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足跡日記👣§26 「生業:社会人」 1ヶ月を経て

 肩書を社会人に変えてから、1ヶ月が過ぎた。思い返せば、この1ヶ月は野分のように早く過ぎ去り、跳ね馬のように猛烈に、ぼくを揺さぶらせた。未だ咀嚼し切れていない頭を使って、この1ヶ月の所感を記していきたいと思う。

 まず率直にはっとしたのは、このnoteを書くことが容易ではなくなっていることだ。記す言葉が吃る。抒情的かつふくよかな表現は、ビジネスライティングに一切関係ない、延いては忌避されるものだからだろう。ビジネスでは一文を1. 簡潔に 2. 簡単な言葉で 3. 相手に意図が必ず伝わるように書くことが必須である。言葉で遊ぶことができないのだ。そのことにぼくは、noteを書いている今は殺伐として興醒めな気配を覚えるが、あたら齷齪と働いている間は、それを何とも思っていなかった。

 さて、ぼくはこれまで、気候危機を中心に多様な活動を企画、提言、あるいは参加してきたが、一介の社会人として身を置くと、いきおい社会人が社会運動に参加する気力は残っていないことに気づく。それどころか、情報収集も専ら経済や所属する業種または顧客の界隈に限られるし、街頭で雄弁を揮うアクティビストにも耳を攲てようとしない理由も分かっている。しかるに、自分の足元のみを視て視野が狭まってしまっているのだ。傍から見れば道往く人はほとんど、前傾姿勢でスマホに注視しているが、それは表象的にスマホを視ているだけではない。(ぼくを含む)彼らが受信する情報はスマホが映す情報のみで、外界の夥しい情報を全てシャットアウトしている。自分がこれから歩む将来についても眼中にない。いわば盲目的に、短期的な興味や課題に駆られている。スマホに目を凝らす現代の”社会人”は、社会の魔力を顕在化するセルフメタファーのような存在である。

 加えてぼくは、上は高層ビル、下はコンクリート、首を回らしても目に映るは人と建物である都会に、悄然としている。つくづく、土が恋しいなぁ、鳥の調べを耳で楽しみたいなぁ、颯爽と戦ぐ風に浸りたいなぁと感じる。それほどまでに自然と隔てられた世界に愕然としつつ、自分を圧し曲げるビジネス社会の力に抗いながら、本意無くも、一抹の安心感を抱きつつある。

 最後に、ぼくの今の心境を如実に著した、宮澤賢治の『春と修羅』の一説を記して筆を擱きたいと思う。

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの詔曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

宮澤賢治『春と修羅』より

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