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火星と飴玉 (6999字)

宇宙が壊れたようなありさまのフードコートを宇宙服もなしにさまよう僕はさぞかし滑稽に見えることだろう。僕のトレイにはモスバーガーのポテトSセットが鎮座している。まるで船首に取り付けられた女神像のようだ。嵐のような群衆から僕を守り、清浄の地へと導いてくれ……。祈りが通じたのか、壁に寄りかかって立つ森川火星を偶然にも発見する。ほとんど話したことのないクラスメイトの森川火星。iPhoneを操作しながらコーヒーカップに口をつけている。宗教画のように光り輝いている。その光景は僕の操作系統に明らかに悪い影響を与えた。僕の脳を少し揺らして、少し壊して、少しバグらせた。重力に引かれるように、などと恥ずかしい表現をそのまま使うしかないほど自然な感じに、僕は森川火星へと引き寄せられていく。ところで森川火星の名前は「モリカワ・マーズ」と発音するのが正しい。まさしく24カラットの魔法って感じのキラキラネームだが、彼女がマーズという名前を死ぬほど気に入っていないことは誰もが知っていた。そのため森川火星のことは苗字で呼ぶのが基本的なエチケットとされていて、仲の良さそうな奴らもマーズとは決して呼ばない。僕の調べた限りでは以下のような多種多様のニックネームが確認されている。「かせい」「かせいさん」「かせいちゃん」「もりかせ」「もりもり」「もっかー」「もりっか」「モリゾー」「カーモ」「カンカン」「モカモカ」「カセイモリカワ」「もいちゃん」「もっちゃん」「カモン」「カモちゃん」「カモンちゃん」「かもかも」「かせかせ」「もりかせ」「かせもり」。同じの2回言ってるかも。かもかも。

ところで僕は僕で、「二宮飴玉」と書いて「ニノミヤ・アメダマ」と読ませるキラキラですらないアホアホネームを実の親に与えられ、実に残念なことに実の区役所に受理されてしまったのだが、みんなから親しみを込めて「アメダマ」「アメちゃん」「アメ」「アメ車」「アメ公」「アメリカ」「アメリカンドリーム」「アメドリ」「欧米」「キャンディボーイ」などといったバラエティに富んだ呼ばれ方を一切されたことがなく、単に「ニノミヤ」、もしくは名前を呼ばれすらしない日が多い。つまり、要するに、飴玉などという個性的な看板は僕には重すぎる。

森川の近くまで行くと、彼女はiPhoneから顔を上げて僕を見た。土曜日。森川は私服の僕をクラスメイトと認識できるだろうか? というかそもそも僕の名前を知っているだろうか? というかそもそも。
「席ないの?」と意外にも森川から声をかけてきてくれた。
「席ない」と僕は答える。席は見てなかった。
「まあ仕方ない」と森川はiPhoneに視線を戻す。
まあ仕方ない。
どう捉えるべき?
何となくここにいても良いような気がしたので、森川の横に立つ。背後には壁。トレイにはモスバーガーのポテトSセット。燦然と輝いている。飲み物だけにしておけば良かったと思う。
森川はものすごい勢いでiPhoneをタップし続けていた。
「何見てるの?」と僕は聞く。お正月に集まった、あまり打ち解けていない親戚のおじさんがするような質問だ。
「お金稼ごうと思って」森川は画面を見たまま。
「お金?」
「外山雄大のやつ。アカウント無限に作って確率上げてんの」

外山雄大はこの国が生んだ最新のトリックスターだ。観葉植物の地味な通販サイトからキャリアをスタートさせた外山雄大は、新型動画配信アプリ、新型マッチングアプリ、新型スポーツバー、新型ナイトクラブ、新型外食チェーン、新型音楽イベント、新型宇宙ビジネスといった、ありとあらゆる新型の商売を成功させ、恐ろしいほどの資産を手にすると、イングランド・プレミアリーグ所属のクリスタルパレスFCを買収し、銀座ユニクロの跡地に現代アート専門美術館「SOTOYAMA Museum of Modern Art」をオープンし、すべての上映作品を有料会員のネット上でのプレゼンと一般投票だけで決定するシネコン「U-VISTA」を全国5か所に展開、Netflixオリジナルドラマ「The Jacksons」をインディアナ州の広大な私有地で撮影させたかと思うと、その作品の出演者でもあるフォロワー400万人を誇るロシア人インスタグラマーと大っぴらに交際して世界中の注目を集めたり、コンビニのおでんを全て買い占める様子をSNSにアップしてさざ波のような物議を醸したりした。何かと話題に事欠かない男だ。
昨日も、SNSを通じて抽選でフォロワー100人に1000万円を配布するという馬鹿げた企画を発表したばかりだった。

「あんなの参加するんだ?」
「あんなの?」
「いや、外山雄大とか嫌いなのかな、と思ってたから」
「外山雄大はどうでも良いけど。うち母子家庭で貧乏だから。悲しいほどに」
「へー」僕は少し黙る。そのまま黙っていれば良いものを、最悪なことにまた口を開いてしまった。「でも本当に1000万当たったらどうするの?」
「どうって? 家計が助かる」
「そのあとは? 外山雄大に感謝しながら生きていくの?」
「それは知らないけど。ヘンな奴だったら嫌いになるかもしれないし」
「そんなドライな感覚でいられる? 1000万貰ったって事実は重すぎない?」
森川火星がiPhoneを操作する指を止めた。こちらをじっと見据える。ほとんど睨んでいる。僕の心臓が半分凍る。
「まあ、言いたいことはわかるよ」森川は少し視線を軟化させて、作業に戻った。「でも、どんな1000万円であれ貰えたら本当に助かる人もいるし、そんな1000万円を貰ってしまったが最後、何もかもおしまいになる人もいる。それだけの話じゃない?」
「そうなのかな」
「たぶんね。でもお母さんが楽になるなら、私はどんな1000万円でも欲しいよ。そんな1000万円でも、お母さんの仕事を楽にしたり、お母さんの持病を治すのに問題なく使える。犯罪じゃないし。ただ指を動かすだけで良い。失うものは何もない」
本当に何も失わないのだろうか?
決定的な何かが失われてしまう気がする。
だけどそれが具体的に何なのか僕にはわからなかったし、そんなものはどこにも存在しないのかもしれない。完璧な絶望が存在しないのと同じように。僕は黙って風の歌でも聴いているべきなのかもしれなかった。
「じゃあ、僕も協力してアカウント増やそうかな。当たったら森川のものってことでいいよ」
「そこまで落ちぶれてない」
僕は最悪に最悪を重ねている。
そもそも僕は外山雄大のやりようが根本的に許せなかった。しかしなぜ許せないのかを言語化するには至っていない。品性だとか倫理の問題が自分の中で引っかかっているわけでもなさそうだった。なんだか鼻につく、というシンプルな感情かもしれないし、見くびられている、というプライドの問題かもしれない。より直接的に、ある種の「進歩的な人間」に対する気持ち悪さを感じているだけかもしれなかった。けれど、それ以外の何かかもしれないし、その全てかもしれないし、何も考えずに風の歌のレゲエバージョンでも聴いていたほうがましなのかもしれない。結局のところ僕には何が何だかわかっていなかった。それに、もっと単純で切実な問題として、森川火星の言うことには何でもかんでも自動的に同調してしまうという欠陥が僕にはある。基本的に吹けば飛ぶような、踏めば割れるような、舐められたら溶けてなくなるような、飴玉みたいな人間なのだ。
僕という男は。
沈黙が続いた。
森川の興味を引くような話題を何ひとつ思いつくことができない。頭に浮かぶのは「宮崎駿の映画には明確なテーマや筋の通ったストーリーラインが存在しないという説は広く流布した悪質なデマだから、騙されてはいけないよ」などといった、どの角度から見てもこの場にふさわしくない、謎の説教めいた匂いのする古いお線香みたいな話題ばかりだ。
悲しい。
結果として森川は黙ってアカウントを増やし続けているし、僕は空中に置いたトレイから、パントマイムのようにモスバーガーやモスシェイクを取り出して消費し続けている。


「時間切れかー」森川火星が天井を見上げる。と同時に夕方5時を知らせる短いメロディがフードコートに響き渡った。
「ああ、締め切り今日の5時だっけ」
「当たるかな」森川はまっすぐ僕を見て言う。こんなにまっすぐ見つめられる準備は整っていない。何しろ僕は休日にすることがなくて1人で駅のフードコートにいるような人間なのだ。
「当たると思うよ」僕の発する言葉は永遠に誰にも影響を与えない。
「座ろうか」と森川が目の前にある空席を指差して言うので、僕たちは向かい合って座る。
「1000万の発表っていつ?」
「8時」
「今日の? 早いな」
「それまで一緒にいてよ」
僕は1000万円よりはるかに価値のある言葉を手にした気分になる。しかしその幸運は、僕の操作系統にまたしても悪い影響を与えた。僕の脳はさらに少し壊れ、少しバグり、少し何者かに乗っ取られてしまう。同じクラスでありなから接点のない森川火星と話す機会がもしあれば、これだけは是非言いたい!と以前から練りに練っていたセリフが自動的に口から飛び出てしまったのだ。
「マーズって名前、僕は好きだな」
「は?」
「森川という苗字とも合ってるし」
「なに急に」
「字の見た目も良い。森川火星って、それだけで詩のようだと思わない?」
「変な名前同士だからって、勝手に共鳴されても困るんですけど」
「その名前を気に入ってないことは知ってる。でも僕は森川火星というのは、この世で最も美しい名前だと、そう思うんだな」
そう思うんだな、は意味不明すぎる。でも僕は自分で自分を操縦できない時間帯に突入しているのだ。
「いや美しさとかどうでも良いし。父親が考えた名前だから嫌いなだけだよ」
「そうなんだ」
森川が母子家庭と言っていたのを思い出す。父親についてはこれ以上聞かないほうが良さそうだ。その程度の判断はまだ僕にも可能だった。
「ていうか森川火星よりきれいな名前なんていくらでもあるし。名前フェチだから私。たとえばカーラ・デルヴィーニュ」
「いやいや。森川火星とカーラ・デルヴィーニュの比べ方がわからないし」
「アリアナ・グランデ」
「曲が好きなだけでしょ?」
「ブルーノ・マーズ」
「このマーズは良いの?」
「ヨハンナ・シグルザルドッティル」
「それは誰?」
「1000人ぐらい好きな名前スマホにメモってんだよ、私。今から読むね。いかにも1000万円当たりそうなおまじないっぽくない?」
「1000人も読むの?」
「アレキサンダー・マックイーン」
「え? ひょっとして、もう始まってる?」
「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」
もう始まっていた。

シンシア・アン・ステファニー・ローパー
リチャード・ヒュー・ブラックモア
ピナ・バウシュ
パク・ジェボム
エリザベス・ロズモンド・テイラー
エリザベス・ウールリッジ・グラント
ロジェ・ミラ
タイ・バビロニア
ブリトニー・トーキョー
薬師丸ひろ子
市川春子
佐倉杏子
ディアナ・ソレル
フラニー・グラース
李師師
アブドゥル・ラフマーン・アル・スーフィー
エレン・ジョンソン・サーリーフ
エミリー・デュ・シャトレ
アンナ・マリア・ファン・シュルマン
メトロ・ブーミン
フィン・ハドソン
アレハンドロ・アメナーバル
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
道場六三郎
星野源
ピコ太郎
服部平次
カーディ・B
ヘンリー・リー・ルーカス
ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ
要潤

広大なフードコートは、喧噪と館内アナウンスとローファイなモーツァルトで満たされている。そこに混じって森川の口からこぼれる音は、魔術師の呪文のようにも、浮遊するヒップホップのようにも、1000人の名前を読み上げる女の子の声のようにも聞こえる。その声が届く範囲だけ、時間の流れから外れてしまったようだった。
閉店放送が流れだして、ようやく僕たちは我に返る。
午後7時30分。
地上に出ると夜だった。目の前には光の洪水。さまざまな店の照明がテトリスブロックみたいに積み上げられている。セブンイレブン、100円ショップ、フィットネスクラブ、メガネ屋、うどん屋、お好み焼き屋、接骨院、薬局、パン屋、弁当屋、カラオケボックス、潰れそうなビリヤードバー、潰れたツタヤ、潰れた中古自動車屋の跡地にできたコインパーキング。どこもかしこも輝いて見える。「お腹減ったね」と僕だけに見せた森川火星の無邪気な笑顔を、僕は生涯忘れることはないだろう。
Fin.

僕たちはコンビニで食べ物を買い、近くの公園で食事することにした。僕はカフェラテとランチパック、森川はカップ入りのパンプキンスープ。森川の手の中にあるパンプキンスープは、今までに見たどの黄色よりもきれいな黄色に見えた。
ベンチに並んで座る。
iPhoneを見ていた森川が「当たった……」と呟いた。
その意味が数秒のあいだ、わからない。
「当たった? 1000万が?」
「当たった! 1000万が!」
「嘘でしょ」
「嘘かな」
「まだ8時になってないよ。何か見間違えてない?」
僕の声は他人の声のようにむなしく響く。
本当はそれほど驚いていないのだ。森川が1000万円を手にするのは当然の現象だと心のどこかで思っている。
「いや……当たってるね。間違いない」森川は立ち上がってiPhoneを掲げた。「やったーーーーー!!! 1000万!!!」
公園の街灯が森川だけをきれいに照らす。髪がきらきら輝いている。でもパンプキンスープをベンチに置くのを忘れていないから、森川だってどこか冷静なはずだ。
「お母さん、楽になるね」僕は本当に気の利いたことが言えない。
「少しはね」森川は再びベンチに座り、パンプキンスープを膝の上に乗せた。少しだけ頬が上気している。「あー、手が震える……お母さんになんてLINEしよう」
「直接言ったほうが良いんじゃない?」
「既読にならない……あ、まだ仕事中か」
「もう送ったんだ」
「ランチパック1個わけてよ」
「ぜんぶ食べていいよ。なんか僕のほうが食欲なくなってきた」
「あっ」とiPhoneを見ていた森川がまた声を上げる。
「今度は何」
「1000万円当たった人の中から、さらに抽選で6名に宇宙旅行をプレゼント、だって」
「宇宙」
「火星らしいよ。これも当たるんじゃないかな。何しろ私、カセイだし」
「まさかそれも応募すんの?」
「もうしたけど」
「もうしたんだ!」
「返信するだけだったから」
イベント発生率が僕の人生と違いすぎる。
なんだか心臓が痛い。きっと森川は火星にも行くのだろう。彼女の歩幅は僕とぜんぜん違うのだ。それこそ重力の異なる星にいるみたいに。まるで別の生き物。まるで心が通じあうということがないし、まるで敵対することも、まるで共闘することもない。そんなことは起こりえない。いま森川火星が僕の隣にいるのは、草原を駆けるガゼルの脚が小さな蟻のすぐ横をかすめた、その一瞬を切り取った写真のような偶然なのだ。
「火星って今見えるのかな」森川が顔を上げる。
「肉眼でってこと?」
「肉眼で。たまに見えるじゃん。おっ、冬の大三角。きれいに出てるね」
「森川、星に詳しいの?」
「いやべつに。冬の大三角は知ってるけど。なんかエロいじゃん、冬の大三角って名前」
「ちょっとわからない」
「あれが冬の大三角で、だとすると、火星どっちだ……? 調べてみよ。なんかそういうアプリあった気がする」
僕は火星のうんちくを所持していない。森川火星という名前の女の子と仲良くなる機会をうかがっていたのだから、当然火星についても勉強しておくべきだったのだ。尊敬されたかもしれないのに。でもこういうのって、女性の優位に立とうとするおぞましい思想の一種なのだろうか?
「ねえ、スケートリンクあるんだって。火星に」森川が僕にiPhoneの画面を見せる。
「何それ……本当だ、スケートリンクに見えるね」
「スケート靴持ってったら滑れるのかな」
「どうかな。危ないんじゃない?」
「楽しみ〜」
「楽しみなんだ」
「火星ってどんな匂いがするんだろ」
「匂い?」
「なんか焦げ臭そうじゃない?」
「焦げ臭くはないんじゃない?」
「じゃあどんな匂いがするんだろ」
「花のような匂いがする」
「花なんて咲いてるの?」
「咲いてないけど……火星のイメージの話」
本当は花のような匂いがするのは森川火星のことだったけど、火星であることには違いない。
「友達連れて行けるかな?」夢見るように森川は言う。
「友達は無理なんじゃない?」夢から醒めたように僕は言う。
友達に僕が含まれていないことぐらいはわかる。完璧な絶望は存在するし、風の歌など聴こえない。森川の身体からは抑えきれない躍動感のようなものが大量に漏れ出ていて、僕はほとんど圧倒されている。宇宙服を着た森川火星がスケートリンクで踊っているのが目に浮かぶ。その足もとには、森川が地球から持ち込んだ飴玉が転がっている。あるいは森川の口の中で少しずつ溶けている。運が良ければ、火星の周りを永遠に回り続ける塵のひとつぐらいにはなれるかも。その程度の希望は持ってもいいだろう。森川はiPhoneを見ながら僕に火星の情報を喋り続ける。僕は何だか幸せな気持ちになっている。


その日の深夜。
僕のiPhoneに届いた森川火星からのメッセージ。
「火星人っていると思う?」
うん。いると思う。



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