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まえばし心の旅040:糸の街

お正月に、家族で上毛カルタを楽しんだ方もいらっしゃるだろう。前橋の読み札はもちろん、「県都前橋糸の町」だ。県庁前通りを描いた絵札を見ると、今よりも建物や木が小さく、当時からの発展を窺い知ることができる。ちなみに、「繭と生糸は日本一」も、関係する札と言える。

 思えば、カルタの読み札のとおり、やはり前橋は生糸によって栄えた街だ。歴史的に見れば、日本で最初の機械式製糸工場ができたのは前橋だし、明治初期の前橋発展の基礎を作った前橋二十五人衆は、多くの方が、製糸業関係の職種に携わっている。その財力により、前橋はお城を再築し、県庁が誘致され、臨江閣が建設された。そして、日清日露から第一次世界大戦に至るまでの日本経済を支えたと言える。

 金融面から見てみると、群馬県初の銀行は、横浜銀行高崎支店で、明治8年に開設されている。そして翌9年には、前橋支店ができており、今でも桐生を含めて横浜銀行は群馬県内に3支店を持つ。横浜銀行は、神奈川と群馬以外は、東京・大阪・愛知に支店があるだけで、群馬にこれだけの支店があるのは、なかなか面白い。それは、明治の頃、横浜港から世界に向けて出荷される生糸の最大の生産地が群馬であったからであり、横浜と群馬の間の金融取引が多かったのだろう。また横浜銀行の前身となる組織には、頭取や幹部に群馬県出身の商人が多くいたという。その前橋支店も、2月には高崎支店内に移転予定で、寂しさを禁じ得ない。

 現在の前橋のまちを見てみよう。交水社の跡は、広瀬川サンワパーキングやマンション・幼稚園などになっている。日吉町の、現在は総合福祉センターになっている場所は、かつては前橋市立女子高校だったが、それ以前は山十製糸や丸六製糸があったところだ。赤城県道沿いの群馬日産の辺りは丸交製糸があったし、国道17号沿いの眼鏡スーパーやリサイクルショップがあるところは、丸大製紙の跡地だ。もう少し北の前橋リリカはかつてグンゼがあり、さらにその先には元のシルクプラザやエメラルドボウルがあるが、そこには丸ト製糸があった。シルクプラザといえば六供町にもあったが、そこは上毛撚糸の跡地で、今はマンションになっている。そして、小規模ではあるが、日吉町の住宅街の中に残るレンガ倉庫は、奈良製糸の跡である。

 前橋駅前には上毛倉庫があり、そして県民会館前の「クラシード若宮」も、かつては上毛倉庫だったが、同社は生糸の原料となる繭を保管するために設立され、レンガ倉庫を建設した。
 
 こうやって見てみると、前橋市内の大きな施設は、製糸工場などの跡が多い。それに、近郊に目を向けると、蚕の卵である蚕種の業種が多く、その代表例は国指定の重要文化財になった、田口町の塩原家住宅であろう。また、前橋の郊外には、屋根の上に換気口を設けた、昔の養蚕農家の家が多く残されている。

そういえば、私も子供の頃、工場見学で製糸工場に行ったり、同級生の家の製糸工場を見たりした記憶がある。あの独特の匂いが、今でも忘れられない。また、近所の桑畑に入って、どどめをよく食べた。言ってみれば、そんな前橋っ子は、同じ桑に生えているものを、お蚕様と共有して食べていたことになる。

 前橋のまちなかは、空襲により古い建物が残っていない。しかし、地図やまちをよく見てみると、糸の町の痕跡が残っている。当時の糸の町前橋が、日本を支えていたという歴史に光を当て、シルクカントリーとしてのシビックプライドを持とうではないか。

放送日:令和4年2月2日

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