“よく晴れた、青い空の日だったことも”
午後6:59 河口湖富士山パノラマロープウェイ入り口前。
河口湖に面した駐車場に降り立つ。
ジョゼフはその広い湖を見つめ、浅く呼吸をした。
もう一度大きく吸ってみる。
「げほっ」
冬の湿った湖の香りを肺いっぱいに吸い込んだら大いに咽せた。
人気の少ない湖に並ぶアヒルのボートが町の光で朧げに映る。 湖の向こうには細い橋が架かっていて、ライトをつけた車が何台も通っている。辺りはもう薄暗いのだ。
「悪い悪い、遅くなった」
牧師は悪びれることも無く、坂の上のバス停に立っている女性に声をかけた。
遠目に見ても美人だというのがわかる。モデルのような立ち姿だ。似ている芸能人を言えと言われたら、北川景子と答えよう。その横に小さな少女も一緒に立っていた。
「遅い」
シスターのような格好の女が冷たく言う。
「ごめんて」
牧師はやけに腰が低い。
「すごい寒かった」
女は怒っている。
「ごめんなさいて」
牧師の腰はどこまでも低い。
「ののめっちに謝って」
シスターは、その細くしなやかな手を隣に立つ子どもと握って、ぱたぱたと動かした。
「未夏ちゃん、ののめさん、ごめんなさい」
牧師はその場にしゃがんで、シスターの横にいる小さな子どもに頭を下げた。
「ののめさん、ごめんなさい」
ののめと呼ばれた少女は何も言わずに、小さな手のひらを立てて、牧師の額に痛烈なチョップを入れた。
なるほど、10代といったのはこの子のことか。
ジョゼフは、この子を見たことがあった。
ののめは、首から何かキラキラ光るものを下げている。
見覚えのある形、輝き。
「ああ、」
あの日、富士音楽祭にいた子だ。
山梨で、毎年開催してるチャリティー音楽祭に来ていた子だ。
三年前。
音楽祭が終わった後、ジョゼフが外で屋台の焼き鳥を食べている時、ののめから話しかけてきたのだ。
ののめはジョゼフの尻ポケットから飛び出ていた、キーホルダーを指差していた。
〝——それ、星の王子さまだ〟
〝ん? あぁ、これ? そうだよ。よく知ってるね〟
〝あのね、この間読みおわったの〟
〝星の王子さま、好き?〟
〝うん〟
〝じゃあ、これ君にあげる〟
ジョゼフは、一瞬であの場面を思い出した。
球体の中に、星の王子さまと赤いバラが入ったキーホルダー。
どうやら今はネックレスとして持ち歩いてかれているらしい。
ジョゼフは2023年から2025年まで、妻の参加する音楽祭に便乗してフランスから来日していた。
日本語を勉強していた身であった為、年に一度のその行事は実に楽しかった。
その日も、ジョゼフの妻はピアノを弾いた。彼女の演奏は素晴らしく、まるでこの国の巡る四季の無情さを剥き出しにしたような、力強く、切ないものだった。心臓の奥に響くものが、確かにあった。
私はなぜか感動で涙腺が緩んだのを覚えている。
拍手はいつまでも止まなかったことも。
よく晴れた、青い空の日だったことも。
そこにボランティアで来ていたのが、ののめのいる児童養護施設〝コスモスの家〟の子どもたちだ。その付き添いで、この牧師とシスターがいたのだ。
牧師に初めて会った時、妻がこの男に言ったのだ。 〝夫のことはジョージでいいわよ〟と。
それから仲良くなった。
まあ、結局。
ジョゼフと妻が富士音楽祭に参加するようになって、たった三回ですべてが終わった。
ジョゼフはそれから妻の顔をうまく思い出せないでいる。
何故か、彼女の顔だけが思い出せないのだ。
「あ、ジョージさん」
シスターは坂の下に立っている私に向かって、大きく手を振った。
「お久しぶりです」
整った綺麗な顔立ちが崩れ、親しみやすい笑顔が現れた。
「久しぶりです」
ジョゼフはゆるい坂町を登ろうと足を出す。
その時、ののめが走った。
まるで連写された写真のように、はっきりと視界に映る。それでも一瞬で、ジョゼフの元までやって来た。
抱きつかれた衝動で身体が背後に動く。
「やあ」
ジョゼフは抱き止めた時、思わず笑った。頼りなくその小さな肩に手を回す。三年の月日を感じる。
「久しぶり」
「クジラおじさん、」
ののめの声はよく通った。
「久しぶり」
〝——クジラみたいに大きいね、おじさん〟
〝そうだね、みんなよりちょっとだけ大きいね〟
〝クジラみたいに真っ黒なコートも着てるね〟
〝お気に入りなんだ。でもちょっと厚着しすぎたね〟
ののめは建物の方を指差して言った。
日陰に立っているジョゼフの妻を指差していた。
〝モナ・ミッシェルって、おじさんの奥さんなの?〟
〝そうだよ〟
〝あの人が一番上手かった〟
ーやあ、君は見る目があるな。
〝あの人のピアノが、一番上手だったね〟
ーうむ、君は素晴らしい耳を持っているね。
今では懐かしい思い出だ。
あいさつもそこそこに、四人は牧師の車で宿泊先まで移動した。
ののめは後部座席で、ジョゼフにぴったりとくっついて眠ってしまった。
「めずらしく懐いてるな、ののめ」
バックミラー越しに牧師と目が合う。助手席のシスターも身体を捻って後ろをみた。
「ね。こんなに人になつくこと無いのにね」
「最近は落ち込んで、何も喋らなかったからな」と牧師はしみじみ呟いた。
「何かあったのかい?」
「犬が死んだんだよ」
シスターが続けた。
「児童養護施設で三匹犬を飼ってたんだけど、そのうちの一匹が二ヶ月前にね。病気で亡くなったの」
「それがののめが一番かわいがってた子でなあ」
なるほど。
「あれからめっきり無口になっちまった」
「それで、ののめもついでにドライブに連れてきたんだ。あんたのお迎えを口実に」
「ごめんな、煩わしいだろ。でも我慢してくれよ」牧師はケラケラと笑った。
それからすぐに近場のホテルに着いた。
富士山の見えるいいホテルだった。ビジネスホテルだったけど、見晴らしは最高だった。
下の飲食店で食事をして、部屋に戻った。食事中もずっとののめはジョゼフの隣に座った。理由は分からないが、これだけ懐かれると嬉しくなってくる。
ジョゼフと牧師、ののめとシスターで部屋を分けた。
「じゃーなー、おやすみー」
「おやすみー」
「おやすみ」
「十時には寝かせろよ、未夏」
「うるせー、わかってますー」
午後8:35
部屋に荷物を下ろす。
「ふぅ」
ジョゼフはベッドに腰を下ろし、バックを枕の方へ投げ捨てた。
立ち上がってカーテンを開ける。そこには黒々とした富士の影が見えた。抉れた富士の上に月が出ている。不覚にも美しいと思う。恐ろしいほどに。寒気がする。
じっとその山を見つめる。
じっと。
ジクジクとおでこの傷が痛くなった気がして、左手で触れた。
「ジョージ、」
洗面所から出てきた牧師が言った。
「ここ出てすぐ隣に、漫喫あるけど行く?」
親指でドアの方を指差している。
「あー、どうしようかな。ONE PIECEは終わったんだっけ?」
「とっくに。今は続編やってる」
なんと、あの漫画は終わってしまったのか。三年前はまだ連載していなかったか? ジョゼフは時の流れを感じた。
「じゃあ、行こうかな」
「行こう。俺はついでに煙草吸いたい」
ジョゼフはスマホを充電器ごと引っ張って、そのままバックに放り込む。
あぁ、これやると妻が怒ったっけな、と一瞬ジョゼフの頭の中をよぎる。
「煙草やめろよ、丈碁。身体に悪いじゃないか」
「千円になったらやめるって」
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