見出し画像

la, (1777字)

「ラ、」とあなたは言った。テスト中の静まり返った教室で。新宿南口の改札を出るとき「ラ、」とあなたが言うのを遠くから見かけたこともある。声は聞こえなかったけれど、唇が「ラ、」の形をしていた。それにあなたは「ラ、」と言うとき必ずかかとを少しだけ上げる。だから間違いない。修学旅行の朝に寝ぼけまなこで爪を眺めていたときも、売れ残りのレーズンパンを嬉しそうに買ったときも、昇降口で校則違反の可愛い靴に履き替えたときも、「ラ、」とあなたは言った。更衣室でオレンジ色のプールバッグから真新しい水着を取り出したときも、数学の授業で黒板に「4%」と書き込んだときも。「ラ、」とあなたは言った。怖い顔をした上級生軍団に取り囲まれたときにも。じつはその末席には、情けない表情をした私もいたのだけど。あなたの制服の着こなしに対する上級生たちの高密度のお小言は、あなたの不意打ちの「ラ、」で一瞬止まった。あなたの「ラ、」はいつも素晴らしい音楽の始まりを予感させる。誰も知らない湖の底で何億年も生き続ける孤独な魚の存在を信じさせる。言葉を知る以前の人類が思いついた最初の詩を想像させる。「ラ、」は毎回違って聞こえた。澄んだ高い音の「ラ、」もあれば、鼻にかかった可愛らしい「ラ、」もあったし、選手宣誓のようなユーモラスに響く「ラ、」もあった。「ラ、」は「ラ、」だけで独立していて、外部からの干渉を一切受けない。いかなる言葉も「ラ、」の前後には接続されない。あなたの「ラ、」は0.05秒ほどの短いあいだだけこの世界に滞空して、確実に人々の胸を打つ。なのにみんな、「ラ、」が消えた瞬間に「ラ、」なんて聞かなかったことにしてしまう。無慈悲な脳の自動処理によって。日曜日の午後、電車の中で偶然あなたを見かけた。私は思い切って隣に座り、どういうときに「ラ、」と言うの? と聞いてみた。あなたは「そんなのわからない」と困った顔になる。「楽しいときに言うの?」「違うと思います」「寂しいとき?」「うーん……舌の先にはシロップの甘さがあるし、ダンスフロアにはクリックでサルサが鳴るし」「よくわからないな」「私もです」「でも、好きだよ。あなたがラ、と言うのは」「嬉しい」「ところで今、ペン持ってる?」「painですか?」「ペン。まあ、どっちでもいいけど」「ちょうど今、どちらも持っています」と答えたあなたからシグノ0.38のブルーブラックを借りて、私は自分の手のひらに強い筆圧で8桁の数字を書いた。あなたの右の手のひらにも同じ数字を書いてあげる。あなたの手首は信じがたいほどきらめいていて、静脈はまるで美しい路線図のようだった。数字を書いているあいだ、あなたはくすぐったさに耐えきれず、ビー玉のような笑い声をぽろぽろ零した。地面にそれが落ちるたびに澄んだ硬い音がした。私が書いた 数字を見て「なんだろう?」とあなたは不思議そうだ。「今日の日付」と私は言った。「消さないでね」と念を押すと、あなたは少し微笑んで立ち上がる。電車がゆっくり動きを止めた。あなたは笑顔のまま一度だけ私を振り返り、それから正面を見て、ホームに踏み出す。喧噪にまぎれて「ラ、」が聞こえた。音のするスニーカーみたいに、着地の瞬間に言ったのだ。「ラ、」は大きな波紋をたてて私の感情を揺らした。あなたの姿がホームの階段に消える。あなたの手のひらに書いた数字は風に吹かれて塵になる。とてもきれいな塵だろう。私の数字は汚く滲んで、だけど何十年も消えないままで、老いた皮膚にしつこく残り続けてしまいそう。どうせ最後は焼かれて灰になるだけ。その灰だけはきれいなはずだ。ラ、と言いたくなるくらいには。動き出した電車の座席でラ、と言おうとして、私はどうしても言えずにいた。このまま百年が経過しそう。したのかも。窓の外の景色みたいに。何もかもがあっけなく過ぎたあとなのかも。私の数字がまた滲む。街にはスポンジのような建物が幾つも並んでいて、邪悪な人や、内臓の弱った人や、何かを踏みつけている人や、頭に花を飾った人や、ティッシュを配る人や、あなたや、死霊や、細菌なんかが泳いでいて、まるで巨大な水槽のようだ。呼吸しづらいのも無理はない。私は唇をラ、の形にして息を吐く。私の口から漏れたのは、酸素、窒素、二酸化炭素、水蒸気、アルゴン、そして音のしない、

ラ、


#小説