彼女の21年
彼女の右目の中には21個の海がある。詩的な表現。とかではなくて、これは純粋に文字通りの意味だ。彼女の右目の中には21個の海がある。
「年の数だけあるのよ」と彼女は言う。「お婆さんになる頃には私の右目はほんとにうるさいだろうな。潮騒とか海鳥の鳴く声とか朝日に照らされた水面のきらきらした感じとか……」
21個の海にはひとつひとつ名前もある。ぜんぶ彼女が付けたものだ。
右目の中に海があって、それが年々増えていくことを彼女が認識したのが8つの頃。だからその年には8つまとめて名前を付けた。紅茶海、ホワイトアスパラガス海、影海、かんむり海、マーブル海、せき止めシロップ海、オルゴール海、靴海。目に映るものを順番に言ったみたいな命名法。彼女らしいなと思う。レストランのメニューだって最初のほうしか見ないし、恋人だって目についた男から順番に選んでいるだけ。でも「今年の誕生日にはあなたが新しい海の名前を考えてよ」なんて可愛いことも言ってくれる。
僕は彼女の右の瞳をじっとのぞき込むのが好きだ。
「ひとつ、すごく荒れている海がありますね」歯医者みたいに僕は言う。「これはたしか、アーモンド海」
「ラグビーボール海よ」目の中をのぞき込まれたまま彼女は答える。「14歳の頃にできた海。そこが荒れてるってことは、つまり14歳の私が病んでるってことね」
「何か思い当たるの？」
「17歳より前のことなんて、ほとんど思い出せないのよ」
「17歳のとき何かあったの？」
「なあんにも」彼女は目をくるりと動かす。21個の海が同時に回転して僕は酔う。「私の人生ってなんにもないの。だから目の中に海がぽこぽこできたりするんだわ。変なの」
僕と彼女はときどき彼女の海の中に入って遊ぶ。
彼女の目の中に彼女自身が入ることができるっていうのは奇妙な話だけど、僕がそこに行けるのはもっと奇妙な話だ。
「かくれんぼでクロゼットの中に隠れるとき、クロゼットのドアは結局自分で閉めるわけでしょう、内側から。あれと同じよ」
というのが彼女の説明。正直よくわからない。だけど「私の海の中にまで入ってきて、一緒に遊ぶことができた恋人は、あなたがはじめてよ」とか言ってくれるから誇らしくなる。まあ、誰にでも言ってるのかもしれないけど。
彼女の水着は薄いブルーの最新型。パラソルの下で熱心に足の爪を塗っている。僕は海にくるぶしまでつかって、水を蹴ったり、双眼鏡で鮫を探したり、彼女のめったにお目にかかれない真剣な表情をながめたりしている。
爪を塗り終わると彼女はゴムボートを持ち出して仰向けに寝そべり、海にぷかぷか浮いたまま眠った。ボートからはみ出したきれいな脚。あざやかな爪の色。それが最後に見た彼女の姿だ。
僕はパラソルに戻り、3年がかりでも読み切れないような分厚い推理小説を読みはじめた。冒頭で密室殺人が起こる。彼女のボートがずいぶん沖のほうに流されている。探偵が関係者全員のアリバイを聞き込み調査している。僕はいつの間にか眠っている。
そして目を醒ますと、彼女の姿はもうどこにもなかった。大声で名前を呼びながらずいぶん長いあいだ探し回ったけど、ついに見つけることはできなくて、僕は仕方なく彼女の海をあとにする。
戻ってきても、彼女はどこにもいなかった。
彼女の瞳の中から出てきたはずなのに、その彼女がどこにもいない。
これはどう説明すれば良いのだろう？
かくれんぼで誰も見つけてくれないから、仕方なく自分から出てきたら、みんな帰ったあとだった？
僕は今朝の会話を思い出す。
「私ちょっと〈変なピアス海〉で遊んでくる」
「それ何番目の海だっけ」
「18番目」
「僕も行っていい？」
「いいよ。今日はこの海以外ぜんぶ大しけなの」
この海以外ぜんぶ大しけ。
つまり18歳の彼女だけが穏やかで、
それ以外のすべての彼女が荒れている。
きっと彼女は18番目の海で遭難したかったんだと思う。
僕と出会うより2年も前の海。だから僕には彼女が〈変なピアス海〉の藻屑になりたいと思った理由がわからない。
目の中にだんだん海が増えていくこととか、その管理が少しずつ大変になっていくこと、年寄りになったときの自分の目のうるささ、みっともなさ。そういうのに彼女は嫌気がさしたのかもしれない。誰もがぼんやりと感じていることが、彼女の場合は右目にぜんぶ現れてしまう。それがきっと彼女の不幸。
僕はときどき自分の右目を鏡でのぞき込むようになった。ひょっとしたら、そこにたくさんの海があって、そのどれかひとつの海岸に女の子が打ち上げられているんじゃないかと思って。だけど僕の目には真っ黒い瞳が浮かんでいるだけ。僕の目にはなんにもない。僕の目にはなんにもないのだ。
もうすぐ彼女の22歳の誕生日がやってくる。彼女の最新の海に付ける名前を僕は毎日考えている。僕たちだけに見える海。ずっと静かに凪いだ海。彼女が最後に泳ぐ海。その名前を。
2014年にnoteに書いた同名の小説『彼女の21年』（←旧バージョン）の文章を多少修正したものです。