全員が同意する「客観的な世界」は存在しない『なぜ世界はそう見えるのか』試し読み
9月5日刊行予定『なぜ世界はそう見えるのか 主観と知覚の科学』の試し読みをお届けします。
友人と一緒だと、坂の勾配がゆるやかに見える。
糖分を摂取すると、物までの距離を短く見積もる。
嫌悪感を抱きやすいと、政治的に保守になりやすい。……
見る人によってはもちろん、同じ人でもその時々で、世界の見え方や物事に対する考え方は大きく違ってきます。
たとえば、ホームランを打ったプロ野球選手は「球がグレープフルーツみたいに大きく見えた」と言ったり、お年寄りが「坂が壁のように見えた」と言ったりするのを耳にしたことはありませんか?
似たような例は挙げればきりがありません。しかしなぜ、こんなことが起きるのでしょうか?
その謎に心理学・科学的に迫ったのが本書です。さらに、個人の主観にとどまらず、社会や人類への影響までも俯瞰する奥深い本書から「はじめに」をお届けします。
はじめに おれは電熱の肉体を歌う
長続きする恋愛の楽しさを味わったことのある人は、パートナーに、その人にしかないすてきな匂いがあることにお気づきかもしれない。ここでは仮に、あなたのパートナーを「スウィーティー」と呼ぶことにしよう。スウィーティーのいるあたりや、スウィーティーが着たシャツからは、ほかの人とは異なるあらがいがたい魅惑の香りがただよってくる。キスが楽しいのは、一つにはスウィーティーの匂いがほのかに香るからだ。体臭は指紋と同じく、その人固有のものであることがわかっている。まったく同じ体臭の人は二人といない。数十人が行き来した大地を嗅いだブラッドハウンドがスウィーティーを追跡できるのも、そのためである。スウィーティーの匂いを固有のものにしているのは、免疫システムをコードする巨大な遺伝子群、主要組織適合遺伝子複合体(MHC)だ。ヒトのMHCは極めて多様性に富んでおり、個々の複合体はこの世に一つしか存在しない。汗には、食品などから摂取した多くの化学物質とともに、MHCタンパク質も含まれている。恋愛においては、スウィーティーのMHCタンパク質が放つ匂いは重要なメッセージの担い手だ。スウィーティーが配偶者として適切かどうか、子作りの相手にふさわしいかどうかを、体臭が知らせているのである。
スイスの動物学者クラウス・ヴェーデキント率いる研究で、女性はMHCが自分と最も異なる男性の体臭を好ましく魅力的と感じることがわかった 。これは進化における適応がはたらいている例である。自分と同じような免疫システムを持つ相手と結婚すると、問題のある潜性形質(劣性形質)が発現する危険性が高まる。古来近親婚がタブーとされているのも、ファラオからハプスブルク家に至るまで、王家・王室の近親交配によってしばしば発達に問題のある子女が生まれたのも、近親婚で有害な潜性形質の発現する危険性が高まるからにほかならない。「純血」にこだわったために、かえって意図せぬリスクが生じたのだ。ゆえに、進化は別の道を進めと説く。最も異なる免疫システムを備えた相手に惹かれるメリットは、繁殖適応度が高いことだ。健康な子が生まれる確率が高まるのである。
だがこのような体臭の受け取り方は、個々人の主観によるところが大きい。スウィーティーの芳しい香りは、スウィーティーと付き合うあなた個人にとっては繁殖適応のサインだ。だが異なるMHCを持つほかの人にとっては、スウィーティーの体臭は嗅覚が喜ぶ匂いではないかもしれない。それに、あなたはブラッドハウンドではない。いくらブラッドハウンドがスウィーティーの匂いを正確に嗅ぎ分けられるからといって、繁殖成功が見込める匂いを嗅いだときに生じるヒトの感情的反応と同じような反応を、ブラッドハウンドが示すことは考えにくい。知覚されたヒトの体臭というものは、芳香と悪臭に二分できるような客観的な領域ではない。むしろあなたは、自己の免疫システムと同じようにこの世に一つしかない、「匂いの社会的世界」を感じ取っているのである。スウィーティーの匂いが芳しいのは、あなたとスウィーティー双方の遺伝的特徴による。その遺伝的特徴が、「お互いをもっとよく知ろう。私たちは似合いのカップルだ」と言っているのである。こうして匂いは、絆の、協働の、愛のシグナルとなり、それらを推進する力となる。だが社会的知覚の多くがそうであるように、匂いは嫌悪感や他者化、ひどいときには憎悪の媒体ともなりうる。初めて日本を訪れた西洋人には動物性脂肪に偏った食生活のために強い体臭があったが、日本人はそれを、バターを連想させる不快な悪臭と感じた。「バタ臭い」はその後、「西洋風」を意味する軽蔑的な単語となり、今日に至るまで日本語の語彙として生き残っている 。
人間は自ら発達させた社会生態環境にどっぷり浸かって生きており、そのために私たちの知覚も、生まれ育った文化環境で成長するなかで形作られていく。私たちは肌の色が異なる人々をどうしても「他の人種」と感じてしまうが、そのバイアスが出現するのは、まだ話もできない赤ん坊の頃である。民族的に均質な環境で育てられた生後三か月の乳児は、異なる民族よりも自分と同じ民族の人々を見るのを好むが、より多様性に富んだ社会環境で育てられた乳児では、その傾向はそれほど目立たない。生後五か月になると乳児は母語を話す人を好んで見るようになり、もう少し大きくなると、母語を話す人からのおもちゃをよりすばやく受け取る。三歳から五歳になる頃には、母語を話す子を友人として選好するようになる。
こうした発達上の偏り(バイアス)が原因で起きるのが、「他人種効果」だ。異なる民族に属する人の顔は想起や識別がしづらいという、広く研究されているパターンである。まるで社会的カテゴリーが知覚と記憶力に不透明なフィルターをかけてでもいるかのように、社会的知覚が狭まるらしいのだ。イギリスの乳児を対象とした実験では、生後三か月の白人の乳児は黒人、白人、アラブ人、中国人を同じように判別できたが、同じ乳児が生後九か月になると白人の顔しか判別できなくなっていた 。同じ傾向が中国人の乳児にも見られたという 。「あんたたちはみんな同じ顔をしている」という、昔から言い習わされてきたが、いまでは社会的に受け入れがたいフレーズは、ここから生まれたのだ。もし本当に人生経験によって社会的知覚が狭められてしまうのであれば、異なる社会集団に属する人々のことを、成人が自分の属する集団と同じように豊かに知覚することはない。そこに、異なる背景を持つ人々を個人として見る代わりに、異なる社会的カテゴリーの構成員としてしか見られなくなるおそれが生じる。その先にあるのが、「あんたたちはみんな同じだ」だ。本書でこのあと明らかにしていくが、こうした「没個性化」――人を個人としてではなく、単なる集団の構成員として見ること――の行き着く先が、「あんたたちはみんな同じ顔をしている」という感じ方なのである。人を白人か黒人か、リベラルか保守か、ベビーブーマーかミレニアル世代かで分けるようになるのだ。
ステレオタイプに基づく没個性化が、「人種は不変である」という文化的な思いこみと結びつくと、人種的偏見が生まれる。文化から受け取った「あいつらはこうだ」という思いこみに則り、人々を自動的に分類するようになるのである。スタンフォード大学の心理学者ジェニファー・エバーハートは、知覚が人種的ステレオタイプに影響を受けることを実証してみせた。黒人の顔のスライドショーでプライミング(方向付け)された白人大学生は、白人の顔写真を見せられた学生よりもすばやく、武器や犯罪関連物品の映像を認識した 。一面のホワイトノイズから徐々にナイフや銃の輪郭が浮かび上がってくる実験を行ったところ、黒人の顔写真を見た大学生のほうが、こうした武器をすばやく判別したのである。これはじつに居心地の悪い話だ。高い教育を受けた柔軟な考え方の人であっても、個人的な来歴によって、つねにバイアスのかかった世界を経験していることを意味するからである。
このバイアスがどこよりも如実に表れたのが、二十一世紀初頭の政治情勢だろう。世界各地で政治の分極化が日常茶飯と化したが、なかでも際立ったのがアメリカだ。一部の人の目にはアメリカの価値観を見事に体現すると思える政治家が、ほかの人にとっては最悪の無知の化身と映る現象が起きた。同じ社会に暮らす分別のある人々のあいだでこれほどの意見の不一致が生じるとは、いったいどういうことなのか。その答えは、個人の来歴の違いに潜んでいると筆者は考える。対極の政治思想を持つ人々は、同じ社会的事象が起きている同一の物理的世界に暮らしているように見えて、じつはそれぞれ天と地ほどにかけ離れた主観的経験をくぐっているのである。このあと詳しく見ていくが、ここで言うのは、人間が自ら築いた社会的世界に生きているということばかりではない。坂の傾斜やグラスの大きさに至るまで、人間が知覚するものはすべて、私たち個人がどのような人間かに左右されるのである。
そもそもの始めから、科学とは客観的真実を追究するものだった。事実そうあってしかるべきなのだが、その裏では長らく、ほそぼそと主観的経験の研究が続けられてきた。筆者が本書の執筆において採用したアプローチは、その大半を、一八六四年に生まれ一九四四年に逝去したバルト・ドイツ人生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルに負っている。発音しにくい姓以外には現代ではほとんど知られていない歴史上の人物だが、本書のテーマを占めるキーコンセプトを考えついたのが彼だ。ユクスキュルは、異なる種がどのように同じ物理的世界を経験しているのかに関心を持っていた。ドイツ語は繊細な語義の違いで異なる単語を使い分ける言語として有名だが、ユクスキュルにとってはそれが幸いした。ユクスキュルは客観的な物理的環境である「環境(ウンゲブンク)」と、それぞれの動物種がその場で経験する世界「環世界(ウンヴェルト)」とを区別して考えた。たとえば筆者の一人デニー・プロフィットと飼い犬のルルが同じ原っぱを散歩していたとしても、ルルにしてみれば、デニーは面白い匂いの大半を嗅ぎ損ねているのかもしれない。あなたが経験しているのは環世界(ウンヴェルト)である。あなたが草を反芻する牛であるか、花粉を運ぶミツバチであるか、花を摘んでいる子どもであるかによって、同じ野の花も異なる意味を持つ。科学は客観的な環境(ウンゲブンク)に関心を持つ傾向があり、そのために相対主義的な視点を持つ生態学的心理学はこれまでさほど注目されてこなかった。だが科学的方法自体が、主観的経験の研究を除外したり、知覚にまつわる一貫性のある有用な真実の発見を妨げているわけではない。真実に至る道は、まずは非常に基本的な問いを投げかけるところから始まる。
あなたは特定の動物、たとえば鳥であることはどんな感じかを理解しようとしているとする。おそらくあなたは、こう推論するだろう。鳥の身体的特徴と、そうした身体でとりうる行動から判断すると、鳥の精神生活は、主に空を飛ぶことと、飛ぶ暮らしで生じるさまざまな問題に関係しているはずだ――と。ある特定の動物であるのがどんな感じか理解したいというとき、私たちは大概こう問いかける。「これはどんな種類の動物なのか。身体はどうなっているのか。その身体で、どんなことをするのだろう」こうした問いかけが、特定の動物の環世界(ウンヴェルト)その動物自身が住んでいる世界――を理解する際の、まぎれもない出発点となるのである。
ひるがえって、人間の環世界(ウンヴェルト)についてはどうだろう。種としてのヒトはどのような経験世界に住み、その世界は個々人によってどのように異なるのか。現代の心理学では、この問いの生態学的な側面は概して見過ごされてきた。理由の一端は、人間であるのがどういうことかはだれでもわかっているはずだという、私たちのナイーブな思いこみにある。だが残念ながら人間は自らの経験を正しく見定めているとは言えず、自分たちは客観的な世界を経験しているのだという私たちの確信は単なる共通感覚(コモンセンス)にすぎない。社会科学者と哲学者の言う、ナイーブリアリズムだ。見て、嗅いで、聞いて、触れるものを額面通りに受け取ってしまう態度のことである 。人間は個人的な心的経験を物理的世界に投影しており、じつは自らの心的経験であるものを物理的世界であると思い違えている。感覚システム、個人的な来歴、目標、期待などが合わさって知覚を形作っていることに気づいていないのだ。たとえば、あなたは芸術作品に客観的な寸評を加えるつもりで「あの映画はよかった」と言うかもしれないが、実際にはその芸術作品を自分がどう知覚したかを述べているのであるから、「あの映画は気に入った」と言うほうが正確だろう。素朴な直観は「私たちは世界をありのままに見ている」とあなたに告げるかもしれないが、実際にはそうではない。私たちはヒトの環世界(ウンヴェルト)を見ているのである。さらに言えば、個々の人間がみな異なる以上、だれもが微妙に異なる環世界(ウンヴェルト)を持っている。私たちはみな、それぞれの『ガリバー旅行記』の世界に生きているのだ。目にする物や人の大きさや形は、自分の身体の大きさや、自分が周りの環境と相互作用する能力に応じて、伸び縮みしているのである。私たちが経験する世界は、人間がどのように世界に適応しているかを教えてくれる。スウィーティーの芳しい体臭は、こう言っているのだ。「どうか愛してください。私たちはぴったりフィットするカップルだから」と。
私たちはだれもが同じ世界を経験しているはずだという共通の思いこみのもとに日常生活を送っているが、知覚研究でわかるのは、経験的現実――見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わう世界――は人それぞれに固有のものだということだ。バスケットゴールが三〇五センチメートルの高さだという事実は、あなたの身長が一四〇センチか二二三センチであるかによって、非常に異なる意味を帯びてくる。その好例が、デニーの元指導院生で、現コロラド州立大学教授のジェシカ(“ジェシー”)・ウィットが行った研究だ 。ジェシーはシャーロッツビルのソフトボール場に行き、試合終了後の選手に実験への協力を要請した。異なるサイズの円が並んだ大きな厚紙を掲げ、ソフトボールと同じサイズの円を指差すよう頼んだのである。さらに選手には、いま終えたばかりの試合での安打数と打数も報告してもらった。協力の代償は、スポーツドリンク一本である。実験の結果、打率――安打数を打数で割ったもの――が高い選手ほど、ボールのサイズを大きく申告していたことがわかった。ソフトボールの知覚サイズが、そのバッターがボールを打てたかどうかの成功率に影響されていたのである。この実験結果は、特大ホームランを打ったあとに、「どうしてかはよくわからない。でも、ボールがグレープフルーツみたいに大きく見えたんだ」と語ったミッキー・マントルの経験談を裏付けている 。同様に、ボストン・レッドソックスで活躍したジョージ・スコットも、「打てているときは、ボールがグレープフルーツみたいな大きさで向かってくる。でも打てないときは、黒目豆みたいに見えるんだ」と語っている 。デニーや共同研究者、また他の研究者の実験でも、パットがうまいゴルファーはホールカップのサイズを実際より大きく見ていること 、成績のいいアメリカンフットボールのプレースキッカーの目はゴールポストの間隔を広く、クロスバーの高さを低くとらえていること 、成績のいいアーチェリー選手には的の中心が大きく見え、それはダーツプレイヤーでも同様なことがわかっている 。肥満の人や疲れている人は、やせている人や休息をとった人よりも、対象物までの距離を長く感じる 。優れた水泳選手およびフィンを付けた人は、水中の距離を短く見積もる 。物に手を伸ばすとき、道具――スーパーマーケットで見かける、最上段の棚に置かれたシリアルの箱を取るためのマジックハンドなど――を手にしていると、距離の目算が短くなる 。車を運転してきた人は、歩いてきた人よりも、移動距離を短く感じる 。
他の動物の調査を開始するときには自然と浮かぶような問いを、人間を調べる心理学者はめったに問いかけない。われわれの目の前にいるのは、どのような動物なのか。どのような身体を持ち、その身体によってどのような行動が可能なのか。私たちはそうした問いから乖離した、肉体のない脳の時代に生きている。筆者の一人でデジタル・ジャーナリズムに長く身を置くドレイクが身にしみて実感していることだが、トップ記事を狙うサイエンスライターは、記事の中で、新しい手法や技術で「あなたの脳は変わる」と主張するだけでいい(新たな経験となるものは、どれも脳を変化させるに決まっているのだが)。いまや刑事裁判の証拠にCTスキャンが使われる時代である 。「神経(ニューロ)―」という接頭辞が濫用され、ライフサイエンス以外の文脈で使われるようになって久しい。脳神経倫理学(ニューロエシックス)、神経経済学(ニューエコノミクス)、ニューロマーケティングといった分野で働くことも可能だ。神経哲学者(ニューロフィロソファー)にとっての自己とは、予想に違わず脳である。認知科学者にとっての脳は、抽象的な記号計算を行うコンピュータだ。いずれの分野においても、身体は、脳をこなたから彼方へ移動させる手段ではあるかもしれないが、重要なものとはみなされていない。だが現代の知覚研究の一端が明らかにしたように、人間が考え、感じ、存在するありようは、否応なく肉体によって方向付けられるのである。身体と脳は不可分に混ざり合っているというこの事実を、探究すると同時に広く世に知らしめんとするのが、本書である。身体とは何か――身体に何ができ、何が必要で、何を避けるべきなのか――を知ることで、より深く自分自身を知り、人生を理解できるようになる。そのためにはまず、脳を身体の中に戻さねばならない。ウォルト・ホイットマンは一八五二年、最もよく知られた詩「おれは電熱の肉体を歌う」を書いた。この詩の中核には、人間の身体それ自体が一編の詩であるというイメージがある。歩き、笑い、つかむ――そこにあるのは肉体として立ち現れる詩だ。ホイットマンの言う電熱とは、生きるという体験そのものである。生気あふれ、生々しい、鮮やかな生命。気高く、血気盛んな、身体のうちにある生命である。本書はここから、電熱の肉体の科学を探索していく。はたして私たちはどのような身体を持っているのだろう? その身体が人間の行動や知識をどのように形作り、私たちはどのように他者とつながっているのだろうか。
(「はじめに」おわり)
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著者・訳者紹介
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