斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読み解く

斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』を読み解きます。

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本書の主題は、気候変動への対策を議論することである。国連のSDGsによって示されたように、気候変動は人類社会にとって大きな問題になっている。その問題の大きさを読者に再認識させ、かつ、既存の対策の不十分さを示すことが、第1章から第3章までの内容である。第4章以降は、マルクスの晩年の思想のなかに、気候変動を乗り越える知恵が隠されているとして、マルクスの読解が行われる。

第1章から第3章までは、資本主義と気候変動対策が両立しえないことが具体的なデータとともに示される。ここで展開される議論は非常に説得的である。冷戦終結時から2017年までに、世界の電力消費量が10倍に増加したことを示すグラフには驚かされた。電気自動車や太陽光発電などの「緑の経済成長」だけでは、気候変動を抑えることはできない。ゆえに、我々は気候変動を解決するために、資本主義を捨てねばならない。そして、資本主義の代わりとなる経済体制として、共産主義を考える必要がある。ということで、マルクスの読解が始まる。

 

第4章以降は、気候変動への対処法として、脱成長の可能性が示される。資本主義は商品の「交換価値」のみを追求し、「使用価値」を無視してきた。それによって人々の生活は豊かになるどころか、むしろ貧しくなっている。「交換価値」の追求をやめて、「使用価値」を再評価することで、環境負荷の少ない脱成長社会が実現できるという。

たとえば、水には、渇いた喉をうるおすという効果がある。これが使用価値である。この効果は、自然にあふれているどんな水からも得られ、基本的に無料である。しかし、資本は水を囲い込み、ベットボトルに封じ込めて、値段をつけて売ろうとする。資本家は水の使用価値ではなく、交換価値にしか興味がないのだ。こうした資源の囲い込みによって資本は増殖する。それによって、本来無料であったはずの水が、貨幣と交換しなければ手に入らなくなってしまう。これは市民生活が貧しくなったことを意味する。

著者は、水などの基本的に無料な財のことを「コモン」と呼び、「コモン」を共同で管理することで真のコミュニズムが実現されると説く。それこそが晩年のマルクスの思想であった。

ただ、上記の議論には注意が必要で、水は本当は無料ではない。大都市の人口密集地帯に水を供給するためには、上下水道の整備が必要であり、その建設や維持のために資本の投下が必要となる。実際には政府や自治体がこれを行うが、政府の財源は国民の経済活動から得られる税金である。つまり、コモンは完全に無料なわけではなく、その維持には労力が必要である。これを政府によらず市民の共同体によって行おうというのが、著者のいう「脱成長コミュニズム」である。これにより資本の影響力を脱することができ、完全に民主的な市民社会を実現できる。

この理想社会では、人々は長時間労働から解放され、余暇を利用して芸術やスポーツを楽しむことができるという。ただ、これだけでは古臭い共産主義の理想像を掲げただけなので、著者は最後にこう付け加える。来るべき社会においては、労働こそが最も価値のある行為となり、最高の自己実現の機会となるのだ、と。

2

いいことずくめである。

思うに、本書の問題点は、民主主義を素朴に信じていることだ。斎藤は資本主義を悪と断じるが、民主主義は善であるとみなし、議論を進める。ここには政治に対する配慮が欠如している。もちろん筆者は経済学者であるから、経済のことに関心が集中するのは、やむをえないことではある。しかしながら、資本主義と結びついた国民国家からの脱却を唱えるのであれば、政治に対しても関心を払わねばならない。

民主主義は国民国家を作り出すための装置である。民主主義の排他性は国家の境界線を明確にし、自他の区別を作り出す。投票行動によって国民が定義され、国家が定義されるのだ。こうして成立した国民国家は、自国民の利益を追求するために他国を搾取するようになり、国家間の対立が深まる。これが戦争に発展するまでに時間はかからない。

こうした事態を先取りして、資本家は主張する。我が国が戦争に負けないためには、より大きな軍隊を作る必要がある。そのためには、わが国の経済をもっともっと成長させ、税収を増やさなくてはならない。ここにおいて、国民国家と民主主義と資本家は分かちがたく結びつくのだ。

 

筆者は、我々の社会が資本主義から抜け出せない理由を、資本の自己増殖だけで説明しようとする。「帝国的生活様式」になずみ、地球の反対側で起きていることに盲目となった市民たちが、資本によって搾取されているのだと。だが、それだけではない。経済成長への欲望の裏にあるのは、死への恐怖である。我々の社会が経済成長をやめれば、軍事力が低下し、他国に侵略されてしまうかもしれない。そうなれば、我々は彼らの食い物にされてしまうだろう。これまで我々が彼らにしてきたのと同じように。

まず、民主主義によって国家の境界線が作り出される。それにより世界が友と敵に二分され、敵との戦いが始まる。敵に勝つために富国強兵が追求され、同時に資本の蓄積が進む。資本の自己増殖だけが問題なのではない。ほんとうは市民のほうが資本の蓄積を必要としているのだ。

筆者はこの点を見落としている。戦争を望むのはつねに善良な市民である。彼らは民主主義に導かれて、戦争という落とし穴にはまってしまう。

ゆえに、経済成長をやめるためには、まず世界平和を実現しなければならない。友と敵の論理を乗り越えて、平和を実現しなければ、経済成長への衝動を止めることはできない。

3

民主主義は道徳の欠如を意味する。道徳を持たない人々が、疑似的な道徳を作り出す手段が民主主義である。

各人が自己の欲望を貫けば、この世界は「万人の万人に対する闘争」に陥る。これを防ぐために社会契約が行われ、各人の利益を最大化するために国家が作られた。互いに殺し合うよりも、互いに協力して利益を高め合うほうがよい。この社会契約を制度化したものが民主主義である。

では、こうして成立した民主国家は、歴史上どのような役割を果たしてきたか。近代ヨーロッパで最初に民主制を採用したのはイギリスだとされる。

イギリス人は17世紀の市民革命によって議会政治の基礎を築き、それと並行して海外植民地を次々に獲得していった。イギリスによるインド統治の過酷さは本書でも言及される。そもそも「帝国的生活様式」という言葉は、植民地時代のイギリス人の生活を念頭に置いたものだろう。日本を含めた先進国は、グローバル・サウスを搾取することで物質的豊かさを実現している。その構図は大英帝国のころから全く変わっていない。

 

さて、我々はここで、ある逆説を発見する。それは、最も文明的とされる議会政治を行うイギリスこそが、最も過酷な他国民への搾取を行っていたという事実である。

しかし、これは逆説ではない。こうした他国民の搾取こそが民主主義の本質である。1839年、イギリス議会は麻薬による中国人の搾取を目的とした、アヘン戦争法案を可決した。これにより中国人は不幸な状態に陥るが、イギリス人の利益は守られる。国益追求のためには、この選択が正解だった。イギリス議会は国民の利益を代表するが、他国民の利益は代表しない。したがって、他国民を搾取することによって、自国民の利益を守ることが議会の目的となる。この場合、社会契約とは、他国民を搾取することに関する国民的な合意にすぎない。これほど不道徳な政治体制があるだろうか。

以上の議論から我々は、「帝国的生活様式」は民主主義によって支えられている、と結論できる。民主主義と資本主義は共犯関係にある。資本主義と決別するためには、まず民主主義を否定しなければならない。

 

資本主義と同様、民主主義も悪である。斎藤に足りないのはこの認識だ。

斎藤は市民の連帯を説くが、それは民主主義の排他性によって阻害されてしまう。ここにおいて我々は、民主主義と資本主義を共に克服し、新しい社会秩序を追求する必要を見出す。

4

我々は第一に、世界平和を実現しなければならない。戦争への恐怖が経済成長への衝動を生み出す。国際平和は脱成長にとって不可欠の条件である。

そして、世界平和を実現するためには、中心となる政治秩序が必要である。一つの秩序が世界を覆い尽くしたときに真の平和が実現される。ゆえに、我々は世界政府を必要とする。

グローバル資本の行動を抑制するためには、彼らが自由に動けないような政治秩序を作ればよい。現行の国民国家・自由主義体制のもとでは、彼らの行動を制限するような論理を考え出すことはできない。
一方で、世界政府に依拠する我々が用いる論理はこうである。世界政府の権威を否定することは、世界の平和を乱すことに等しい。よって、世界政府に逆らう者は成敗されねばならない。

我々はここで、自由よりも平和を、より尊い理念として掲げる。民主主義に足りないのは世界平和の理念である。自国の利益さえ守れれば、他はどうなろうと構わない、という自己中心主義が平和を遠ざけてしまう。それが資本主義を招きよせるのだ。

 

その上で、世界政府の統治を正当化するためには、それが人類に利益を与えるものであることを証明しなければならない。つまり、世界政府が存在しない状態よりも、存在する状態のほうが、多くの人が豊かになった、幸福になったと思われるならば、その統治は正当化される。そのための最低限の条件は、国民の生存を保障することである。すなわち、飢えに苦しむ人間が一人もいない状況を作ることで、その統治は正当化される。

ここで我々は第二の条件を見出す。世界政府は重農主義を採用する。それが食糧危機を克服する唯一の手段である。重農主義とは、税金を廃止し、穀物を税として徴収することである。政府は職員の給料を穀物によって支払い、あらゆる決算を穀物によって行う。これにより、穀物に貨幣としての価値を持たせる。政府は世界の穀物生産を厳格に管理し、政府の統制外の流通は厳しく禁じられる。それは貨幣偽造に相当する罪となるだろう。

この方法によって、現在モノカルチャー経済に苦しめられている国でも、穀物を栽培する動機が生まれる。穀物=富であるから、コーヒー豆よりも穀物を育てたほうが国は豊かになる。

 

モノカルチャー経済とは、一種類の商品作物を大量に栽培することである。主に熱帯地方の国々で行われており、熱帯の温暖な気候を利用してカカオ豆やコーヒー豆を大量に生産し、これを先進国に輸出する。こうして稼いだ外貨を元手にして、さらに外国から穀物を輸入し、国民に食糧を供給するという経済システムである。ここで、たとえばカカオ豆の国際価格が下落すると、カカオ豆の輸出国は十分な外貨を稼ぐことができず、穀物の輸入が困難になってしまう。こうして食糧危機が発生する。

このような危機を防ぐためには、国内で穀物を栽培すればよい。カカオ農場を潰して田んぼを作れば、国際市場に依存せずに国民の食糧を確保できるはずである。なぜそれができないかというと、穀物は儲からないからだ。穀物よりもカカオ豆のほうが値段が高いので、カカオ豆を栽培したほうが経済的に豊かになる。つまり、資本主義のもとではモノカルチャー経済が最適解となるので、資本主義を続ける限り、食糧危機をなくすことはできない。

一方、重農主義においては、穀物が貨幣となる。したがって、穀物を生産することが、すなわち国を豊かにすることになる。このような経済体制を作ることで、穀物を栽培するモチベーションが生まれ、食糧危機は解決に向かう。穀物を税として徴収するということは、穀物の栽培を国民に強制するということである。それが食糧供給を安定させ、世界を平和に導くだろう。

 

重農主義は、もう一つ別の観点を我々に与えてくれる。それは、穀物生産を管理することによって、世界人口を制御するという発想である。国連が掲げるSDGsを達成するためには、人口の管理が不可欠だと思われる。この課題を無視する国連はあまりに無責任である。

日本において減反政策が行われているように、穀物はすでに余っている。世界人口を養うだけの穀物は十分に生産できており、余った分を家畜の餌にしているほどである。日本ではアメリカ産のトウモロコシを大量に輸入して家畜に食べさせているし、また、飼料用の稲の栽培も盛んである。

ゆえに、世界政府の使命は穀物生産を増やすことではなく、制限することにある。農業技術をこれ以上進歩させる必要はない。我々はむしろ、人口を制御する方法を学ばねばならない。有限の食糧供給に合わせて、有限の人口を維持する政治が必要である。そのため、各国には有限の穀物生産量が割り当てられ、その一部が税として徴収されることになる。

世界政府は重農主義による人口の管理とともに、経済活動の縮小による環境負荷の軽減を目指す。それが具体的にどのような政策になるかは、現段階では分からない。

 

我々は民主主義という誤った理想を捨てねばならない。代わりに、世界平和の理想を持つべきである。

これが、資本主義と決別する私なりの解決策である。自由を重んじる著者には受け入れられないかもしれないが。


世界政府については、以下を参照してください。よろしくお願いいたします。


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