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私、宮﨑晴美について【自己紹介】

この投稿では私について、つれづれなるままに綴ってみます
まずは「好きなモノ」はその人っぽさが出るのでは?との想いから、好きなモノをつづることから。

好きなモノ

・大好きな人たちとご飯を食べるコト
・大好きな人たちをお酒を飲むコト(新潟出身なので、割と飲める方なのだが、最近は翌日の後悔も多い)
・旅行について考えるコト(計画が好き)
・旅行に行くコト(どうしても海に惹かれがちだが、サクラダファミリアは見に行きたい)
・美味しいものを食べるコト(毎日じゃなければ作ることも好きかもしれない)
・人と会うコト、話すコト
・頭を刺激する会話をするコト
・新しいものを知るコト(ただし、苦手分野は頭を通り抜けていく)
・本を読むコト(最近はビジネス書ばかりを読みがち)
・たまに書くコト(本当はもっと書きたい!)
・自分の過去データから共通点を探り出すコト
・洋服を見るコト、もちろん見るだけでなく買うコト
・空を見るコト
・大きな深呼吸をするコト
・花を飾るコト
・寝るコト
・野球を見るコト

幼少期(0歳〜19歳まで@新潟県)

2人姉妹の次女で、姉がかなりしっかりしていたため、お気楽に育つ。イメージはちびまる子ちゃんのまる子みたいな感じ。小さい頃から負けず嫌いだったことは確か。マラソン大会の時に、途中で靴が脱げて、戻ったら遅れると、片方は靴下で走ったのだけど、なぜその時止まって靴を履かなかったのか、永遠の謎。片足でゴールした私を見て、先生はびっくりしたに違いない。しかし、2位でゴールした記憶。小5頃から、プロ野球にハマりはじめ、テレビ見ながらボックスティッシュの箱を後ろにして、メガホン叩いて応援していた記憶。隣では父が今はない2Lとか、3Lとかの、注ぐとトクトクなるビールを飲んでいた(昭和)。ジャイアンツのクロマティーにファンレターを「日本語で」送る。

中学はソフトボール部。一つ上の学年が強かったため、自分たちの学年はあっさりと引退。3番ファースト。

高校はテニス部に入ったものの、なぜか2年でやめる。英語が得意なわけではなかったが、得意になりたいと思っていたため、外国語を使って働きたいとの思いから、外大目指したいなと考えるようになる。最初に目指したのは東京外大。ただ、見学に行った時、旧外大校舎の古さと、お墓の近くにあったのが印象的すぎて、その後見学した上智大の綺麗さ&都会さに惹かれる。一浪したけど落ちたため、津田塾大に進学。ここを選んだ理由は国際関係学が学べるけど、教員免許英語が取得できるから(親に教員免許を取って欲しいと言われていたが、社会科で取るのはなぜかピンとこなかった)

大学〜社会人期(19歳〜32歳)

大学では私立中・高(特に女子校)あがりの人が多かったため、そこで初めて層が違う家庭環境があるんだなと知る。そして、東京に出てきて、ここには「文化」があると感動する。国際関係学部だったからか、アジア・途上国について学ぶ人も多く、NPOボランティアをする人も多かったが、なんだかピンとこず。

大学時代に、情報を提供する側に行きたいと思い、メディアを志す。超氷河期に就職活動をし、「海外行きたいです!」と言って無印良品に内定をもらうものの、メディアへの想いが断ち切れず、インターンからブルームバーグテレビジョンに就職。ただ実際入社してみて、新卒という時期に研修やOJTがあまり整わない外資系にいていいのかと悩み、各企業にポジションがあり、かつ女性が活躍できそうな広報・PRという業界を志し、PR会社に転職。ここでPRと出会う。面接で言った志望動機は、「ずっと不況不況と言われているけれども、日本企業を元気にしたい。それができるのがPRだと思う」ということ。面接官がウンウンと頷いてくれたのを覚えている。低用量ピルを販売する製薬会社4社の合同プロジェクトや、宮崎シーガイアの再生プロジェクトなど、社内でもかなり大きなプロジェクトをいくつか担当させてもらう。

途中、3ヶ月ほど休職し、サンフランシスコへのNPOインターンシッププログラムに参加。当時、NHKスペシャルで元大統領広報官がナイキの広報を担当しているのを見たこと、そして当時のナイキはスウェットショップ問題(委託する東南アジアの工場で強制労働・児童労働・低賃金労働などが暴露され、こうした工場と取引するナイキに対する不買運動などが起きた)を抱えていたことから、企業の広報は今後、人道・倫理的な問題に対応していく必要があると考え、企業を監視する側のNPOにインターンとしていく。このインターンシッププログラムにはいくつかの研修がセットでついており、ここで初めてSocial Entrepreneur(社会起業家)という言葉を知り、私がやりたいことはこれだと考えるようになる。

最後の数年は、かなり働いていた記憶。PRアワードを受賞するなど、仕事的には好調だったが、いつのまにか、6年ほど付き合っていた彼と別れる。ここで「仕事だけしてても幸せではない」ことに気づき、プライベートと仕事をどう両立すればいいのか、が人生でものすごく重要なテーマとなる。

友人の友人に誘われ、ブライダル企業に転職。広報のマネージャーを務める。数年経ち、結婚&出産。育休を取得。

育休〜ワーママ・フリーランス期(33歳〜)

33歳で第一子を出産。1年4ヶ月ほど育休を取得。たまたま、近所に認証保育園ができたことで、保育園に子どもを入れることができる。復職。ここから数年が働くことと子育てに一番悩んでいた時期。何度も「私のやりたいこと」をノートに綴っていた記憶。

ここで、30代は働くと子育ての両立を確立する時期にしよう、40代はまた再度アクセルを踏む、と決意

ちょうど、ハワイに新しい施設がオープンする頃だったため、子どもを新潟の両親のところに預け、ハワイ出張に何度か行く。ただ、夫も商社勤務で海外出張が多かったため、この生活を子どもが小学生になっても続けることは難しいと、働き方の変更を考え始める。この時読んでいた本は、ちきりんさんの「未来の働き方を考えよう」とリンダ・グラットンさんの「ワークシフト」。最後の決め手は、夫が「家族に一人会社員がいれば、もう一人はもっと気楽に、自分の道を創ってもいいのではないか」という一言。第二子を産んでから会社員を辞めた方がいいのでは?と思ったこともあったが、いつ妊娠するかなんて誰にもわからないため、退職を決意。

退職予定日くらいに、次男の妊娠が発覚。退職してから、広報や記事制作のライティングなどの仕事を頂き、順調に仕事を増やすことができてきた時に、妊娠高血圧症で入院。出産まで、一切の仕事を止めなさいと医師に言われる。

出産後、PRのサポートやライティングなどのお仕事をさせてもらい、その後LAXICというワーキングマザー向けメディアの立ち上げ&編集長を担う。この編集&ライティングという業務は、広報にかなり活かすことができ、今後はより一層重要になると考えていた。その後、LAXICの編集を引き継いだ後も、企業のオウンドメディアの編集、スタートアップ企業の広報サポート、採用オウンドメディアなどの編集を担う。

会社立ち上げ期(42歳〜)

2019年にフリーランス歴7年を経て会社を設立。設立した理由は、広報を一人でなく、チームでサポートしたいと思ったから。

会社設立してからは、企業の広報機能の立ち上げ&サポート(広報機能がないスタートアップ企業・一人広報の企業の方などは、戦略構築・実施も含めてかなりお役に立てると思います)、オウンドメディア編集など、幅広くご支援させて頂いています!

現在3期目。これからは、仲間をもっと増やす、組織を大きくする、ミッションをさらに強固にする時期にしたい!教育・地域創生にも関わりたいです。

下記はいつも出している通常プロフィール

宮﨑晴美(みやざきはるみ)/STORIES(ストーリーズ株式会社)代表取締役・PRディレクター

広報業務従事歴20年!新潟県上越市出身。男児2児母。

津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業後、外資系テレビ局であるブルームバーグテレビジョン入社。その後、国内大手PR会社であるプラップジャパンにて、宮崎県シーガイアの再生プロジェクト、製薬会社4社合同プロジェクト、IT企業の教育プロジェクトなどを担当。食品素材のプロジェクトでは、食物繊維を「ファイバーデトックス」として訴求し、日本PR協会のPRアワード受賞。

その後、就職人気ランキング常連のTAKAMI BRIDALに転職し、広報・販促部門の管理職を経験。ハワイのブライダル・レストラン施設のオープニング広報活動に携わる。

妊娠・出産を経て、2013年よりフリーランスに。ワーキングマザー向けサイト LAXIC(ラシク)編集長としてサイトの立ち上げと共に、各企業の広報業務のサポートを経験。

2019年、フリーランス歴7年を経て、「広報・PRを経営戦略に」をコンセプトに、STORIES株式会社(ストーリーズ)設立。代表取締役を務める。スタートアップから東証1部上場企業まで、幅広い企業の広報戦略立案・オウンドメディア構築・広報サポートを実行。

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