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かつて世界中で流行した幸福について (3333字)

 7年前、この世界から突如として12月24日が消失した。

 冷静に考えれば、我々が失ったのは365日のうちの1日でしかない。
 とはいえ12月24日だ。多くの人々にとって特別な意味を持つ、替えの効かない日。
 巨大な喪失感が深夜の歯の痛みのような冷酷さで世界中に染み渡った。
 しかし予想外の早さで痛みが引くと、嘘みたいに忘れられた。
 今ではもう、12月24日を誰も憶えていない。

 そして今年も12月23日の夜がやってきた。
 服を脱いだ彼女は、カーテンも閉めずに窓辺に立っている。
 冬の夜空には星々が正確に配置されていて、ガラスに映った彼女ときれいに重なっている。下着姿の星座みたいだ。脱ぎ散らかした服を足でどかして、彼女は4000円ちょっとの情けないサンタの衣装に身を包んだ。彼女の全身からばちばちと音を立てて蒼白い光が放たれる。
「今年も美しいな」 彼女は真面目な顔で言った。「私は」
「異論はありません」 僕は少し笑う。でも彼女と安っぽい衣装とのあいだには、歴史上一度も起こったことのない化学反応のようなものを感じる。
「気分が良い」 彼女は微笑んだ。「プレゼントは私だよ。などと冗談を言いたいくらいには」
「それは楽しみ」
 じつは僕も、彼女へのプレゼントを隠し持っている。
 だけどそれを渡すのは24時間後の話だ。
 彼女はこれから、たった一人で失われた12月24日に忍び込むのだ。

 もしかすると12月24日が失われたことよりも、サンタクロースがいなくなったことのほうが大きな事件だったかもしれない。7年前に起こった12月24日の消失は、同時にサンタクロースの消失でもあった。
 だから12月24日が失われた最初の年には、子供たちにはプレゼントが一つも届かなかった。
 ただでさえ暗い世の中にあって、子供たちの悲嘆に暮れる声というのは、あまりにも痛切に響く。体調を悪くする者も多かった。
 そこで大人たちは協議の末、毎年25日になると、自分でこっそり用意したおもちゃをサンタクロースからの贈り物であると偽って、子供たちの枕もとに置くことに決めたのだ。
 これが思いのほかうまくいった。
 子供たちはその嘘をすっかり信じたし、大人たちも子供のために内緒でプレゼントを選ぶという楽しみを得た。
 なぜ今までこの方法をとらなかったのだろう?
 世界中の子供たちのプレゼントを、サンタクロース一人に任せていたことのほうが異常だったのではないか?

 思うに、これは12月24日消失後の世界で、ほとんど唯一の良い方向への変化だ。
 そもそも7年前に世界は終わりかけていた。悪意のぎっしり詰め込まれた出口のない箱のようだった。大がかりな戦争と個人的な戦争ばかりがそこらじゅうに転がっていた。そんな時代のさなかに12月24日は失われたのだ。最後のともしびが消えたかのように。
 けれど少なくとも今では、大人は子供たちのためにプレゼントを贈るようになった。
 世界は少しずつ良くなっていく。
 それは僕の個人的な祈りでもある。

 僕自身の生活はこの7年、少しも好転しなかった。毎日毎日、ほとんど寓話的といって良いような、つかみどころのない戦闘を強要され、ぼろぼろにすり減っていくばかり。自分がどんな目的で、どの方向に進んでいるのかもわからない。
 でもきっと、それは僕だけに与えられた苦難じゃない。
 誰だってそんなものだし、彼女の7年間だって似たようなものだったと思う。
 なにしろ彼女は7年前に自分の名前をなくしてしまったのだ。

 7年前の12月25日。
「次のサンタクロースは私なんだって」僕の横で眠っていた彼女が跳ね起きて言った。「サンタクロースって啓示によって選ばれるものだったんだね。ぜんぜん知らなかったな」
 起き抜けのキュートな寝癖を直しもせずに、彼女は犬みたいに目をらんらんと輝かせていた。
 12月24日が消えた翌日。
 世界中がショックに打ちひしがれている真っ只中のことだ。
「啓示? きみが次のサンタクロース?」僕は寝ぼけていた。「じゃあ衣装を買ってこないと。ミニスカのやつを」
「そうだよ、早く買いに行かないと!」彼女はベッドから飛び降りた。「26日になったら、あんなのどこにも売ってない!」

 僕たちは近所のドン・キホーテでサンタクロースの衣装を購入した。4000円ぐらいの。ぺらぺらの生地の。ばかみたいなミニスカートの。てっきり僕は、僕たちのマンネリ打破のためにそれが買い求められたのだとばかり思っていた。
 だけどサンタクロースの衣装を着た彼女は、本当にサンタクロースになってしまった。

「私がプレゼントを配るのは、この世界の子供たちに対してではない。失われた12月24日に閉じ込められてしまった、幻の子供たちのために配るのだ」
 彼女は政治家の物真似みたいな表情と口調で言った。でも、ふざけているにしては、あまりにもその衣装は似合っていたし、あまりにも説得力を持ちすぎていた。
 そして本当に不思議な話だけど、サンタクロースになった瞬間から、彼女は自分の名前をすっかり忘れてしまった。
 誰にも彼女の名前を思い出すことはできなかった。
 僕にも思い出すことはできなかった。
 役所で取り寄せた彼女に関するすべての書類の氏名欄には、「12月24日」とだけ記載されていた。

 サンタクロースの衣装を着た彼女は、世界中でただ一人、12月24日に侵入することを許された。といっても僕たち以外の誰もそのことは知らないし、12月24日はいまや彼女の中にしか存在しない。
 幻の街の、幻のクリスマス。
 そこで彼女は、幻の子供たちに幻のおもちゃを配る。
 幻の笑顔。
 幻の幸福。
 幻の12月24日。
 かつて世界の一部だったもの。

 すべての子供たちに一晩かけておもちゃを配り終えると、彼女はようやく現実の12月25日に戻ってくる。眠っている僕のベッドにもぐり込む。サンタの衣装のまま僕に抱きつく。
 幻みたいに冷えた彼女の体。
 彼女も僕も、それぞれの世界でぼろぼろに傷ついている。

「12月24日は正確に保持されている」彼女が僕の腕の中で言った。「夜空に星が正確に配置されているのと同じように」
「お帰り。今年もお疲れさま」
 彼女はちょっとだけ微笑んで、そしてすぐ目を伏せた。
「この世界には罰が与えられたのだと思う」
「罰?」
「人々の考える幸福というものが、あまりにも一面的すぎたのだ。あるいは、幸福になるための手順が複雑になりすぎた。結果として、幸福になりたいのか、不幸になりたいのか、誰にもわからなくなった。幻みたいな幸福を奪い合って、世界は大小の戦いに埋め尽くされた。その罰として12月24日が取り上げられてしまった」
「酷いことをする奴だ」
「誰が?」
「誰もが」
「誰もが。そう、たしかに。私もそう思う」彼女のため息が僕にかかる。「私は12月24日をもとの場所に戻したい。この世界に〈12月24日〉をプレゼントしてあげたいんだ。それがサンタクロースとしての私に課せられた仕事なのだと思う。やり方はまだわからないけれど……その日が来るまで、私は幻の12月24日を管理し続けなければならない」
「大変な仕事だ」
「だが私にしかできないことだ」
「その覚悟は立派だと思うけど……でも、きみは誰からもプレゼントをもらわなくて良いの?」
「サンタクロースはプレゼントをもらわない」
「そんなことはないよ」
「誰がくれるんだ」
「僕が」
「きみが? 私に? どんなプレゼントを?」
「何でしょう」
「愛かな」
「愛だよ」
「それはもう、もらっている」
「愛のほかにも」
「何をくれるの」
「きみの名前」と僕は言う。「きみの名前は、7年前の12月24日に飲み込まれてしまった。僕は7年かけてそれを掘りおこしたんだ。僕にしかできない仕事だ」
「私の名前を?」
「そう」
「私はなんという名前だったの?」
「イヴ」
「イヴ」彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。「ちょっと出来すぎな気がする」
「僕もそう思う」
「でも嬉しい」
 イヴは僕の首筋に顔を埋めた。
 イヴのなめらかな脚の感触が伝わってくる。
 そのとき、少なくとも僕たちのあいだには、誰にも恥じることのない幸福があったんだと思う。世界は少しずつ良くなっていく。貧しくても、何もかもがうまくいかなくても、悲しいことばかりが起こっても、僕たちはこうして少しずつ、世界をもとに戻してゆけるのだ。


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