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僕が山下達郎の「コメント」に失望したワケ

9日放送「サンデー・ソングブック」

 数週間前の話にはなるが、山下達郎が自身のラジオ番組「サンデー・ソングブック」内で7月9日、あるコメントを発表。その内容についてはネット上で「大炎上」する事態となった。

 私は個人的に、山下達郎の音楽が大好きだ。ソウルなどブラックミュージックの要素を取り入れつつ、心地よくて精巧なサウンドは、どの時代になっても、何度聴いても飽きることはない。
 今年再発されたアナログ盤「FOR YOU 」「GO AHEAD!」は買ってしまった。死んだ父が残していった「Melodies」のCDは今でも大事に聴いている。

 そんな私も、9日のコメントには違和感を覚えたし、ある意味で失望もしてしまったのだ。

ジャニー喜多川問題

 事の経緯としてはこうだ。

 音楽プロデューサーの松尾潔が1日、15年契約していたスマイルカンパニーとの契約が期間中に解除されたことをツイッターで報告。
 ツイートには「私を誘ってくれた山下達郎さんも会社方針に賛成している」という記述もあった。

 その理由には、自身がジャニー喜多川や藤島ジュリー景子についてメディアなどで言及したことを挙げている。

 ご存じの通り、海外メディアの報道をきっかけに、喜多川による所属タレントへの性加害の事実が明らかとなっている。

 といってもこれまで何十年も「見て見ぬふり」をされてきたことである。日本の芸能界の闇ともいえるこの問題について触れただけで、契約解除に至ったというのだ。

 山下はジャニーズのタレントに楽曲提供をするなど、喜多川との関係は深い。

このツイートに対する"反論"の場が9日の番組であった。SNSなどをやっていない山下にとっては、唯一の「発信基地」である。

 彼は、感情を感じさせない声で数分間その文章を読み続けた。

ツッコミどころの多いコメント内容

 放送されたコメントについては、ネット上に全文の書き起こし(以下リンク参考)などもあるので参照してほしい。いくつか抜粋して感想を述べる。
太字は発言からの引用である。

 今回、松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題に対して憶測に基づく一方的な批判をしたことが契約終了の一因であったことは認めますけれど、(以下略)

 憶測に基づく一方的な批判...。あれだけ喜多川からの性被害を訴える声が上がっているにも関わらず、憶測扱いである。これでは、告発者の思いを踏みにじることにならないだろうか。

 今話題となっている性加害問題については、今回の一連の報道が始まるまでは漠然としたうわさでしかなくて、私自身は1999年の裁判のことすら聞かされておりませんでした。

 この後、このコメント内で山下はジャニー喜多川との親密な関係性について言及するわけであるが、それだけの間柄であれば1999年の裁判くらい知っているはずでは。
 このあとも山下は、重ねて性加害については何も知らなかったと続ける。
 仮に本当に知らなかったとして。コメントすべきなのは、これまで知らなかったかどうかではなく、知った今、どう思うかではないだろうか。

 その後は初代ジャニーズとの”出会い”から始まり、喜多川との思い出やジャニーズアイドルへの楽曲提供などの話に続く。

数々の才能あるタレントさんを輩出したジャニーさんの功績に対する尊敬の念は今も変わっていません。

と、コメントの中盤は喜多川やジャニーズ事務所への賛美が繰り広げられる。

 続けて、「ご縁とご恩」が大切だと説く。その後もコメントでは性加害は容認できないと繰り返すが、行為を働いた喜多川そのものへの非難ではないと感じられる。

ですから正直残念なのは、例えば素晴らしいグループだったSMAPの皆さんが解散することになったり、最近ではキンプリが分裂してしまったり、あんなに才能を感じるユニットもどうしてと疑問に思います。

 今回一番「??」となった部分である。この後も、SMAPや嵐、キンプリの再集合を願う、と発言。今求められているコメントなのか。

 そして最後に、こんな「捨て台詞」でコメントを締めくくる。
このような私の姿勢を忖度、あるいは長いものに巻かれているとそのように解釈されるのであれば、それでも構いません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう。
 
 今回もっとも物議を醸したのは、この部分ではないかと思う。
 批判するなら俺の音楽を聴くな、ということだ。むしろ「批判するリスナー」は自分にとっては不要、というのが本心ではないかとすら思える。
 コメントでは
ジャニーさんのプロデューサーとしての才能を認めることと、社会的・倫理的な意味での性加害を容認することとは全くの別問題だと考えております。
という発言もあった。
 であれば、山下の思想や倫理観と相いれないと感じるリスナーがいても「別問題」であろう。そこは矛盾していないか。

社会への解像度

 山下はインターネットやSNSなどを一切やっていない。音楽は、サブスクサービスにも一生アップしないとまで明言しているくらいだ。

 個人の信条なので、それは構わない。だが、それは社会に干渉しないとか問題に目を向けないことの免罪符にはならない。
 コメント全体を通じて「社会への解像度」が低いな、と感じた。
 喜多川と一緒になって叩いてほしい、ということではなく、事の重大さを感じているようには思えなかったからだ。
 
 トラブルへの声明なので弁護士などの第三者も文書の作成には携わっていると思われるが、どうしてこれで良しとなったのか、不思議である。

不正義への向き合い方

 アーティストであるからには聖人君子であれとか人格者であれ、とは思わない。

 しかしながら、ジャニー喜多川が行ったことは明らかな社会的不正義である。それに対して、はっきりとノーと言うでもなく、縁だとか恩だとかそういう言葉でのらりくらりと交わそうとする姿勢は、単純に”ダサい”と思ってしまった。

 いくら仲が良くても、悪いことは悪い。
 山下の心は、現在や未来ではなく過去の中にいつまでもあるのだろう。見つめているのは、現代を生きているリスナーやジャニーズのタレントではなく、鬼籍に入った喜多川の方向である。
 
 ジャニーズに限らず、あるいは男女を問わず芸能界ではキャリアを積むために性的に接待したり、あるいは性暴力を受けるといったこともあるようだ。

 しかし、明らかにその構造はおかしい。これからは根絶していこう、とそれくらいのメッセージを出すことはできたのではないか。もっとも、そういう考えがあるんであればだが。

不要な音楽?

 私が一番悲しかったのは「私の音楽は不要でしょう」のくだりだ。今回、私は不正義にノーとも言えない山下の姿勢には失望してしまった。

 しかし、山下達郎の音楽が、山下達郎というサウンドが私の人生に不要だとは思わない。先述の通り、彼の作る音楽が大好きだからだ。
 
 それが、「あなたには僕の音楽はいらないでしょ」と向こうから言われてしまうなんて。がっかりだ。
 
 それに、山下達郎はプロのミュージシャンである。CMソングや、それこそアイドルへの提供楽曲などさまざまな場面で耳にする。
 趣味で音楽を作る少年ならまだしも、音楽で食べている人間が、それも各種メディアへの作品の露出が多い人間が、クライアントも含めた聴き手を排除するようなことを言ってしまって大丈夫なのだろうか...。
 50年近いキャリアがあるであれば、配慮はできると思うのだが。

それでもレコードは折らない

 しかしながら私は今日もこれからも、山下達郎のレコードに針を落とし続けるだろう。繰り返すが、山下達郎の音楽が大好きだからだ。
 
 人格と音楽は別。私はそうやって割り切っている。これは椎名林檎、小沢健二でも同様だ。山下達郎をこの枠に入れたくはなかったのだが…。

 今回一つ学んだのは、人間性というのは正義を語るときよりも不正義と直面したときの向き合い方に現れるのだろう、ということである。


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