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まえばし心の旅034:お城の名残

前回もお話しした様に、前橋は城下町だ。しかし、明治維新後にお城の建物は大方が解体や払い下げされ、お堀も埋められてしまい、あまりその風情は残っていない。わかりやすいのは、県庁の敷地内に残る土塁や、車橋門跡だろう。また、今年の2月には、大手町の工事現場で、酒井公時代の大手門の石垣の一部が約300年ぶりにその姿を見せ、その発見には心が踊った。

 しかし、よく考えてみると、県庁は本丸跡であるし、市役所、裁判所といった役所の施設も、お城の敷地内にある。そういった施設は、そこが元はお城であったからこそ、明治以降そこに設置されたわけであり、旧前橋藩の行政機能を、現在でも地理的に継承していると言える。他にも、今は桐生に移築された旧衛生所兼医学校も元は群馬会館の場所にあり、一時期は今の群馬大学附属小学校が置かれ、萩原朔太郎が通ったという。今の日本銀行の場所は、昔の市役所や図書館もあったというし、やはり、前橋城の敷地は、昔から群馬の行政の中心地だったのだ。

 また、大手町内の道路を観察してみると、ちょっと不自然なカーブがあったり、川に沿っている道なども残ったりしており、昔の地図と見比べると、お城の道の名残であることがわかる。

 前橋のお寺の配置を見てみると、興味深いことがわかる。1箇所に、いくつかのお寺がまとまって存在しているのだ。まちなかには大蓮寺と妙安寺。今は移転してしまったが、政淳寺と明聞寺もまちなかにあった。その少し東、三河町には、東福寺・隆興寺・養行寺・正幸寺と、4つのお寺が並んでいる。

 私の家は、その中の養行寺を菩提寺としているのだが、そこでの聞き伝えによると、養行寺は三河国で酒井家により創建され、酒井家が前橋に来た時に一緒にやってきた。当初は本丸近くにお寺があったが、利根川の侵食により、現在地に移されたという。前橋市役所のロビーに、万代橋などを描いた錦絵の大きなレプリカがあるが、その中に「南無妙法蓮華経」と書かれた供養塔が描かれており、その供養塔が現在では養行寺にあるのは、お寺と酒井家の関係と、お寺の移転によるものと思われる。

 では、なぜそのようにお寺が藩主との関わりが強かったかというと、もちろん藩主やその奥様により創建され、酒井家や松平家などとの関係が強かったという面もある。もう一つは、お寺がいざという時には軍事拠点とすべく、都市計画として配置されたためと考えられる。今の国道50号は、古くは前橋のお城に向かう道の一つであった。外部から敵が攻めてきた場合、三河町近辺のお寺に藩の兵士を集結させて、そこで迎え撃つのだ。その次の防波堤が、いまのまちなかのお寺だ。そう考えると、朝日町にも松平家との縁が深い孝顕寺があるし、前橋駅近くの50号沿いには松竹院がある。南からの抑えには、長昌寺や龍海院や冷泉院があたったのかもしれない。

 冒頭にも述べた様に、今の前橋は、あまりお城の風情は残っていない。しかし、昔から残るお寺の配置や、地図を眺めることにより、その一端を掴むことができる。

 欲を言えば、大手町付近は、もっとお城の雰囲気を再現してほしいな。

放送日:令和3年12月8日

音声データはこちらからお楽しみ下さい。



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