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『坂本龍一の丸い音』 サブカル人間の憂鬱で明けない夜


1  死なれるとうろたえるサブカル人間


今回も無茶苦茶な文章だ。まとまってない。かなり雑だ。結局、個人的な覚書みたいになってしまった。

坂本龍一が亡くなってひとつきくらいになる。テレビでは、追悼番組が一通り出揃った感があるが、ニュースでは社会運動がらみで時々坂本龍一の顔を見るし、情報番組では被災地がらみのトピックスが尽きない。それこそネットでは一日に何度も、まっとうな記事から、コピペのようなものまでが出ている。本屋さんに行くと、坂本関連の著作から雑誌の追悼特集号まで、まだまだ坂本龍一が続きそうだ。

ここnoteにもたくさんの人が坂本龍一関する文章を寄せていて、なんだか昔のロッキング・オンみたいな状況になっている。私は面倒なので、そういうものは、みんなスルーするつもりでいた。

毎日見かける晩年の痩せたモノクロのポートレイトは、坂本龍一というよりは、藤田嗣治みたいだし、右手の人差し指で丸眼鏡目をあげている逆光の写真は、少女マンガの画みたいだし、この半年で見かける坂本龍一は、私の知っている(といっても私はただのリスナーだ)坂本龍一とは、大分違って見えた。

でも人間は変わるものだし、そんなものかもしれない。

私のような人間は、その大半がサブカルチャーで出来ている。私からサブカルチャーをとったら、何も残らない。この何年か前から、私が影響を受けたアーチストが、どんどん亡くなっている。

単純に、そういう年齢になっただけのことなのだが、思っていたよりも、うろたえている自分がいる。

いちいちうろたえていては、身が持たないのだ。だから、高橋幸宏や坂本龍一が病気を公表してからは、私も自分なりに心の準備をしてきた。ところが、いざ、亡くなられたら、してきた準備が何の役にも立たないくらい、うろたえているのだ。

高橋幸宏の方は、うまくいった。亡くなられてもさほど動揺していない。でも、坂本龍一は駄目だった。なんでなのか? 答えは簡単だ。新しく知っちゃったからだ。

私は高橋幸宏のことは、ずっとファンで居続けて、その仕事には、ずっと接してきていた。ソロアルバムも、バンドのアルバムも、大体、リアルタイムで聴いてきている。

しかし、私は坂本龍一の良い聞き手ではなかった。私が坂本を追っていたのは、1990年代の半ばまでで、その後は去年まで、二十数年のブランクがある。去年、そのブランを埋めるように、坂本龍一の音源を大量に聴いたのだ。

つまり、新しく聴いたのだ。

心の準備をするために聴いたのだが、葬送ではなく開拓みたいになっちゃったのだ。

そのせいだろうか、このところ毎日、坂本龍一のことを考えている。なんてメンドクサイ性格なのだろうか。

仕方ないので、坂本龍一のことを書いてみる。


2 バカにしているのかと思った歌もの


『左手の夢』は坂本龍一の三枚目のソロアルバムだ。1981年の10月5日に発売されている。半分以上の曲に歌があり、坂本龍一本人が歌っている。


『左手の夢』の中に「サルとユキとゴミのこども」という曲がある。作曲は坂本だが、作詞は糸井重里だ。

「かちゃくちゃねぇ」は坂本作曲で、作詞は矢野顕子だ。

これらの曲を聴いた時、最初は、バカにしてるのかな、と思った。そして、バカにされてるのかなと思った。

何かや誰かをバカにしているのなら、私も一緒になってバカにしてやろうと思うのだが、何をバカにしているのか、当時の私にはわからなかった。

もしかしたら、私はバカにされている側なのかとも思った。そうなるとハナシは違ってくるのだが、それもすらわからなかった。

これらの曲は、ふざけているのか、遊んでいるのか、真面目なのか、私には理解できないのだったのだ。ボーカルが矢野顕子だったら、きっと楽しんで聴くことが出来たと思うのだが、いかんせん坂本龍一が歌っていたから、楽しめなかった。

わからないまま、私は考えるのをやめて、去年まで放置していた。

去年の後半あたりから、高橋幸宏や坂本龍一がそろそろ亡くなりそうだなと思った罰当たりな私は、二人のアルバムを、ランダムに、全時代を聴くようになっていた。

約40年ぶりに、坂本龍一の「サルとユキとゴミのこども」を聴いて、ああ、坂本龍一は、単に、真面目に音楽をやっていたのだな、という認識に変わった。そうなるまでに40年かかっている。我ながらアホだ。

3 辺境・プログレ・ミュージシャンだと勘違いしていたあの頃


私が坂本龍一をちゃんと聴いていたのは、CDの前のレコードの時代だった。

YMOで世の中に登場してきたころの坂本龍一は、本人が仏頂面をしているわりに、その音楽はロックって感じがしなかった。雑誌の写真で見たのだろうけど、とにかく第一印象は、仏頂面だった。

私はYMOは、好きでも嫌いでもなく、興味がなかったが、高橋幸宏は好きで、彼のソロアルバムは、ちゃんと聴いていた。そのついでに、坂本龍一のソロ・アルバムも聴いていた。細野晴臣は苦手だった。はっぴいえんども、そんなに好きじゃなかった。

坂本龍一のアルバムは、YMO好きの友人が律儀に買っていたレコードを、借りて聴いたのだった。

当時の私はまだまだ思春期猛々しかったから、こちらの暴力衝動を受け止めてスッキリさせてくれるロックか、ねじれポップのようなエキセントリックなポップ・ロック、もしくは洋楽を聴くようになってから何年もはまっていたプログレの亜流のようなものを求めていた。

当時の私の狭い音楽知識では、キイボードの人は、大概、プログレだろう、と思っていたのだ。

ソロ・アルバムの坂本龍一の音楽は、ロックでもポップ・ロックでも、ましてプログレでもなかった。しいて言えば、クラフト・ワークからポップな要素を抜き取ったような音楽だった。

かといって、フィリップ&イーノほど、ダラダラはしていなかった。その頃の私の愛聴盤は、実はクラスター&イーノだったりした。

しつこく繰り返すけど、当時の私の粗雑な頭の中では、坂本龍一は、プログレ周辺の人達と同類に分類されていたのだ。

その頃はテレビを持っていなかったので、坂本龍一の華々しい活躍を映像で目にすることはなかった。したがって、仏頂面の印象は、長らく書き換えられることはなかった。ラジオの坂本龍一も、通りの良くない声の朴訥な喋り方で、仏頂面にマッチしていた。

4 丸い音と「童謡」「唱歌」のようなメロディ


坂本龍一のソロ・アルバムの音は、ビートとかノリとか、そういったわかりやすいコトバで捉えることのできない、ちょっとかしこまった音だった。音楽、音、という感じだったろうか。

そして、ギターじゃなかったから、大方のロックバンドやロックミュージシャンが放つような、「鳴らす音」ではなかった。

エレクトリックなソロ・アルバムは、シンセで変な音を作って、それをそんなに早くないリズムで繰り返す曲が多かった。

感情に任せて出てきた音や旋律というよりは、妙に数学的で、音数が少ない割に作りこんでいる印象だった。

当時は、実験音楽なのかなあ、と思っていた。本当はもっとアヴァンギャルドにやりたいのだけれど、レコードにして、少年少女向けに売らなきゃなんないから、わかりやすく繰り返しの形にしている、という、そんな印象も持っていた。

その音には、「丸い」印象がある。

丸いというのは、粗いとか、割れているとか、ざらついている、とかではないという意味だ。ロックのように粗くないのだ。行儀がいい音。しつけのちゃんとした音。育ちのいい音。そういう印象だった。彼の、シンセを使ったエレクトリックな音は、とくに丸く感じた。

坂本龍一の音が、新しいのか、古いのかと言ったら、よくわからなかった。
いや、違うか…。最初に聴いた40年前も、何十年も経った今聴いても、どこか懐かしさ「も」ある実験音楽という印象だ。私がわずかだが、聴いて知っている、60年代とか70年代前半にあった「前衛」の直系のようなものを、坂本龍一の音楽からは、聴くことが出来た。

一方で、「サルとユキとゴミのこども」のように坂本龍一自身がヴォーカルをとって歌うメロディは、まるで「童謡」のようだった。一つの音符に、あいうえおが、一つずつ対応していて、やっぱりテンポは速くなくて、もしかしたら、みんなで一緒に歌える曲だった。

そのメロディは、「童謡」とか「唱歌」っぽかったから、やけに日本的に感じた。当時は、わざと日本的にやっているのだろうと思っていた。が、去年の秋から、坂本龍一の音楽を大量に聴いていると、あの日本的な感じは、わざとではなく自然に出てきたものだと思うようになってきた。

20年くらい前に、ナクソスというクラシックのCDレーベルがあった。もしかしたら今でもあるのかもしれない。通常の半分以下の価格帯だったので、クラシックに興味のない私でも、試しに手を出せるCDだった。

そこに、日本人の作曲家のシリーズがあった。黛敏郎とか芥川也寸志とか伊福部昭とか現代の作曲家もいたが、山田耕筰といった古い作曲家のCDもあった。それらのCDを、私は、十数枚集めて、結構、面白く聴いていた。

今年になって、坂本龍一の童謡っぽさを考えていたら、その中の山田耕筰を思い出したのだ。

山田耕筰というと、明治生まれの、日本を代表するクラッシックの作曲家だ。「かちどきと平和」といった交響曲から軍歌まで作っているが、一般的には「からたちの花」「あかとんぼ」や「待ちぼうけ」「ペチカ」などの童謡で知られていると思う。

ちょっと無理やりだけど、坂本龍一は、なんとなくこの辺に連なっているような気がすると思ったのだ。そんなふうに思ったら、坂本龍一の、歌詞のないあのアジア風なメロディも、みんな、童謡、唱歌のメロディに聞こえてきた。

5 「戦メリ」でいろんなものが変わった


坂本龍一がメンバーだったYMOには、「せわしなさのような同時代性」を感じることが出来たが、坂本のソロにせわしなさはなかったし、高橋幸宏のような「しみじみボンボンな切なさ」も、細野晴臣のような「ひょろっとしたおとぼけ」もなかった。

むしろ、ひたすら直球のような真面目さを感じた。そしてなにより地味だった。

それらの実験音楽は、ラジカセで聴くようには出来ていなかったと思う。実は、ちゃんとしたオーディオで大きな音で聴くと、意外にも快感だった。

友人の家の高級なステレオで『B-2ユニット』を大音量で聴いて、ショックを受けたことを憶えている。その時、PILの『メタル・ボックス』も大音量で聴いて、なんか同じだなと思ったのだった。

当時の私は、ラジカセにプレイヤーをつないでレコードを聴いていたから、自分の部屋では良い音は再現できなかった。だから「千のナイフ」「B-2ユニット」「左腕の夢」なんかは、私が買うには贅沢なレコードだった。今の嫌なコトバでいうと、コスト・パフォーマンスに合わないってことになるのだろうか。

地味だった坂本龍一の評価が一変したのは、やっぱり『戦場のメリークリスマス』だった。あの映画の出演と、それ以上に、サウンド・トラック・レコードが決定的だったのだと思う。

あのアルバムで、世間の坂本龍一に対する評価も高まり、私が抱いていた坂本龍一のイメージもずいぶんと変わった。

Phewやフリクションのプロデュースをしていた坂本龍一は、間違ってYMOなんかやってるけど、本当はマイナーな実験音楽の人なのだと、私は思っていた。しかし、『戦メリ』を聴いて、坂本龍一に、冨田勲よりもしみる大衆性があるんだと驚いたのだ。そうそう、富田勲みたいだと思ったのだった。

『戦メリ』のアルバムは、ソロ・アルバムにあった実験音楽的なものより、ずっとオーソドックスな音色で親しみやすかったし、情緒に訴えるような美しいメロディは、私のような俗物の耳にもわかりやすかった。

ジャパンも大好きだった私には、デヴィッド・シルヴィアンのヴォーカルもしみた。『戦メリ』は、すぐに愛聴盤になった。その直後に出た、カセット・ブックの『アベック・ピアノ』は、さらによく聴いた。といっても、友人から借りて、テープ・ツー・テープでダビングしたのだったが……。

6 丸くなくなっていた坂本龍一の音


その後も坂本龍一のアルバムは、1990年代半ばまで追いかけていた。主に映画のサントラを聴き、ソロ・アルバムにはあまり入れ込まなかったと思う。

坂本龍一は、アルバムごとに、その時の旬な音とか世界各地の音楽を取り込んで、それを最新の技術で処理して曲を作っていたから、パッと聴いた印象では、とても散漫な音楽に感じられた。ただ一貫して、音は丸く、行儀がよく、メロディはアジア的で童謡みたいだった。

でも90年代半ば以降は、坂本龍一をちゃんと聴かなくなった。最後に聴いたのは、『スウィート・リヴェンジ』と『スムーチー』あたりだ。音は丸いし、つまらなくて、それぞれ買った時に2、3回くらいしか聴いていないと思う。

その後、だいぶ経ってYouTubeの時代になってから、坂本龍一が現代美術の人と一緒にやったり、即興演奏をしたり、いろいろなことを試みているのを、時々覗くように観て、接していた。

そのどれもが、新しいというより、やっぱり、懐かしい印象を受けた。音が懐かしいのではなくで、プロジェクトの発想が、その昔の前衛とかアングラとかと同じように見えて懐かしいのだ。

サポートも含めて動員されるテクノロジーは最新で新しいし、洗練のされ方も昔の前衛と違って、オシャレで品があった。しかし、プリペアド・ピアノなんかやられても、ちょっとなあと、と戸惑ったのだった。

坂本龍一が決定的に違っていたのは、以前の他の前衛の人達にありがちだった「激しい音」というものが、全くないことだった。坂本龍一の出す音は、常に落ち着いた優しい音なのだ。坂本の作る音楽では、ノイズですら優しく聴こえてくるのは、どうしてなのだろうか。

坂本龍一に、激しい音、演奏ってあったのだろうか? たぶん、ないような気がする。70年代末の格闘技セッションの頃の、限りなくフュージョンっぽかった頃でも、坂本龍一のキイボードの音は、激しくなかった気がする。

でも結局、それらのYouTube動画は、一度見たくらいで繰り返して見たりはしなくて、そこでの音楽も聴きこむまでにはならなかった。

YouTubeで、何回か繰り返して観たのは、オーケストラとピアノソロの演奏だ。それらのアコースティックな演奏は、同じ坂本の曲をやっても、音は丸くないのだった。私はだから、丸い音が好みではないのだと思う。

去年から、坂本音源巡りをして気が付いたのだが、私が聴くのをやめたあたりから、坂本龍一の音は、丸くなくなっていた。

ピアノやアコースティックな音が多くなり、以前のポップ路線は姿を消していた。たぶん、売ろうとかヒットを飛ばそうとか思わなくなって、好きなことをやるようになったからだと思う。

丸い音には、売ろうという意味があったのかもしれない。って、こんな書き方をしても、誰にも通じないか……。

7 社会運動と不可分の音楽


2000年代に入ってからの坂本龍一は、活動家としての比重が大きくなったように見える。社会問題をテーマにした共演とか、実験のような音楽が増えていった気がする。なんにでも口をはさみ、誰よりも早く、ストレートに発言する姿は、品があってコトバは丁寧だが、カヴァーズ以降の忌野清志郎のようだった。

清志郎と違うのは、清志郎が怒りを原動力に一人で突っ走っていたのに対して、坂本龍一は、冷静で、必ず人や場所と繋がっていたことだ。

音楽も違った。清志郎の音楽は、直情的な歌詞のロックだったが、坂本龍一の音楽は、基本的に歌詞のない音楽だった。清志郎のロックと違って、流れの中から読み取らないといけないようで、聴くのがちょっと面倒だった。

運動と音楽が不可分のようで、何も考えずに音楽だけに接することに、何か後ろめたさを私は感じるのだった。

要するに私は、社会問題的なことは回避して、音だけ楽しみたい、という人間だった。その点、清志郎は連帯など求めてこないで、一人でぶちまけていたので、楽しみやすかったのだ。

この10年、15年、私は人と交わるのが極端に苦手になっている。知り合いと遭いそうな場所には極力行かないようにしているし、人間関係からもおりている。

そんな私には、坂本龍一は、まぶしいし、うざいし、面倒臭かったのだ。
ほとんど八つ当たりのようなことを私は書いている。どうしたものだろうか。

やっぱり私は、今から人生をやり直さなくてはいけないのだ。そうすれば、坂本龍一の音楽にも、ちゃんと向かいあえるのだと思う。それに、よく考ええると、音楽って、その発祥は、宗教も含めて社会運動だったような気もする。このことは、あとでちゃんと考えたい。

坂本龍一とブライアン・イーノを並べて語るのは、適切かどうかわからないけど、イーノの環境音楽は、なんとなく、コンクリートや石造りの、それも広い部屋で再生するもののように聴こえる。

坂本龍一の、晩年の環境音楽ともいえる音楽は、コンクリートの部屋でも、畳の狭い部屋でも、野外でも大丈夫な音に聴こえる。

ということで、結論もなにもない文章になってしまったが、とりあえず、一段落した。合掌。

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