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二宮翁夜話 巻之一、第十一節 論破するための理論なんていらない

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話についての不定期投稿。ニワカのやることなので、読み間違いなどありましたら、ご指摘いただけると助かります。

・最初に

今回、孟子の話です。人名と書名が入り交じるので、感想の部分では人名の方を孟子(人)、書名の方を孟子(書)と記述します。

・抄訳

抄訳内の孟子はすべて書名です。

ある儒学者が、孟子は易しく中庸は難しいと言った。
しかし翁はこう言われた。

実際には、孟子の方が難しく、中庸は易しい。
孟子は異端(正統派儒学以外)に反論するための教えで、仁義の理論には詳しいが、実行がともなわないからだ。

あなた方(儒学者)は、実行するためではなく、理屈で人を言い負かすために学んでいるだろう。孟子を易しいと言うのは、その内容が、あなた方の「相手を論破したい」という気持ちに合っているからだ。

聖人の道は、仁をなし道徳を守ることにある。人に勝つことだけ考えている孟子で聖人の道を学ぶのは難しいと言えよう。

それに比べれば中庸は、低きから高きに登り、小から大に至る教えで、生活の延長で行うことができる。
例えば、節約して暮らし、余った分を世のために使うことは誰にでもできる。この行いのうちに仁義忠孝、神の道も聖人の道も自然と備わる。

我が道は、分を守ることを本とし、譲ることを持って仁とする。
なぜ中庸が難しいはずがあろうか。


・感想

はっきり言いますが、孟子(人)は性格が悪いです(笑)。

孟子(書)には王との問答が多いのですが、自分が先生であるのをいいことに、質問してくる王を論破。
王が話に乗ってこないと、誘導尋問で引っ張り込んで論破。
ついでに嫌味を言わないと気がすまない。

そんな調子で仁義を説かれても説得力がなく、上巻を読んでいる途中で投げ出しました(いまWikipediaで調べてみたら、人物伝承にも「何様?」と言いたくなる傲慢エピソードが多数)。

尊徳も「口で人に勝つのを道とし、人を言い負かすのを勤めとする。孟子(書)はそういうものだ」と言っているので、読んだ感想は似たようなものだったのかも。

口で立派なことを言っていても、態度次第で信頼性はガタ落ちになる。
子育て中の親としては、耳が痛いです…。

孟子(人)の性格は別として、天下国家が中心で理想論が多い孟子(書)は、一般人にとって実用的とは言えません。
実際の生活に役立つことを善とし、小さな一歩を重ねる「積小為大」がモットーの尊徳にとっては、合わない書物だったでしょう。

・原文

儒学者あり、曰、孟子は易(ヤス)し中庸は難(カタ)しと、翁曰(いわく)、予(ワレ)文字上の事はしらずといへども、 是(これ)を実地正業に移して考ふる時は、孟子は難し中庸は易し、いかんとなれば、夫(それ) 孟子の時道行れず、異端の説盛んなり、 故に其(その)弁明を勤めて道を開(ヒラキ)しのみ、故に仁義を説(トイ)て仁義に遠し、卿等(キミタチ)孟子を易しとし孟子を好むは、己が心に合ふが故なり、 卿等(ケイラ)が学問するの心、仁義を行(おこなわ)んが為に学ぶにあらず、 道を蹈(フマ)んが為に修行せしにあらず、 只書物上の議論に勝(カチ)さへすれば、夫(それ)にて学問の道は足れりとせり、議論達者にして人を言伏(イヒフ)すれば、夫(それ)にて儒者の勤めは立(たつ)と思へり、夫(それ)聖人の道、豈(アニ)然る物ならんや、聖人の道は仁を勤(ツトム)るにあり、五倫五常を行ふにあり、何ぞ弁を以て人に勝つを道とせんや、 人を言伏するを以て勤(ツトメ)とせんや、 孟子は則(スナハチ)是(コレ)なり、此(かく)の如きを聖人の道とする時は甚だ難道也、容易になし難し、故に孟子は難しといふ也、夫(それ)中庸は通常平易の道にして、 一歩より二歩三歩とゆくが如く、近きより遠きに及び、卑(ヒキヽ)より高きに登り、小より大に至るの道にして、誠に行ひ易し、 譬へば百石の身代の者、勤倹を勤め五十石にて暮し、五十石を譲りて国益を勤(ツトム)るは、誠に行ひ易し、愚夫愚婦にも出来ざる事なし、此道を行へば、学ばずして、仁なり義なり忠なり孝なり、 神の道、聖人の道、 一挙にして行はるべし、至て行ひ易き道なり、 故に中庸といひしなり、予(われ)人に教ふるに、吾道(わがみち)は分限を守るを以て本とし、分内を譲るを以て仁となすと教ゆ、豈(アニ)中庸にして行ひ易き道にあらずや    

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