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令和夢十夜

こんな夢を見た。

電車に乗っていた。シートが窓際に長いタイプの車両だ。だいぶ古ぼけている。この電車はどうも高速道路のような場所を走っているらしい。窓の外には視界の下の方に街並みが、上には雲がたなびいていた。
街並みはどこまで行っても灰色だ。ビルも、家も、商店も、全てが灰色だった。
よく考えれば空も灰色だ。雲だけが黒い。雪雲だからだ。
ふと、切符はどこだろうかと焦り出す。
切符だ。
あれがないと電車に居ることが出来ない。切符。切符。ありとあらゆるポケットを探る。私の服には実に108箇所の袋だったり、ジッパーだったり、ボタンだったりがあり、それぞれが全てポケットだった。
そのどこにも切符はなかった。
さっきからどうにも車掌が回って来そうでならない。焦れば焦るほど、切符、切符と頭の中で言葉が回る。
手汗がじわりとにじんでいる。電車のタタンタタンという音が、鼓動に思えてきた。恐らく顔面は蒼白のはずだ。切符がない。
そうして、車両の接合部が開いて、車掌らしき制服が見えた瞬間に、私はもう驚く程に落ち着いた心持ちでもって、席を立った。
切符がない。
周囲から乗客が消え失せていた。車両には私ひとりであった。
制服が口を開く。イの音の形に。瞬間私は背後の窓を躊躇なく開いた。土足のままシートを踏み越えて窓枠に足をかけた。
浮遊。去っていく電車が見えた。7両編成だったかとどうでもよいことが浮かんだ。
切符がない。だから私は電車を降りた。

「しかしながら旦那様」
私は毛氈の上にあぐらをかいて、猫が出す茶を眺めた。この茶碗ではない、私の好きなのはということが気にかかって仕方ないが、猫は気がつくようでもなく話し続ける。
「今年は花が来ることもないようで。お庭はこの有様です。どうしてもとおっしゃるので野点のご用意をいたしましたが」
猫の言う通り、毛氈の外の芝は灰色だ。傘の上に広がる桜の枝も灰色だ。猫の点てた茶もまた、灰色だった。
この茶碗ではない、と猫を叱ろうかと口を開いた。猫は気がつくことも無くまた鉄瓶を火にかけた。質の良い鉄瓶だ。すぐにしゅんしゅんと蒸気を吐き出し始める。茶杓ですくった灰色の粉を新しい茶碗に2.5杯きっちりと投じ、湯を注ぎ、茶筅でもってシャカシャカと切るように点てだした。
泡を残し、くるくると正面柄をこちらに向けて、茶碗を置く。
この茶碗でもない。
「花が来ないんでは、味なんて分かりませんとも」
そんなことよりも、茶碗だ。これではない。私の前には既に108の茶碗が並べられている。その全てに同じ分量の茶が注がれてくるくる回っていた。味の問題では無い。大事なのは茶碗なのだと、猫を今度こそ叱りつけてやろうとその場を立った。
「旦那様」
瞬間、猫の目が鈍く光った。
「茶席ではお静かになさいませ」
にたりと猫の口が三日月に歪み、私の意識もまた灰色の茶の回転するようにくるくると回り出した。

手紙を書いた。
いちばん美しいと思ったボトルをこの日のためによけておいた。私は捧げるように厳粛に手紙をボトルにするすると入れ、コルクで栓をし、念入りに蝋で留めた。
裸足の足に波がかかる。灰色の空を写した灰色の海。引いていく波に乗せられてきた海藻が足に引っかかった。
この手紙は必ず届く。私の想いは必ず波に運ばれて目指すところへ辿り着く。祈るように呟いて、沖の方へと歩き出す。ざぶざぶと海をかき分けて、足首までの深さ、膝までの深さ、腰まで、腹まで、胸まで。
首まで。髪まで。踏む度に波が洗う足跡は、108続いて、現れては消えた。
瓶を握りしめた海中の手に魚がぶつかる。裸足の足が蟹を踏んだらしい。くしゃりとパイでも潰したような感触がする。
ところで。
私はいつ瓶を空に向かって投げる予定だっただろう。肺から最後の空気がもれた。

イチョウに雄と雌がある。見極め方は葉の形だと力説する博士を眺めながら、そんなことよりも潰れた銀杏のこのにおいを何とかしてくれ、と顔をしかめた。雄と雌があるも何も、木は2本しかない。そして銀杏が落ちている。事実はそれで充分のはずだ。雄と雌がなければ結実しないのだから。
どうして分かりきったことを頬を紅潮させてまでまくしたてるのか、と考えて、合点がいった。この者は博士では無かった。凡人だった。
それならば仕方ない。凡人とは新しく手に入れた知識を人に自慢げに披露するのが好きなものだから、心ゆくまで演説させてやらねばなるまい。
私は黙って足元のイチョウを拾いだした。イチョウは重ねていくとまるで花束のように丸く綺麗に収まるのだ。ちょうど108枚目の灰色を手元に加えた時に、凡人の演説が終わったようだった。
イチョウも消え、凡人も消え、灰色の花束を握りしめた私が残った。辺りは静まり返っていた。
そうだ。行くべき場所を思い出した。私は花束を握りしめたまま、駅を探して歩き出した。
切符を買うのだ。花束は札束に変わっていた。
切符を買うのだ。行き先は「------」。

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