなのか、私には判別できなかった。最近の私の暮らしぶりときたら、隣室に誰かが住んでいたのか、空き部屋だったのか、それすらわからないほど無機質なものに成り果てていたのだ。
私は会釈だけして通り抜ける。
「いってらっしゃい」と背後から若い女の声がした。住人だろうか。

いってらっしゃい。

久しぶりに聞く人間らしい言葉だった。
でも結局、その声の持ち主が引っ越すのか、引っ越してきたのか、わからずじまい。
何もかも他人事のようだ。

他人事、というのは、なかなか私にぴったりな言葉だと思う。並行世界を見過ぎてしまったせいかもしれない。自分の生活を他人事だと思うから、きちんと仕事をするし、冗談を言われたら笑顔を作る。
そもそも他人事だと思わなければ、会社勤めなんてできるはずもない。
すぐれた商売人や優秀な起業家の、さかしげな言動やスピード感といったものは、いつも愚鈍な私たちを傷つける。
そして不思議なことに、愚鈍な私たちの側から見ても、彼らのような人間は、どこか愚鈍に見えるものだ。
要するに、支配する側とされる側、どちらの人間もウロボロスのようにお互いの尻尾を咬み合っている。
悲しいことに、私たちが噛みついていることに、優秀な人間たちは気づいていないというだけで。

私は定められた法則に従ってPCのキーボードを叩く。上司に理不尽な言葉を浴びせられる。同僚たちが旅行の計画を楽しげに話しているのを貧しい音楽のように聴いている。自分でいれた熱いコーヒーに喉を焼かれる。いつのまにか並行世界が見えている。最後の並行世界に住む最後の私は、すでに働いていない。彼女も大きな会社に勤めていたのだが、嫌いな上司に肩を触られた瞬間、反射的に彼の両目を突いてしまったのだ。そして都合良くデスクの上に置いてあったハンマーで彼の両肩を砕いた。
ついでに両膝も。
彼女は気性が荒いのだ。
しかしその攻撃性によって、今日まで死なずに生き延びることができたのだと思う。
会社を辞めたあと、彼女は両手にハンマーを装備して戦場を駆け巡り、勝ちまくり、成り上がり、今では一国の女王として巨大な城に住んでいる。
私とは何もかもが違う。
私なのに。
ひょっとしたら私は彼女に、他の99人にはなかった友情みたいなものを感じているのかもしれない。
あるいは、連帯責任のようなものを。
この世界の私は(すなわち私)は、カスタードプリンを食べる以上の幸せを放棄している。
プリンを食べる自由さえ残っていればいい。
プリンの味より大きな刺激なんて人間には必要ない。
プリンを十全に味わったかどうかで人の価値は決まるのだ。
私の人生が何年続こうが、この先「プリンを定期的に食べる」より素晴らしいイベントは発生しない。

しかし皆さん、ご存知だろうか。このようなくだらない人生から一瞬で抜け出せる魔法の呪文があることを。
「そんなある日のこと」というのがそれだ。
嘘だと思うなら、あなたも唱えてみると良い。

そんなある日のこと。

私は木曜日の夜だけ、バーで酒を飲むことにしている。滞在時間はぴったり45分。これも数多い儀式のひとつだ。お酒の味やバーの雰囲気を楽しむためのものではない。店はどこでも良い。カウンターさえ空いていれば。誰かと話すつもりもない。1週間のうち、何度か心理的なセーブポイントを作る必要があって、これもそのための儀式のひとつだ。

その夜も私はバーにいた。いつものように無言で過ごしていた。
着席から42分が過ぎ、そろそろ切り上げようかという頃だった。隣に大学生くらいの若い女が座った。金髪に黒いコート。肉体のすべてのパーツが非常に美しいことが一瞬でわかった。
「ミモザ」
バーテンダーの顔も見ずにそう告げて、彼女はこちらに顔を向けた。それと同じタイミングで、並行世界の私が深淵の闇から浮上する。私は2人を同時に見ている。目の前の女と、並行世界の私を同時に。「ミモザしか飲まないんスよ、私って」と軽い口調で金髪の女が言った。私に話しかけている。私は何も返さない。並行世界の私は危機に瀕している。ひらひらのデコラティブなドレスを着て、ピストルを胸に抱え、暗い城の中で銃撃戦に身を投じている。何をしているのだ。そんなに死にたいのか。「というか、生まれてこの方ミモザしか飲んだことがないっすね。ミモザ以外のいかなる水分も。母乳すら。私がミモザ以外の水分を摂取したことがないという事実は、私が幼少期に虐待を受けていたことを意味するのかもしれない。もし私の話が本当ならね」彼女は勝手にぺらぺら喋り続けている。「あー、でも初恋の男の子の水筒は飲んだことあるかな。遠足のとき飲ませてもらって。飲ませてもらったというか、盗み飲みしたんスけど。こっそりね。粉のポカリスエットだったな。あの子のお母さんが用意してくれたのかな。お父さんかも。お爺さん? お婆さん? あの子自身かもしれないっすね。自分でポカリの粉を水に溶いたんだ。うん。なんか、そういう気がするな。今となっては」
どうでもいい言葉の羅列。その途中で、並行世界の私は何者かに額を撃ち抜かれて死んだ。血を流し、膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れる私。こうして最後の並行世界は、あまりにもあっけなくクローズした。私は、ついにひとりきりになったのだ。
「この人にもミモザを」
隣の女は、私を指し示しながらバーテンダーに告げた。女が白い手袋をしているのにそのとき気づいた。
私の目の前にミモザが供される。
微弱な振動が私の腕時計から伝わった。45分が経過した合図だ。儀式は終わり。私は立ち上がる。手が震えていた。並行世界の終焉が私の孤独を本物にしたのだ。隣の女はミモザを一気に飲み干してから私に言った。「あなたも飲んだら? 死者への手向けだよ」
「死者?」
「身近な人を亡くしたんでしょう」
「え?」
「目の色。私が話してる途中で、誰かに死なれた。そういう人「特有の変わったんスよ、あなた」
私は返すべき言葉を思いつかずに、その場で凝固した。
「ミモザ」追加して彼女は私を見る。「悲しかったら私の目を見てください。誰かに死なれた人を慰める目をしていると思うから……」
私たちはしばし見つめ合う。
「してない」と私は言った。
「してないっスか」
「してないね。普通の目だよ」
「でも、100点だと思いませんか?」
「何が?」
「私が。私の登場の仕方が。ミステリアスで。100点ですよね」
彼女はグラスをわざとらしく持ち上げる。白い手袋と袖口のあいだに、細い手首がのぞいた。アニメか何かの鳥のキャラクターが描かれている。
「きれいな絵」と私は言った。「それタトゥー?」
「そう。タトゥーまみれなんすよ、私」
「何か有名なキャラクターなの?」
「ピジョンっす」
「ぴじょん?」
「ポケモンの」
 彼女は袖を少しだけめくった。鳥だけではなかった。彼女の手首は、びっしりと隙間なく、私の知らないキャラクターで埋め尽くされている。
「カイリュー、レディアン、ブルー、マリル」ひとつひとつを指差しながら、呪文のように彼女はつぶやく。「タマタマ、ガラガラ……フシギダネ」
「不思議なの?」
「不思議だね、って言ったんじゃないっスよ」彼女は笑った。「フシギダネ」
「それもポケモン?」
「どれもポケモン。全身に807匹のポケモン彫ってんスよ、私って」
「うそ」
「本当」彼女は再び手袋をはめた。「見たいっすか?」


このあとに予定していた12の儀式を、私はすべてキャンセルした。


半蔵門線で、渋谷から清澄白河まで移動する。
そこから歩いた。
いろいろな話をしながら。
彼女は10歳より以前の記憶がないのだという。正確に言えば、この世に突如10歳児として出現し、ずっとひとりで暮らしてきたのだと言い張った。
「学校は?」
「まず教育を受けたことがないっスね」
「お金は? どうやってごはん食べてきたの」
「食べなくても死なないみたいなんスよ、私って。どうもね。ミモザしか飲んだことないし。最初は10歳の子供だったのに、ときどき思い出したように体と心が成長するし。パーツを取り付けるみたいに、段階的に。急に背が5センチ伸びたり、急に頬の肉が削げたり、急に髪の色が変わったり。たぶん誰かのプラモデルなんスよ、私って」
「意味がわからない」
「意味については何も語ってないっす」
「休みの日は何してるの? 職業は? 恋人は? 逮捕歴があるって本当?」
「大丈夫っすか? 変なブログみたいになってますけど」
「うそ、私……普段あまり人と話さないから……気をつけないと」
「逮捕歴なんてないっすよ。タトゥーに偏見ありすぎじゃないですか? 恋人はいない。休みの日は、リアル脱出ゲームとか人狼とかっすね」
「陽気な人なんだ」私は少しがっかりした。なんとなく、彼女も私と似た寂しい人間なのだと決めつけていたのだ。
「陽気ってほどでは……普通じゃないすか?」
「めちゃくちゃ陽気な人だよ、リアル脱出ゲームとか人狼って。スポッチャとかハロウィンの仲間でしょう?」
私の言葉に彼女は軽く吹き出した。
「ぜんぶ普通の人がやってるんだと思いますけどね。人狼もスポッチャも。サバゲーも死刑執行も。あ、着いたっす。ここが私の家。というか、私がこの世にいきなり登場した座標であり、自宅であり、職場でもある、って感じっすかね」
コンビニくらいの大きさの、真四角で無機質な建物が目の前にある。
入り口のドアには、

247589

と書かれていた。
「職場?」
「タトゥーショップっす。会員制の」
「この数字は何?」
「私の名前。2、4、7、5、8、9、というのが」

247589は白い手袋を外した。
彼女の手の甲にはタトゥーがない。かわりに、でたらめな傷がある。
247589は、扉に刻まれた247589という数字に、手のひらを当てた。
すると彼女の手の甲に、ぼんやりとキャラクターの絵が浮かび上がる。傷は見えなくなった。ほぼ同時に、ドアが解錠される音。
247589の手の甲で光っている絵には、見覚えがあった。
「ピカチュウだ!」
「知ってんスか?」
「ピカチュウぐらいは」
「かわいいな」
「ピカチュウが? それとも私が?」
「どっちかはまだ決めてないっす」

案内されたのは、コンクリートの壁で仕切られた真四角の空間だった。とても寒々しい部屋だ。大きなベッドと、小さなテーブルと、小さなプールと、古いテレビが1台。扉がふたつあって、窓は見当たらない。テレビは50年前からタイムスリップしてきたような骨董品で、教科書や昔の映画でしか見たことがないような型だった。何かの撮影セットみたいな印象で、彼女がここで生活しているとはとても思えない。

「おしゃれな部屋だね」とだけ私は言った。
「そっすか?」
「バッグどこに置けばいい?」と私が聞いたときには、247589はすでに服を脱ぎはじめている。
「お好きな場所に」
「どうして脱ぐの?」
「え? タトゥー見に来たんじゃないんすか?」
「こんな急とは」
「急じゃないことって何かあります?」
247589は早くも下着姿になっている。
彼女の肌の解像度は非常に細やかだった。だけど、目に見える範囲にタトゥーはない。かわりに、見るも無惨な無数の傷があった。なんかヤバい奴についてきてしまった……と今更ながらに私は怯えていた。なんとか刺激せず、自然な感じにここを出ないと。さいわい、終電まではまだ時間がある。
私は彼女から目をそらして、古いテレビに興味があるふりをした。
「これ映るの?」
「もちろん。私、テレビしか観ないんで。ネットもやらないし、読書もしない。音楽も、真面目には聴かないっスね」
「珍しい」
「テレビを見ていると、いろいろなことに気がつくんですよ。バラエティ番組で自分のコンプレックスをおもしろおかしく開示する人を見て笑い転げるのと、ドキュメンタリー番組で悲惨な状況を淡々と表明する人を見て涙を流すこと。そのふたつのあいだに何か違いはあるのか、とかね」
「難しいこと考えてるのね」
「どちらも低俗の極みであり、だからこそ素晴らしいともいえる。いろいろな成分が混じってるんスよ。そこが大変おもしろい。ところで」
「なに」私はまだ彼女のほうを見ない。
「テレビをずっと見ていると、別々の人間が、別々の場所で、とても似通ったエピソードを語る場面に繰り返し遭遇するんです。たとえば、『子供の頃から家族全員、家の中では全裸で過ごす決まりなんですよ。それが普通だと思ってたんです』って告白する芸能人、ときどきいるじゃないスか。あと、手のひらに乗せられるくらい小さいおじさんが机の上を歩いているのを見た、とかいう人。お金に困っているわけでもないのに、野草をちぎってその場で食べるのが趣味だった人とか」
「へえ」
「ちなみに、いま挙げた例の中に、私が経験したのと同じエピソードもありますよ」
「え、どれ? 全裸? 小さいおじさん? 野草?」
小さいおじさんを見たという話だったら良いのに、と私は期待した。
「全裸」と答えるタイミングで247589はちょうど全裸になった。「家の中では服を着ないんです、私。裸でいるか、水着で過ごすか。家ではいつも裸か水着なんです、ってテレビで告白してたのは、有名な女性アナウンサーでしたね、たしか」

彼女の体のシルエットは、今まで見たどんな生物のそれより美しかった。
だけど彼女の全身の皮膚には、電子基板のような細かい無数の傷がある。
思わず目を背けたくなるほどの生々しさ。不思議と目が離せない。
「タトゥーなんてどこにもないじゃない」
私はかろうじてそれだけを言った。
「ああ。興奮しないと浮かび上がらない仕組みなので」
247589は裸のままこちらに近づき、軽くハグして、私の髪に鼻を押しつけてきた。
すると彼女の全身が青白い光を帯びる。静電気にさらされたように、私たちの髪の毛が逆立つ。彼女は私から少し体を離した。彼女の肌は今や艶やかに輝いている。傷なんてどこにもない。可愛らしいイラストがびっしり浮かび上がっている。すべてのキャラクターが光を放っている。
数字の羅列が美しいコンピュータグラフィックに変換されるように、彼女の傷も何らかのプログラムとして作動したかのようだった。
私はほとんど呼吸するのも忘れている。
「ね? 言ったでしょ、ポケモンまみれだって。807匹」
「すごい」
247589の全身は発光する807匹のポケモンで埋め尽くされていた。顔と、手首から先の部分を除いて。
大都会の鉄道路線図みたいに密度が濃い。
悪趣味、低劣、粗にして野、って感じだ。
でも私の目には、たとえようもなくエレガントに、知的に、文化的に映るのだった。
「これタトゥーなの? 手品じゃない?」と私は聞く。
「一生消えない傷という意味ではタトゥーと同じっす。私にしかできないやり方ではあるけど。他人の心の傷を、体の傷に変えることができるんだな、私って。そういう不思議な力がある。つまり、なんて言えばいいのかな、皮膚に彫ってるんじゃなくて、私にぴったり重なってる、もうひとりの私に刻んでるっていうか……この力に気づいたのは17歳のときなので、まあ最近身についたものなんスけど」
彼女は私の顔を優しく両手で挟んだ。
「ほら、もっとしっかり見てください。きれいでしょう?」
247589の頬はやや上気している。蒼白い部屋の薄明かりが白い肌に反射して、奇妙なほどに扇情的だった。そもそも女である私も、ほかの女の体をこんな仔細に見る経験は今までなかった。
「ポケモン、好きなんだ?」私は間抜けな質問をした。
「ぜんぜん興味ないっす」と彼女は笑う。
「ぜんぜん興味ないんだ?」
「ぜんぜん興味ない。1匹も名前知らなかったんスよ、つい最近まで。ポケモンの図鑑を何冊も買って、1ページ目から順番に覚えていったんです。試験勉強みたいにして」
「なんのために」
「まったく興味のないものに自分の体が覆い尽くされている、ってのが私の目指したところっスね」
「理解できない」
「理解は、自分でもしてないんで、大丈夫です」
「現代アートみたいなもの?」
「うーん」彼女は少し上を見る。「なんか違うっすね。どっちかというと、我が亡き後に洪水よ来たれ、って感じっす」
「ルイ15世だっけ」
「えっ。よく知ってますね。ポンパドゥール夫人が言ったとする説もあるけど」
「あなたこそよく知ってるね。義務教育も受けてないし、テレビしか観ないってわりには」
「いろんなテレビがありますからね。まあ、ルイ15世でも、その愛人でも、どっちの発言でも良くて、解釈もどれでもかまわない。ただこの言葉が、私の気持ちを正確に表している気がするんですよ」

我が亡き後に洪水よ来たれ

言われてみると、私の人生観にも過不足なく当てはまる言葉のように思えてくる。
私は再び彼女の裸を眺めた。
「いちばん気に入ってるタトゥーはどれ? スリーサイズは? 収入は? 過去に大物を怒らせて干されたって本当?」
「またブログみたいになってる」
「本当だ……私って興奮するとブログみたいになるのかな」
「たぶんですけど、直したほうが良い癖ですね」
「ごめんね、もうしない」
「いちばん気に入ってるのはこれ」彼女は胸の谷間に指先を揃えて当てた。「メロエッタ」
女の子の妖精みたいなイラストが、柔らかそうな247589の胸のあいだで揺れている。その光景は私の官能をひどく刺激した。
「かわいい。だけどすごくセクシーにも感じる」
「性的な妄執が少しも込められていない絵なんて、何の価値もないガラクタですからね」
言いながら、247589は私の頭をメロエッタの近くに導いた。
「いい匂いがする」熱に浮かされたような自分の声を、私は他人のように聞いている。
「たぶんミモザの香りっすね」247589は言って、手袋を外していない左手で私の唇をさわった。「私はミモザしか口に入れない。ごく一部の例外を除いては」
「ごく一部とは」
「これからわかる」
247589は私の顔を上向きにして、キスをした。
12秒間。
顔を離して、少し見つめ合う。
「これは何の儀式?」
「儀式?」と彼女は微笑んだ。「ガールハントに成功したというだけ。私が」
ガールハント。
とてつもない死語だ。
しかし私は弱々しく「ガール」とつぶやくことしかできなかった。
ガール。
「あなたが100人目なんです。私の無計画なガールハントの」
「100人目」私は馬鹿のように繰り返す。
「そう。私には99人のガールフレンドがいた。私は過去の恋人の人数を自分の力だと錯覚するタイプの女だから。でも安心してくださいね。これまでの99人は、今日のための練習に過ぎなかった」248589は再び私に顔を近づける。「今日が本番だよ」
「今日が本番」
それがこの日の私が発した最後の人間らしい言葉となった。

そのあと数時間をかけて、私たちはベッドやプールや壁や床で、めくるめく神秘体験を巻き起こし、さまざまな奇跡を目の当たりにした。ポケモンもたくさん見た。光ってた。

これは私の中に蓄積された初めての物語、初めての意味、初めての快楽、初めての善行、初めての接触。みたいなものだと思われた。
要するに、すべてが混沌のうちに終わっていた。
ようやく理性を取り戻したときには、日付も変わり、明け方も近くなっていた。
「あなたって、私の夢の中から出てきたみたいな人ね」ベッドの中で、私は乙女のような言葉を漏らした。
「夢の中って?」
「私、ずっと夢を見てるの」私はもう乙女のようにしか喋ることができない。「100の世界の夢を同時に。今はもう見えなくなったのだけど」
私は、おそらく私の妄想にすぎない並行世界の概要を、ぽつりぽつりと247589に説明する。
これまで誰にも話したことのない秘密だったのに。
「将棋みたいな話っすね」というのが247589の感想だった。
将棋。
たしかにそうかもしれない。検討されたすべての手筋で、私の王国は詰んでしまうのだ。
次に私は、少しずつ増えていった100人の私が、結局すべて生き絶えたことを彼女に伝えた。
話を聞き終えた247589は、少し黙ったあと「ヴァスコ・ダ・ガマがリスボンを出港したときに」と言った。
「ヴァスコ・ダ・ガマ?」
「そう。ヴァスコ・ダ・ガマのキャラック船には最初170人の船員がいたんです。でも喜望峰を回り、カリカットに到達し、香辛料を手に入れて、無事ポルトガルに帰還できたのは、たったの44人だった」
「けっこう生き残ってる」
「そう。ヴァスコ・ダ・ガマの危険な冒険でも44人が生き延びた。あなたのほうがもっと悲惨。100人全員が死ぬなんて。悪夢以外の何ものでもない」
「悪夢っていうか、夢も希望もないよね」
「航路も香辛料も失われた感じですね」
「ねえ、急にヴァスコ・ダ・ガマの話をしないで」
乙女はヴァスコ・ダ・ガマの話など聞きたくないのだ。
247589は少し申し訳なさそうに苦笑した。
「最近テレビでやってたので。テレビ番組の並べ方ってのは、何の脈絡もないものですからね。まあタイムラインも脈絡はないか。でもテレビの場合は……」

私は彼女の話を最後まで聞くことができなかった。
いつしか深い眠りに落ちていたのだ。
信じられないことに、儀式の力を一切借りずに。

翌朝目を覚ますと、私は小さなベッドに人形のように行儀よく収まっていた。すぐ近くに247589が寝ている。誰かとふたりで目を覚ますのは本当に久しぶりのことだ。彼女のタトゥーはオフの状態、つまりポケモンは表示されておらず、なめらかな肌は迷路みたいな傷に覆われている。

1時間後には、私は丸い木製のテーブルに並べられた玉子サンドとコーヒーを目の前にしていた。247589が作ってくれた朝食だ。
「あなたのぶんは?」
「私はこれ」彼女は500mlの缶ビールを冷蔵庫から取り出しながら言った。
「ミモザしか飲まないのでは」
「これは一部の例外に含まれる」
家では全裸か水着、などとうそぶいていたくせに、247589は黒いスウェットの上下に身を包んでいた。昨日はかけていなかった黒縁のメガネを、金色の髪が少し隠している。
朝の彼女はとても理知的な印象で、清潔で、動作が速く、一緒にいると気分が良かった。
私たちは向かい合って朝食を取る。映りの悪いテレビは、6人の犠牲者を出した連続殺人事件の犯人が捕まったというニュースを報じていた。
「犯人は若い女性ばかりを狙って犯行を繰り返していました」というアナウンサーの声が聞こえた。
「それってわざわざ強調するところなんすかね」と247589が反応する。
「より凶悪な事件に思わせたいんじゃないかな。なんか卑劣な感じがするでしょ、若い女性ばかりを狙うのって」
「じゃあ、いろんな年齢の女性を狙った犯人に対しては、『さまざまな年齢の女性をバランス良く狙っての犯行』とか言うんすか?」
「なんだそれ」私は思わず笑った。「そんなの、いちいち気にすること?」
「自分のことを言われたような気がしたのかもしれないっすね。若い女性ばかりを狙う、ってのが」
私は2秒ほどその意味を考える。
「私って狙われたの? 私の被害は? 私を若い女だと見なしてる? このあと殺されるって本当?」
「またブログになってる」
「またブログになってた……」
「殺さないよ」と247589は微笑む。「そんなことより、仕事間に合うんすか? ずいぶんのんびりしてますけど」
「そんなの気にする常識はあるんだ」
「タトゥーの数と常識の有無に相関性はないっすよ」
「そうだ、ここタトゥーショップなんだよね? 私もタトゥー入れたいな。どれくらいお金かかる?」
「恋人からお金なんて取らないよ」
さらりと247589は言った。
私たちは恋人になったのか、と私は思った。
少し気分が高揚する。
「名前、何て呼べば良いの? 数字で呼ぶの?」
「コハクでいいよ」
「コハ……ク?」
「247が苗字で、589が名前。ニシナ・コハク」
「2、4……ああ、そういう意味だったのか。それなら私の名前も数字で言えるよ。3、8、4、2、3、5」
「みはし……にさこ?」
「ふみこ」
「ふみこさん」
「ふみこでいいよ」
「ふみこ」

仁科琥珀 247589
三橋史子 384235

私はiPhoneのメモにお互いの名前を並べて表示した。
そしてしばらく、ふたりして無言でそれを眺めた。コハクの手は私の手に軽く添えられている。
私はずっと誰かと、こういう時間の過ごし方をしたいと思っていたのだ。そのことに気づいてしまった。
「タトゥーを入れたいってのは本当だよ」
「どんなタトゥー?」
「あなたと同じでいい。ポケモンで全身を埋め尽くしたい」
「同じのはだめだよ」
「どうして」
「私に似てしまうから」
「似たらだめなの」
「似たらだめ。誰からも離れて、自分からも離れて、真の孤独を手に入れるために、私のタトゥーはあるんスよ」
「難しいこと言い出した」
「誰かの真似をしたいだけなら、タトゥーなんてまだ早いってことっスね。とくに私のは普通のやり方じゃない。心の傷をあばく野蛮なタトゥーなんでね」

会社には40分も遅刻した。誰にとがめられることもなく、何の滞りもなく、そもそも私が遅刻していることに誰も気づいていないようだった。
私は無軌道にPCのキーボードを叩き、自分が任されているプロジェクトを、いくつかの方向に、いくらかだけ進行させた。
私の仕事というのは、真っ白な布に、真っ青な染料を染み渡らせるようなものだと思う。毎日少しずつ、青い色を染みこませていけば、いつかは真っ青な布ができあがる。
それが終われば、また新しい布が渡される。
私が染めた布は巨大な倉庫にしまわれて、何かに使用されることは永遠にない。
私の孤独は一層、重さを増している。
幼い頃から感じていた並行世界はひとつも残っていない。今の私は、ひとつの体で、ひとつの世界を生きている。
それどころか、昨日までは私の中に存在していなかった恋愛感情が、私という生命体の中心部にセットされ、新たな動力源として、したり顔で居座っている。
あれほど忌避していた「奇矯な振る舞いの皮を着た、特別な恋人との、特別な恋愛」に悪酔いしている。エモろうとしている。
私のように偏屈でいじけた人間は、王道を外れた恋愛に滅法弱い。まともではない自分が許されたような気がしてしまうのだ。自分がレアリティの高い貴重な生物に変身したような錯覚さえ起こしてしまう。どうせ恋愛なんて何ひとつ制御できずに、最後はスピードの出し過ぎで崖から転落して死ぬのだ。あるいは失恋の痛みをプロレス技みたいにまともに食らって、微笑んだまま絶命する。その技に名前つけるとしたら、『運命の運命による運命のためのフランケンシュタイナー』とか、そういったものがふさわしいだろう。
つまり私には、もう何の可能性も残されていない。
私の体はすでに墓標なのだ。
しかし墓標に刻むべきものを、私は完璧に理解していた。

コハクは私をベッドに横たわらせる。
見上げるコハクの顎は、絵に描きたいくらい形が良くて、私はそれだけで嬉しくなった。
「それでお客さん、何を彫るか決まりました?」コハクは少しおどけている。「何しろファーストタトゥーですからね。よく考えて決めるべきです」
「そうですね、小さな花束にします」
「花束?」
「私に見ることができた100の並行世界には、100人の私が住んでいた。それぞれの私に、それぞれの人生があった。最初に並行世界を見つけたのは7歳の冬。私たちは同じ速度で成長していった。でも高校を出ると、彼女はすぐに花屋に勤めた。花が大好きだったから。そこでテロに巻き込まれて死んだ。花とは何の関係もない、硬貨と紙幣を神と崇める宗教のテロだった」

最初の並行世界の私、つまり私の最初の可能性、あるいは敗北が決定している棋譜について、私はまるでおとぎ話のように語り始めた。
聞いているあいだ、コハクの右手が私の右肩に当てられていた。
そうしているうちに、私はいつの間にか失われた並行世界の中で生活している。
花屋の店員として。
その世界で私はコハクと2人暮らしをしていた。
18歳の頃、テロで命を落としたはずの花屋の私。その人生を追体験している。だけど彼女が生涯得ることのできなかった安息を、私はコハクと暮らすことであっさりと手に入れていた。
並行世界で命を落とした私の魂に乗り移って、新しい生活をやり直す。
彼女は花が好きだったわけではなかった。花が好きなふりをしていたのだ。孤独に震えながら。自分の人生を花に捧げたのだと思い込もうとしていた。そのことがよくわかった。自分が欲しがっていたものは、本当は少しも欲しいものじゃなかったと気づくこと。よくある勘違い。よくある強がり。死ぬまで「花が好き」という演技を続けることができるだろうか? そんな不安に塗りつぶされたとき、宗教テロに巻き込まれて、彼女は、つまり私は、あっけなく死んだ。史実通りに。

翌朝、コハクと2人で目を覚ます。右肩に鋭い痛みを感じる。生々しい傷が数本刻まれている。血が凝固したばかりで盛り上がって見える。
「おはよう」と目の前でコハクが言った。
「おはよう。ねえ、この傷って……」
コハクが私の唇に指を当てたので、続きが言えなかった。ゆっくりと唇をなぞったあと、コハクは私の口を指でこじ開け、舌をつまんだ。少しだけよだれが出る。それだけで私の胸は高鳴り、心がぐらぐらに揺れる。
右肩が急に熱を帯びた。
さっきまで傷があったその場所に、美しい花束のタトゥーが出現している。
それは鈍く発光していた。
「きれいだね」とコハクが花束を撫でながら言った。その顔は昨日よりもなぜか少し幼く見える。
「他の人にも、こんなやり方で彫っているの」
「まさか。これは特別なタトゥーだよ。お客さんには、やらない」
「そうか……」
「そっすよ」
コハクの無邪気な笑顔が胸にしみる。
「じゃあ、今日から手伝ってね」私は独りごとのように言った。「私の体じゅうを、失った100人の記憶で埋め尽くしたい」

その日から、私は自分に課していた儀式をすべて廃止した。
生活のフォーマットは一新され、とてもシンプルなものになった。
昼間はこれまでと同じように出勤し、与えられた作業をこなす。
夜は自宅ではなく、毎日コハクの家に戻った。
そこでテレビを見たりしながらふたりで過ごす。
眠る前にコハクのベッドに寝そべって、1日にひとつ、消えてしまった並行世界の思い出話を聞いてもらう。
私が話をしているあいだ、コハクは私の体の一部に手を当てている。
そうしているうちに、不思議なことに、私たちは失われた並行世界の住人となっているのだ。今はもうないはずの世界で、ひとりきりで生きていたはずの世界で、ふたり仲良く生活している。100人の私を死ぬまで苦しめていた孤独。彼女たちの人生をコハクとやり直すことで、それは嘘みたいに浄化されていく。
こんなに簡単なことだったのか?
なんだか騙されているような。
翌朝目が覚めると、コハクに触れられていた部分には必ず新しい傷ができていた。それを眺めるだけで気持ちが満たされる。自分が少しずつ、自分の望む姿に生まれ変わっているような気がした。
この傷は、死んでいった私たちの孤独を肉体に変換したものであり、輝くタトゥーを呼び出すためのコマンドの羅列でもある。
私のタトゥーは、心がぐらぐらに揺らいだときにだけ現れる。
人生の価値は、心がどれだけぐらぐらに揺らいだかどうかで決まるのかもしれない。やわらかいプリンのように。
私は固いほうが好きなんだけど。
プリンはね。

ある並行世界で、私はベビーシッターをしていた。とても尊敬できる夫婦のあいだに生まれた子供だった。私も当然、この子のことが愛しいのだろう。他人事のような、まさしく私らしい理解の仕方で、私はそう思っていた。過不足なく仕事はこなせていたはずだ。子供も懐いていたと思う。子供の無邪気さが、私という人間を良い方向に導いてくれそうな予感もあった。私とコハクとのあいだにも子供ができたらいいのに。そんなある日のこと。私がその家の夫と不倫関係にあるという妄執に囚われた妻に、突然私は滅多刺しにされてしまう。翌朝コハクのベッドで目覚めた私の左の脇腹には、ベビーカーのタトゥーが刻まれていた。


ある並行世界で、私は暗殺集団を率いる腕利きのアサシンだった。暗殺稼業こそ私の天職だと信じ切っていた。私はリンゴ農園の経営者に雇われていた。この世界ではリンゴ農園同士の紛争が絶えない。人の価値よりリンゴの方が上なのだ。私は数え切れないほどの悪のリンゴ農園を襲撃し、数え切れないほどのリンゴを血に染めた。リンゴはその後スタッフがおいしくいただきました。私はリンゴを心の底から愛したかったのだ。悪のリンゴを滅ぼして、善なるリンゴを守りたかった。でも、いつまでもこんな生活が続くはずがないという予感もあった。コハクと暮らすようになって、私の暗殺の腕は鈍りつつあるようにも思えた。そんなある日のこと。私は農園に入り込んだマムシに咬まれて死んだ。紛争とは無関係に。翌朝、私の足首にリンゴのタトゥー。


毎朝、美しい橋を渡って通学する私。自分の街にこんな素晴らしい橋があるなんて。誇らしくて仕方がなかった。戦争状態にある敵国の空襲で橋ごと死ぬまでは。橋のタトゥー。犬を5匹も同時に飼っている私。犬の散歩中に交通事故死。犬のタトゥー。コーヒーショップを経営する私。隣接する美容院のガス爆発に巻き込まれて死亡。コーヒーカップのタトゥー。マンホールの中で貧しい境遇の人たちと共同生活している私。街の浄化に乗り出した警官隊と、マンホールの住人たちとの揉み合いの中で死亡。マンホールの蓋のタトゥー。アイドルグループ「泣かないで、ジュリエット」の一員として舞台の隅っこで踊る私。ヘリに乗って地方のライブ会場からNHKに向かう途中、ヘリが墜落。メンバー全員死亡。「泣かないで、ジュリエット」のロゴのタトゥー。何だかよくわからない物理法則が働く世界で、何だかよくわからない政治活動のようなものに身を投じた私。何だかよくわからない大失敗をしでかして、何だかよくわからない拷問を受けて死亡。何だかよくわからない拷問器具のタトゥー。

どの世界でも、私はコハクと暮らしていた。
どの世界でも、自分に信じ込ませ、自分を縛りつけていた欺瞞から、コハクを愛することで解放されていた。
「コハク」と呼べば、いつでも「ふみこ」という温かい音が返された。
とても幸せ。
結局は死ぬ運命にあるのだけど。

私のタトゥーが増えるごとに、コハクの容貌は段階的に、しかも極端に若返っていった。家族旅行のフォルダを遡るみたいに。タトゥーの数が50を超えた頃になると、コハクはほとんど中学生ぐらいに見えた。80あたりになると、小学生みたいになっていた。私は孤独に苛まれることもなくなり、というより、これまでずっと自分の友人のように親しく感じていた孤独というものが、じつは自分にはまるで似合っていなかったのではないか? という疑いすら持ち始めていた。
孤独がすごいスピードで肉体の傷に変換されているせいだろう。
私は鼻持ちならない人間に変貌しつつあるのかもしれない。
言ってしまえば、私の精神は生まれて初めて、完全に安定していたのだ。

コハクとの99日間は、そのようにして過ぎていった。

100個目のタトゥーを彫ってもらう日。
コハクは10歳児の姿に戻っていた。
フリルのたくさんついたかわいいドレスを着ている。
あの魔法のような文字列が脳裏をよぎる。
舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。
その魔術的モーションを呼び起こすための名前。

ロ。リー。タ。

いまや私の肉体には99のシンボルが刻み込まれている。
そして今夜、胸の谷間にピストルのタトゥーがそこに加わる。
ついに全てが終わるのだ。
「私は10歳より昔には戻れない」と幼い声でコハクが言った。「10歳児としてこの世に出現したので」
「最後のタトゥーを入れたら、コハクはどうなるの?」
「卵に戻る」コハクは幼い薄笑いを浮かべる。
私は笑わなかった。かわりに、とても基本的な質問を差し出す。
「あなたって何なの」
「私はもともと卵だった」美しい子供の姿で、可愛らしい子供の声で、コハクは喋る。「卵の状態で、この家に安置されていた。10年前、ふみこの並行世界が100に達した瞬間に、その力の余波で私は孵化したの。ここで。静かに。最初から10歳の姿で。ふみこが最初に並行世界を発見したのは7歳のときでしょう? それから10年をかけて、並行世界の数は100に到達したはず。その間、私は温められていたの。ふみこの心に。私が孵化すると、すべてのルールが変わってしまった。ふみこが心に傷を負うたびに、ふみこの並行世界がひとつ閉じる。そのたびごとに私は段階的に成長した。ふみこの痛みを残飯みたいに漁って成長してきた」
「並行世界って私の妄想でしょう?」
「だとしたら私も妄想ってことになる。それが答えでも別にかまわない。でも私はまったく別の仮説を支持してるの。並行世界は存在する。私はゴミ捨て場だったんだよ。ふみこと重なっていた100の並行世界の」
「ゴミ捨て場……」

私はプリンの空き容器が積み上げられた自宅のゴミ捨て場を思い出す。

「この家は、最初からふみこの並行世界の設計に含まれていた。私の存在も。ふみこが捨てた、丸めた紙くずみたいに圧縮された世界の残骸。それを食べて私は大きくなった。だから今、その力を適切な形でふみこに返している。特別なタトゥーに変えて。当然の帰結として、私は徐々に時間を遡り、徐々に小さくなり、徐々に卵に戻ろうとしている。ふみこは今、後片付けをしているんだよ」
「なんのために」
「なんのために、とは」
「なんのためにそんなシステムが作られたの。並行世界が私の妄想ではなくて、本当に存在するのだったら」
「不思議なことって、何から何まで解明しなきゃいけないの?」コハクは微笑の一歩手前といった表情を浮かべる。「科学者でもないのに。科学者でさえ世界のことを何も知らないのに。科学者でさえ世界を科学ではなく物語だと誤解してしまうことがあるのに」
「物語だったらなおさら、終わりまでには謎を解明しなくちゃいけないんじゃない?」
「まず第一に私たちは物語じゃない。そして物語の中には、謎が解明されないまま終わるものもある。そして」ここで初めてコハクはにっこり笑った。10歳のあどけない顔で。「謎が謎のまま終わる物語のほうが私は好き。作り物っぽいし、本物っぽいから」
「どっちなの」
「どっちもだよ。本物にしか見えない作り物も、作り物にしか見えない本物も。本物にしか見えない本物だとか、偽物にしか見えない偽物なんかより、よほど尊い」コハクは金色の前髪をかきあげる。手の甲にピカチュウが輝いていた。ドレスの袖からのぞく手首にも、大量のポケモンがひそんでいる。「ふみこ。存在しているものは、存在しているの。山とか、雲とか、嘘なんかと、まったく同じようにね」
途中から、コハクが喋っているのか、私が喋っているのか、わからなくなってしまうような、不思議な酩酊感の中に私はいた。
「これで最後なの?」私は絞り出すように言う。
「そうだよ。聞かせてよ。最後の並行世界の物語を」
見た目も声も10歳のコハクが言う。
これは誰だ? と今更思う。もはや恋愛対象とは言えない。見た目が変わっただけなのに。
こんな手品みたいな終わり方の恋ってあるだろうか。
でも人生なんて、種も仕掛けもある手品みたいなものかもしれない。
それを見破っている人間と、純粋に騙される人間がいるだけで。

無限に存在する並行世界
無限に存在する似たような人間
無限に存在する似たような孤独
無限に存在する愛と死

私たちはランダムにそのどれかに配置されて、同じ世界を生きていると錯覚しながら、別の世界の手品を眺めているのだ。
私は静かにベッドに横たわる。
「これで終わりなんて嘘みたい」
と私は言った。
コハクが言ったのかもしれない。

最後の並行世界の私は、私とコハクが出会った日に死んだ。
額を撃ち抜かれて。
城を襲撃した暗殺者の集団にやられたのだ。
暗殺者の顔を私は知っていた。リンゴ農園を襲撃した私だ。
殺された私が着ているひらひらのドレスにも見覚えがある。10歳のコハクが着ていたドレスと同じデザイン。
地面に倒れて血を流す私に、リンゴ農園を襲撃した私が近づく。倒れた私を冷徹な眼差しで見おろす。さらに2発の銃声。弾丸は2つとも、正確に私の肉体に撃ち込まれた。

翌朝、私はひとりで目を覚ました。
胸の谷間にピストルのタトゥーが加わっている。最後のシンボルだ。今はただの生傷にしか見えないけれど。私の全身には100ものタトゥーと、その設計図である痛々しい傷がある。私の心がぐらぐらに揺れたとき、これらの傷は美しいタトゥーに姿を変えるのだ。
テレビをつける。新しい移民法が成立し、その賛成派と反対派が大規模な武力衝突を起こしたというニュース。何か意味のある光景だと理解するのに少し時間がかかった。気を抜くと、ゲームオーバー寸前のぷよぷよの画面かと思ってしまう。ぷよぷよなのかもしれない。もしぷよだとしても、もうすぐ終わる。残念ながらこの世界からは、美しい幼稚さが排除されつつあるのだ。そのかわりに、成熟した大人の顔をした、もっと恐ろしい幼稚さに覆い尽くされようとしている。

机の上には卵が残された。
私はそれにマジックで247589という数字を書いた。この卵は今はもう、私以外の他の誰かのための妄想を宿しているのだと思った。
247589の家を出る。
100日ぶりに自分のマンションに戻った。
隣室の前を通ると、ちょうど大学生くらいの女の子が出てくるところだった。新しい住人だろうか。パリサンジェルマンのTシャツに、クールなショートパンツ。赤いスニーカー。
「おかえりなさい」と彼女は言った。
私は軽く会釈してすれ違う。
聞き覚えのある声だった。「いってらっしゃい」といつか彼女に言われたことがあるような。
卵みたいにつるんとした肌の女の子だった。
この子が、タトゥーまみれの私の裸を見たらどう思うだろう? 

若い女ばかりを狙って

という言葉が不意に脳裏に蘇って、少し笑いがこみ上げた。

その夜から、私はすべての儀式を復活させた。
体の傷は、じきにすべて癒えるだろう。そして心の傷だらけの、いじけきった、偏屈で孤独な女に戻るのだ。
だけど以前の私と今の私は、非常によく似た、まったくの別人だと思う。
私は自分の力で別の生物に変化したのだ。
これは経験の力であり、人間の持つ意思の強さであり、純粋に理性的な活動の結実でもある。だけどそれらの全てを、運命、と言い換えることができてしまうのかもしれない。
とはいえ、今のところ私の楽しみといえばカスタードプリンだけ。
「カ。ス。ター。ド。プ。リ。ン」
上下の唇の接触は2回。
私の脳はたちまちプリンに支配されてしまう。上品な甘みが舌にくっきり刻印される。タトゥーのように。あとから広がる微かな苦み。静かな興奮。胸のピストル。ヴァスコ・ダ・ガマの危険な航海。光り輝く807匹のポケットモンスター。
我が亡き後に洪水よ来たれ。
我が亡き後に。
洪水よ。
何もかも洗い流してほしい。
何もかも最初からなかったみたいに。
私は目を閉じ呪文を唱える。
「2 4 7 5 8 9」
上下の唇は、ただの一度も接触しない。




#小説

※作中で引用している「舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く」という描写の出典は、ナボコフ『ロリータ』(若島正・訳 / 新潮文庫)です。

有料ゾーンには、この小説をどのように書いたか、という創作メモみたいなことを書きます。
(今は力尽きて数行しか書いていませんが、随時書き足していきます)
(いずれにせよたいしたことは書かないので、お買い上げの際は、お布施的な感じで、どうかひとつ)
(おまけページ、結局1万字超えて完結しました。お暇なときにでも)


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