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春の終わり、夏の始まり【完結】

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春の終わり、夏の始まり 1

晩秋の雨が窓を叩く音が、夜の静寂を破る。 唯史はリビングのソファに座りながら、ぼんやりと外を眺めていた。 最近、美咲の行動に変化が見え始めていた。 唯史が美咲と結婚したのは3年前、お互い26歳の頃である。 結婚当初の美咲はいつも明るく、仕事の話も積極的にしていたが、ここ数週間は様子が一変していた。 唯史が「今日はどうだった?」と尋ねても、「忙しかった」という一言しか返ってこない。 さらに詳しく聞こうとしても「特に何もないわ」と話をそらされてしまう。 美咲は広告代理店で仕

春の終わり、夏の始まり 2

年末も近い12月上旬の夜、唯史は久しぶりに大学時代の友人たちと居酒屋で飲んでいた。 あちこちで賑やかな笑い声が心地よく響く中、話題はそれぞれの近況へと移っていった。 だが唯史が美咲の最近の様子について話し始めると、友人の一人が顔を曇らせた。 「唯史、それちょっとおかしいんじゃないか?遅くまで仕事と言っても、毎週末とかどうよ?一度ちゃんと話をしてみた方がいいんじゃないか?」 その言葉に、唯史はハッとする。 他の友人も同意見で、 「そうだよ、気になるならはっきりさせた方がいい」

春の終わり、夏の始まり 3

翌週の金曜日。 唯史はこの日、予定よりも早く出張から帰宅した。 ひとまず荷物を置き、ソファに身を沈める。 リラックスしようと、コーヒーを淹れたマグカップに手を伸ばした瞬間、唯史のスマートフォンが小さな通知音とともに振動した。 画面には、美咲からのメッセージが表示されている。 何気なくメッセージアプリを開くと、信じがたい画像が目に飛び込んできた。 画像の中の美咲はエロティックな下着姿で、見知らぬ男とホテルのベッドに寝転んでいる。 その表情はきわめて魅惑的で、男との親密さを色

春の終わり、夏の始まり 4

唯史は、美咲が帰宅するのを待ちわびていた。 リビングのソファに座り、心を落ち着けようとしながらも、内心は激しい感情の渦に飲み込まれそうになっていた。 手元には、裏切りの証拠となる写真が画面に映し出されている。 外はすでに暗くなり、壁にかけた時計の針がじわりじわりと進んでいく音だけが、部屋の中の静けさを一層強調していた。 ドアの開く音が、美咲の帰宅を告げた。 美咲はいつも通り、「ただいま」と明るく声をかけながらリビングに入ってくる。 この様子だと、画像の誤送信には気づいてい

春の終わり、夏の始まり 5

唯史はスマートフォンを手に取り、画面を美咲の目の前に差し出した。 「これ、説明してほしいんだけど」 静かに、冷静に、唯史は言った。 画像を見た瞬間、美咲の表情が一変した。 一瞬の沈黙のあと、美咲は戸惑いを隠せずに、 「これは、これは…間違いよ、私じゃない」 急いで言うも、その声は震えており、画像から目をそらす。 唯史は冷静さを保ちつつも、内心では怒りと失望が渦巻いていた。 「間違い?そんなわけはないよね?どう見ても、これは美咲だよね?」 唯史の声が、次第に冷たさを増してい

春の終わり、夏の始まり 6

美咲が部屋を出た後、リビングの空気は重く、冷たく感じられた。 唯史はソファに座り直し、頭を抱える。 これまで美咲と築いてきたはずの信頼、愛情、未来が、この瞬間に崩れ去っていくのを感じた。 ともに過ごした時間、二人で描いた未来、笑顔、そして涙すらも、すべてが無に帰してしまうようで、唯史の心は深い絶望に沈んでいった。 何がいけなかったのだろう…… 唯史は、自問自答を繰り返す。 思えば美咲は明るく社交的で、人と交流することを楽しんだ。 対して唯史は内向的な性格で、静かに過ごす

春の終わり、夏の始まり 7

美咲の裏切りが発覚してから、2週間が経った。 新たな年が明けたが、美咲が自宅に戻ってくることはなかった。 彼女が友人宅に身を寄せていることはわかっていたが、唯史は自分から連絡を取ろうとは思わなかった。 また、美咲からの連絡も途絶えていた。 仕事始めで、久しぶりに出社した日の夜。 相変わらず唯史は、リビングの静けさの中で深い悲しみに暮れていた。 部屋の中は冷え切っており、唯史の心もまた、凍り付いているかのようであった。 冬の風が窓を叩く音が、さらに悲しみを増幅させる。 ふと

春の終わり、夏の始まり 8

1月末。 美咲が友人宅に身を寄せてからひと月が経つ。 唯史は最終的な話し合いのため、彼女と会うことにした。 その日の朝、唯史は鏡の前で何度も深呼吸を繰り返し、心の準備を整えた。 わかっている。 感情を抑え、冷静に話を進めるだけだ。 唯史が美咲と待ち合わせたのは、街の片隅にある小さなカフェだった。 店内には穏やかな音楽が流れ、小春の柔らかい日差しが窓から差し込んでいる。 唯史はカフェの一角にある静かな席を選び、美咲が来るのを待った。 ほどなく、美咲が到着した。 「久しぶ

春の終わり、夏の始まり 9

美咲との離婚後、唯史の日々は変わり果てた。 情緒がきわめて不安定になり、些細なことで落ち込むことが増えた。 夜な夜な睡眠は乱れ、質の良い眠りからは遠ざかっている。 深夜に目が覚めると、そのまま何時間も天井を見つめることが増えていた。 寝返りをうつたびに、唯史の心と体は安息を求めていたが、心の奥底に渦巻く感情がそれを許さない。 この睡眠不足は、日中の仕事にも影響を及ぼし始めている。 勤務中にあくびが絶えず、会議中にはうとうとしてしまうこともあった。 「離婚してからあいつは

春の終わり、夏の始まり 10

3月中旬の週末。 寒の戻りに身震いしながら、唯史はキッチンでコーヒーを淹れていた。 マグカップに注がれる濃いブラウンの液体が、静かな部屋に小さな生命を吹き込む。 この頃、朝はコーヒーだけで、朝食を摂る気力は失せていた。 熱いカップを持ち、唯史はリビングへと戻った。 ソファは乱れたまま、周囲には雑誌や郵便物が散乱し、その孤独な生活を物語っている。 唯史はソファに沈み込むと、窓の外を眺めることもなく、ただ珈琲をすすった。 その時、スマートフォンが振動し、メッセージの到着を告げ

春の終わり、夏の始まり 11

同窓会、当日。 12時に羽田空港を発った漆黒のスターフライヤーの機体は、定刻通り関西国際空港に到着した。 関西空港のターミナルに足を踏み入れると、即座に懐かしい匂いと音が唯史を包み込んだ。 有名な大阪土産の豚まんの匂い、そして関西ならではの勢いのある大阪弁。 故郷に帰ってきたという実感とともに、唯史の心の中には安堵感が広がっていった。 関西空港駅から、唯史は電車に乗った。 窓の外は、南大阪の田園風景が広がっている。 田植え前の田んぼからは、春先の土の匂いが漂ってくるように

春の終わり、夏の始まり 12

同窓会は、地元の居酒屋で行われた。 入り口の引戸には「本日貸し切り」と書かれた札がかけられている。 カラカラと軽い音を立てて引戸を開けると、唯史を包み込んだのは暖かな照明と賑やかな声の波だった。 中学卒業以来、15年ぶりに見る、懐かしい顔ぶれ。 彼らは唯史の姿を見つけると、いっせいに歓声を上げた。 「唯史やん!めっちゃ久しぶりやなぁ!」 大学進学とともに東京に居を移した唯史は、中学時代の同級生と顔を合わせる機会がほとんどなかったのだ。 同級生たちは唯史を囲み、昔話に花を

春の終わり、夏の始まり 13

遅れてやってきた参加者も増え、同窓会はさらに盛り上がっていた。 あちこちで交わされる昔話、そして近況報告。 少々酔いを覚えた唯史は、義之を誘って居酒屋の裏手にある河川敷へと移動した。 春の夜風が二人の頬を優しく撫で、遠く関空の誘導灯が見える。 上空には無数の星がきらめき、喧騒を離れた穏やかな時が流れていた。 「ここは変わらんな」 と唯史がつぶやくと、義之は、 「そやな。でも人は変わる。唯史、その顔色の悪さとガリガリに痩せた体、俺が気づいてないと思ってるんか?いったい何があ

春の終わり、夏の始まり 14

同窓会が終わった後、2次会へと流れる者も多かったが、義之はそのまま帰宅した。 義之は、祖父から譲り受けた平屋一戸建てに住んでいる。 畳敷きに寝転がり、天井を見ながら、義之は唯史のことを考えていた。 「何があった、唯史……」 久しぶりに見る親友の姿は、中学時代から大きくかけ離れていた。 いや、見た目はそれほど変わっていないのかもしれない。 他の同級生は、唯史の変化に気づいていない様子であったが、義之は一目でわかった。 唯史はもともと、色白の美少年であった。 だが今の彼は、