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オレンジのセーター

生まれてから今現在までのあいだで、たった一度だけ、私は、自分そっくりの人間にあったことがあります。
他人の空似なんてものではない。目の前に、突然大きな鏡が現れたのかと思いました。その瞬間、はっとしたことは確かですが、それは驚きや恐怖といった類の感情ではありませんでした。衝撃、というのも違います。例えるならばデパートの手洗いや服屋の壁に取り付けられた鏡に目をやったとき、鏡に映る自分自身を見るような、そんなごく当たり前の感覚に近かったと思います。加えて「こんなところに鏡はないはずだ」という冷静な思考もどこかにはあって、それはもちろん、とても奇妙な体験でした。

鏡だと信じ込まなかった理由は二つありました。一つは、その場所がそこそこ人通りのある街中であったこと。もう一つは、「それ」が私が好んで選ばないような服装、というよりも単純に、あまりに奇抜な格好をしていたことです。
しかしながら、他人ではないことだけは確かでした。鏡合わせのように全く同じ顔が、少し離れた位置から私のことをじっと見ていたのです。

ドッペルゲンガー。
自己像幻視、幻覚の一種、本人が見ると死ぬ、死の前兆、エトセトラエトセトラ…。
私はこの手の恐ろしい話は大の苦手です。幽霊も宇宙人も信じていますし、子供の時分から現在もなお、大変に怖がりです。けれど「それ」を見たとき、私は不思議なくらい、何も感じませんでした。怖くもなかったし、特に嫌な感じもしなかった。ただただ、なぜ?という気持ちだったのを覚えています。えっと、なぜ、こんなところに?

「それ」は、ちょっと見かけないくらいにひどく明るいオレンジ色のセーターを着ていました。ざっくりした太い毛糸のセーターで、胸というか胴体のところに大きな羽のマーク(インディアンの頭の飾りみたいな、という表現が一番近い)がありました。毛羽立ったセーターの表面の、もけもけっとした繊維の一本一本が、陽の光を浴びてきらきらして見えました。少し離れた所に立っていたにもかかわらず、なぜそんな細かいところまでよく見えたのかは今思えば不思議なのですが、それでも確かに見えたのですし、そのちょっと見かけないくらいの、率直に言ってへんな色味のオレンジは、鮮明に覚えています。あとは片耳についたピアスが妙に大きくて、それも何かおかしなものだった気がします。インコの頭みたいな、でもこれはかなり朧げで、とにかく変なものだったということだけが強烈に記憶されていて、細部(それがインコだったか、モグラだったのか、もしかするとコウモリだったかも)は覚えていません。ジーンズだかスキニーだかを履いていましたがそこも不明瞭で、黒っぽい細身のパンツだったということしか確かには思い出せません。そして手ぶらでした。すとんとした、なんというかとても悪意の感じられない様子で、イノセントな佇まいで、そこにいました。靴はどのようだったかは、まるっきり見ませんでした。とにもかくにも、あの狂ったようなセーター!そしてそっくりそのまま瓜二つの、私の顔。それだけが脳のひだにくっきりと染み付いたみたいに、忘れられないのです。

「それ」に出会った場所は、その頃毎日のように通っていた商店街を一本北に入った路地で、雑貨屋や古着屋などの店が立ち並び、昼も夜も人通りの割とあるところでした。そのときも、私たちの他に通行人がいました。正確に言うと、その気配は、ありました。街のざわめきというか、人の話し声や足音や、ショップの紙袋のガサガサいう音なんかはすぐそばで確かにしていたのですが、「それ」と私が対峙していた時間だけ、周りには人影が見えなかったのです。本当は誰もいなかったのか、それとも見えなくなっていたのか…「それ」に私のすべての意識が持っていかれていたのか、定かではありません。でも耳だけが、道行く人々の気配というか音を捉えていました。これも、今思い返せば妙な感覚だったと思います。

私は「それ」に一歩か二歩ほど歩み寄りました。「それ」は私のことをじっと見ていましたが、決して睨んでいるとか、そういう嫌な気持ちのする感じではありませんでした。どちらかと言えばむしろ、ほんのりと親しみのこもった、薄く笑っているようにも見える視線だったと思います。すごく仲が良いわけではない、でも会えば声を掛け合うような、ちょっとした知り合いに街中でばったりと出会ったような。「それ」は店の軒下近く、つまり日陰に立っていて、私は店と店の屋根の間からちょうど陽の差し込んだ明るい石畳の上にいたため、「それ」は少し眩しげな表情をしていたのかもしれませんが、もっともこれは、後日記憶を辿った私の後付けの分析に過ぎません。

声をかけました。その時のことはかなりはっきりと、私の脳と耳が覚えています。
「こ、こんにちは。」
私はまず吃りながら挨拶をしました。そして、
「もしもし」「どうも」
そう付け足しました。何か言いたい、話しかけるべきだという気がしていたのに、私の口からはこのほとんど意味をなさない三つの単語しか出てきませんでした。こんにちは、もしもし、どうも。我ながら、冴えないチョイスです。
私はかなりおろおろしていたと思います。きっと側から見たら、奇抜な色のセーターを着て変わったピアスをつけた「それ」よりも、よほど私の方が挙動不審の怪しい人物だったはずです。でもその時も頭の中だけはすごく冷静で、感覚は澄み渡っていました。もしもその時「それ」が唾を飲み込んだなら、その音にも気付けただろうと思います。(唾は飲み込みませんでしたが。)眉の動き一つ見逃さないほどに、私たちは近い距離で見つめ合っていました。一瞬、ぶわりと強い風が路地を吹き抜けて、土埃が舞ったときに、私ははじめて「それ」の髪の毛が風に靡いていないことに気が付きました。「それ」の周りだけ、どうやら無風のようでした。それでも、どう見てもそこに「それ」は存在しているのです。プロジェクションマッピングなどではありません。何故だか、触ることだけはどうしても憚られました。春先の冷たい空気を間に挟んで、私たち二人はしばらくの間、そこにいました。

「それ」は結局、何も返してきませんでした。ただ終始薄く微笑みを浮かべているような表情で、こちらを見つめていただけです。数十秒だったのか数分だったのか、その時過ごした時間は体感ではよくわかりません。そして私は踵を返し、その場を離れました。

それが私と「それ」との、一度きりの奇妙な出会いでした。そしてもう一つ奇妙なのが、「それ」のことをこの後すぐにすっかり忘れてしまっていたことです。信じられない事に、私は「それ」と別れた後、本屋や喫茶店に寄って、夕飯の買い物をして家に帰りました。本屋に寄ったときには既に、今し方起こったはずの非日常の体験は、すっかり頭の中から消えていたのです。そしてふた月ほど過ぎた頃、忽然と、そのことを思い出したのです。このときはさすがに驚きました。(思わず一人で手を叩きましたし、変な声も出ました。)
一度記憶が戻ると、「それ」の姿、特にあのセーターや自分が投げた言葉、あの時感じていた日差しの温度や埃くさい風の匂いまで、ありありと思い出すことができました。あれは一体何だったのか。何か意味があったのか、どこかの何かからのメッセージだったのか、未だにさっぱりわかりません。その後なにか不幸なことが起こったわけでもありません。不思議な体験だったとしか、まるで言い表しようがないのです。

こういうことはもしかすると、皆さん語らないだけで、珍しくないのかもしれません。私もこのことは、誰にも話したことがありません。

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