見出し画像

水戸学の源流? 聖地? 水戸城三の丸の弘道館へ行ってきました

水戸……と漢字で書くと、関東や東北の人は「みと」と読めるかもしれませんが、西日本の方々は歴史好きでもなければ、読めなくても不思議ではありませんね。まぁでも「水戸納豆」や……ちょっと最近の若いもんらぁは知らないようですが「水戸黄門」なども全国区で知られる単語でしょうかね。

わたしはと言えば、歴史好きな上に、茨城県の高校に、自宅から1時間半かけて通っていたこともあり、水戸周辺を出身とする友人が何人かいました。それなのに、今の今まで水戸城へは行ったことがありませんでした。そもそも水戸へ行く機会が、ほとんどありませんでした。

先週末に、そんな水戸城を見に行こうと、息子とともに水戸城へ降り立ちました。ただし、最終目的地は水戸ではなく、水戸は単なる経由地。1時間で駅に戻ってこなくてはならなかったし、歴史には全く興味のない息子を伴っていたため、水戸城全体を見て回ることは諦めました……一人で来られたら、自転車(HellowCycle)を借りて隅々まで見たかったのですけどね……。ということで、駅前にあった水戸城地図を見て、水戸藩の藩校である弘道館を目指すことにしました。

週末の日中なのに、水戸の街には人が少なく……活気のある街だなという印象は、全くありませんでした。あの日のあの時間帯、たまたま駅前を歩く人が少なかったのか……いつもあんな感じなのかは分かりません。とにかくそんな寂しい雰囲気の駅を出て、水戸城を目指すことにしました。

駅舎を出ると、いきなり復元された隅櫓が見えます。こういう駅から、その一角だけでも、城が見られる土地って羨ましいですよね。

そうして歩いていると、すぐ駅前のけっこうな広いエリアを再開発している様子でした。かなり気合の入った工事です。

再開発プロジェクトの名前は「水戸駅前三の丸地区市街地再開発事業区域」です。なんともうここは三の丸とのこと。こういう場所を工事すると、江戸時代の遺物がザクザクと出ているのではないでしょうか? 「なんかないかなぁ」なんて思いながら、鉄橋の上から工事を眺めてみましたが、何も見つけられませんでした。

また看板があったので見てみると、今度は南北が逆になっているため、頭が追いつきませんでした。が、こちらの地図↓だと、城の北側(地図の下の方)に那珂川が流れ、南側(地図の上の方)は現在よりも千波湖が迫っていて、防御力の高い城だったことがうかがえます。

その近くには、また北が上になった地図が……↓ というかなぜ上の↑地図は南を上にしたんですかね? とっても珍しいです。

ということで、銀杏坂という急坂を上っていき「中三の丸」へ向かいます。

息子へは「水戸城へ行く」と言っておいたため、とぼとぼとわたしについてきながら「あのさぁ……城ってどこにあるの……」と聞いてきます。「息子よ、今歩いているココはもう城なのだよ」と、息子が求めている答えではないことを知りつつ、そう言いました。「そういうことじゃなくてさ……あれ……なんて言うんだっけ? 城に建ってるやつ……そこへ行くんでしょ?」と聞いてきます。「それは天守閣ね。残念ながら水戸城には天守閣はないんだよ」と言うと「え……そうなの? じゃあ今、どこに向かってるの?」と言います。「今はとりあえず弘道館っていう昔の学校へ行こうと思っているよ」……なんていう話をしながら歩いていると、現代の学校「水戸市立三の丸小学校」に到着しました。

こういう城の中の小学校って、とても憧れます。こういう郭内にある学校に通いたかったなぁ……。ここが正門なのかは分かりませんが、奉行所の門のようではないですか。息子と柵の前に立って、意味もなく校庭を眺めます。

息子が「広〜〜〜い! (息子が通う)●●小学校の2倍はあるよぉ〜」と大興奮w いきなり元気になりました。でも「2倍どころじゃないでしょ。10倍くらいあるんじゃないか?」……実際、息子が通う小学校は、もしかすると全国でも有数の、生徒数の割に敷地の狭い小学校ではないかと思います。

そして息子は「こんなところで鬼ごっこしたら、ぜったい終わらないじゃん!」と、鬼ごっこをしたそうにしていました。

そして小学校の塀沿いをぐるりと1/4周すると、今度は弘道館が現れました。こうした施設は、あまり入らないのですが……時間もなく、ほかに何があるのかも分からなかったので、入場料を払って見に行きました(その日は小学生が無料の日でした)。

庭を歩く人も他にはなく、とてものんびりと過ごせる場所でした。特に息子は広々とした敷地が気に入ったようで、歩き回っていました。上の写真のとおり、玄関前には立派な桜が植えられていますが、そのほか庭にあるのは、様々な品種の梅です。梅の時期には咲き競うのだろうと思います。

まずは建物の外観を観察してみました。上の写真が、弘道館(正庁)の玄関のようです。建物の大きさに比して、ずっしりと重そうな屋根……鬼瓦などがのっかっています。

全体がドドンッ! という威厳に満ちた設計ですが、特に玄関部分の屋根がドスンッ! という重量感があります。よくこの重そうな屋根部分を今まで支えてきたなぁと思ってしまいます。

玄関にむちゃくちゃ威厳を感じるのは、外から見た、玄関を抜けたところにある広間に「尊攘!」と「!」をつけたくなるような、大きく勢いのある書が掛けられているからです。「覚悟して入ってまいれ!」と、言われているような雰囲気があります。

ただし……この玄関からは中に入れません。その横に設けられた、見学者用の小さな玄関から入ります。そこでは係のおばあさんが出迎えてくれました。

建物に入ってからも、なぜか建物が古臭い感じがしません。よく整備されているからでしょうか。床を歩けばミシミシと軋む音がするかと思えば、それも全く聞こえてきませんでした。

なんだか、こんな歴史ある建物なのに「どうぞぉ〜、どの部屋もご自由にじっくりと見ていってくださいねぇ」という感じで、「立ち入り禁止エリア」がほとんどありません。びっくりするくらいに自由に見られて、自由に写真が撮影できるという、とても素晴らしい場所でした。逆に自由すぎて、息子が何か蹴つまづいて障子を破ったりしないかは、ほんの少し心配でした……まぁ障子を破るくらいなら良いですけど、建具を破損させたらね……さすがに。

やっぱり便所は気になりますよね。というか畳敷きですよ……藩主や元将軍が使うくらいだから、そりゃそうなんですかね。トイレは、写真の大便用と、それに小便用の部屋があり、さらに手洗いがありました。もちろん現在は使用禁止です。その隣には、体を洗うシャワールーム的なところもありました。

第十五代将軍の徳川慶喜さんが謹慎されていた場所とのこと。上野の寛永寺で謹慎した後に、こちらに移られたんでしたっけね? まさにココ! という場所に来られてうれしいです。

いま、大河ドラマで『どうする家康』をやっていますよね……もうすぐ終わりますけど……そのドラマでの家康は、戦いのない世を築こうとしているわけです。性格のひん曲がっているわたしは、いつもなら、同ドラマの石田三成が家康に言い放ったように「なにを綺麗事を言っていやがるんだぁ! そんな世の中は実現するはずがないじゃないか!」なんて思ってしまうところですよ。でも、徳川幕府の開府以来の幕末まで……約250年という長い間、島原の乱や大塩平八郎の乱などの小競り合いはありましたけど、「内乱」と呼ぶような規模の戦いはありませんでした。『どうする家康』を見ながら、2年前の同じく大河ドラマ『青天を衝け』を思い出しながら、徳川家康は本当にものすごい偉業を成し遂げた方だったなぁと思うわけです。

そして十五代の最後の将軍・徳川慶喜さんですよ。色々と言われていますけれども、ほとんど禅譲に近い形で、薩長を中心とする明治の新政府に政権を渡したわけです。徳川慶喜さんは、よくよく偉大な先祖である家康さんに、どうすべきかを問いかけ続けただろうなぁと……そして、その結果が大政奉還だったのだろうなぁとも思えてきます。

わたしは生まれも育ちも関東なので、あの巨大な江戸城に……旗本御家人は頼りないけれども……会津や桑名を始めとする佐幕派を集めて立てこもれば、薩長土肥にも負けなかったのではないかな……なんて、江戸城の石垣を見るたびに、少し悔しい気持ちにもなってしまいますが……

なぜ悔しいかって……その後の、薩長土肥……というか主に薩長が築いた明治の新政府の系譜によって、台湾、朝鮮、清、露、中国への侵攻や戦争が行なわれて、最後は太平洋戦争へとなだれ込まざるを得なくなったわけですよね。徳川幕府が終焉してから、太平洋戦争までは、たったの72年です。その間も、前述のように、他国との戦争が定期的に行なわれたわけです。もちろん……あの時には仕方がなかったのだ……と言われればそうかもしれませんけど、そもそも「やらなくても良かった」、二本松や長岡、会津などでの戊辰戦争を強行した薩長は、何かと戦わないといけない体質だったのでは? なんてことも思ってしまいます。

そして、そうした薩長の狂気とも言える精神性の源流が……水戸藩であり、この弘道館であったかもしれないというのも、また歴史の面白さですよねw

「水戸黄門」で知られる、第二代藩主の徳川光圀の時代……明暦三年(1657年)から編纂し始めて、なんと明治三十九年(1906年)にやっと完成したという歴史書が、『大日本史』です。この書が作られていくなかで、水戸藩に「尊王」と「攘夷」という極右的な思想……いわゆる「水戸学」が醸造されていったわけです(いちおう諸説あると思います)。

如雲=武田耕雲斎


そして水戸学を学びに、水戸へ留学した長州藩の思想家が、吉田松陰さん。水戸藩と、長州や薩摩藩は、とても思想的な相性の良い藩だったわけです。その証左と言えるのが、幕末水戸藩の多くの人たちが、靖国神社に祀られていることです。ちなみに、靖国神社は明治維新以降に、日本のために亡くなった殉死者を祀るために建てられました(招魂社)。ただし戊辰戦争時の奥羽越列藩同盟の諸藩の戦死者はもちろん、西南戦争で西郷隆盛さん側にいた戦死者も、靖国神社には祀られていません。なぜなら「賊軍=朝敵」だったからです。

とはいえ、そうした激烈な思想家たちが、明治の新政府を牽引したからこそ、欧米列強に取り囲まれる中で、アジアの中で唯一の大国へとのし上がっていけたのかもしれません……別に薩長政権が興らなくても、大国になれたかもしれないとか、もっと平和な国になっていたかもしれないと考えるのは、タラレバなので、なんとも言えませんけどね。

この「正庁」の前の空き地は、「対試場」と言って武術の試験が行なわれた場所だそうです

また息子と「外を一周してみようかぁ」と散歩してみました。弘道館の全図を見ていたら、先ほど寄った三の丸小学校も、弘道館の一部(武館)だったことを知りました。かなり広大な敷地を城内に構えていたようです。

現在、いわゆる「弘道館」と一般に呼ばれているのは、「正庁」と「至善堂」の2つの建物です。いずれも重要文化財で、廊下によって繋がっています。上と下の写真が、その「至善堂」……徳川慶喜さんが謹慎されていた「御座の間」がある場所です。

と……至善堂の裏側を歩いていたら、弘道館の裏口がありました。その裏口を出たところも昔は「弘道館」だった場所です。ちょうど裏手には、孔子廟が……って、ここは復元された立派な建物があるのですが、なぜか久しく公開されていないような雰囲気でした。わざわざ復元したのに公開しないっていうのも、不思議な感じです。

そして鹿島神社とセットになっている八卦堂です。中には、建学精神が刻まれた「弘道館記碑」が立っているそうですが……のぞき穴から覗いてみても、中は真っ暗で何もみえませんでした。

その碑の拓本は、先ほどの「弘道館の正庁」の中に掛けてありました。

ということで、水戸城三の丸を後にして、次なる目的地へ行くために、水戸東照宮の近くにあるレンタカー屋さんへ急ぎました。実は、ここからが旅の本番だったのです。その話は、また別の機会にnoteしたいと思います。

<参考サイト>
水戸城全図

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?