わたしたちは闇より光をおそれる


わたしたちがもっとも恐れているのは自分の無力さではない。自分の並外れたパワーだ。わたしたちが怯えるのは自分の闇ではなく、光だ。(略)自分の光を輝かせるとき、わたしたちは知らず知らずのうちに人にもそうするように許可を与えている」(マリアン・ウィリアムソン)


昨年末から、瞑想を積極的に行っています。
とはいえ、長時間の瞑想には、かなりの身体的苦痛が伴い・・
私はいまのところ30分程度で背中や脚がつらくなって集中が途切れるので、せめて1時間くらいは続けられるようになりたいなと思っています。

なぜかずっと、瞑想をしていることを、人に知られたくない、という気持ちがありました。家族に見られたら怪しまれる、という不安もあったし。
まるで、混んでいる乗り物で席を譲る時や、公共の場所でゴミ拾いをするような、気恥ずかしい感覚もありました。

でもここへきて、自分がやってることは恥ずかしいことでもなんでもない、堂々とやればいいんだ、という風に思えるようになってきました。
昔から、自分のダメなところを見つけ、それを嘆いたりごまかしたりすることには慣れていても、反対に、良い芽を見つけると、急にドキドキしてしまう癖があるようです。

「能ある鷹はツメ隠せ」なんてことわざもあるし。
人は、他より抜きん出ているところを隠さないと安全に生きられない、と思っているのかもしれない。
うぬぼれている、と思われたくないのかもしれない。
ヘタに期待値をあげてしまうのがこわいのかもしれない。
でも、一番は、自分の本当の力に気づきたくないんだと思う。

自分の本来のポテンシャル。
夢見てきたことを、叶える力。
そこに気づくと、もう後戻りはできなくなる。
そうなるのが、怖い。

冒頭に書いた言葉の前半は、わたしたちが恐れや不安から、光よりも闇と親しくなろうとする性質を言い表しています。

後半は、”もし光をおそれずに、解放したら、その光は自分以外の人を自動的に自由にする” とも。

たとえば、こんな光景を想像してみます。
幼稚園でこどもが黙ったまま食事をしている。
「食事中は喋ってはいけない」と教えられているから。
もしそこに、ひとりの大人が入って、一緒に食事をしながら楽しくおしゃべりをしたら?幼稚園児たちは、みな我先にしゃべり、笑い、楽しみながら食事を終えるんじゃないでしょうか。

わたしたちは無意識に、自分のできることをセーブして、なにかバランスをとっているようなつもりでいる。でも、それって意味あるの?出せる時に出さないと、力って出なくなるものじゃない?ちょうど、生物の進化や退化のように。

結局、最後は同じ「死」というところに辿り着くのであれば、
全力で泳ぎきっても、のんびりと流されていても、おんなじ。

魚として生まれれば泳げばいいし、鳥として生まれたら飛べばいい。
ただ、翼をもっているのに、一度も飛ばずに終わるのは、もったいない。
そして、1羽が飛んだら、他の個体も「飛べる」ということに気づく。
そういうことなのかな、と思います。


ボサツ妻の他力本願、というPodcastをやっています



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