レイニーナイト(オンザプラネット)
仕事をするのは雨の日と決めている。
街灯の光が届かない暗闇で、男は初めは透明だったはずの汚れたレインコートを脱ぎ、汚れた部分が内側になるように手早く丸める。
そして足元の大きなビニール袋の中に無造作に突っ込んだ。
ビニール袋の中にはすでに先客が居て、レインコートはそれを柔らかく包むようにビニール袋の隙間を埋めた。
男は手早く袋の口を縛った。
電話をかけ、短く、
「頼む」
とだけ言い、電話の向こうから2分でそちらに着くという旨の返答をもらって切る。
そうしてから男はゆっくりと眼鏡を外した。
仕事をするときは眼鏡をかけると決めている。
誰かに顔を見られても、「眼鏡をかけていた」という部分が一番印象に残る可能性が高く、他の特徴には気づかれにくい。
雨の日ならばレインコート姿でも奇異には思われない。
男はそのままその場を離れた。
自分の仕事は殺すところまで。
死体を運ぶのは別の人間で、それを処理するのもまた別の人間。
細かく分業化された、仕事の一部を担うだけのこと。
自分は歯車の一つに過ぎない。
その日は曇りの木曜日だった。
男は小さなカフェで本を読んでいた。
ドアが開き、新しい客が入ってくる。
男は本から目を上げずとも、気配だけで目的の人物だとわかり、マグカップの冷めたコーヒーをゆっくりと口に運ぶ。
そうしてからやっと顔を上げた。
店の奥のテーブルに彼女はいた。
常連客らしく、笑顔でウェイターに注文をしている。
彼女のテーブルには本が置かれていた。
カフェで頼むものはカプチーノ。
木曜日は「フラニーとゾーイー」。
標的となる人物を知らされると、彼は一週間かけて相手のことを知ろうと努める。
大体の行動パターンを掴み、仕事をしやすくするためなのだが、
「自分が殺す相手がどういう人間なのか知りたい」
という、単なる興味もその理由になっていた。
今回の相手は若い女だった。
肩にかかるくらいの黒髪。
長い睫毛。
彼が街中で彼女を見るときはいつも、彼女は本を読んでいた。
月曜日は「ナイン・ストーリーズ」
火曜日は「きみの血を」
水曜日はその続き。
そして今日はまたサリンジャー。
本屋で、カフェで、電車の中で、
彼女が手にしている本のタイトルを彼は記憶していった。
金曜日と土曜日は「フラニーとゾーイー」の続き。
日曜日は「硝子戸の中」
月曜日と火曜日、「われはロボット」
水曜日と木曜日、「ファウンデーション」
金曜日、「人体模型の夜」
土曜日、「ロング・グッドバイ」
気づけば一週間を過ぎていた。
そして彼はようやく気がついた。
伏せられた長い睫毛と、透けるような白い肌と、ページをめくる細い指先が、自分にとって特別なものだということに。
雨が降らないから、という理由で、彼は仕事の日を先延ばしにし続けた。
俺がこれから殺すあのひとは本が好きで、
気になった本をジャンルを問わず読むタイプだが、特に好きなのはサリンジャー(サリンジャーにだけ図書館のシールが貼られていない)、
いつも黒い服を着ていて、
いつも悲しそうな顔をしていて、
カプチーノが好きで、
集中すると髪を人差し指に巻きつける癖があって、
いつもひとりで本を読んでいて、
笑った顔も寂しそうで、
あのひとは俺を知らないけれど、
俺はあのひとをよく知っている。
あのひとを殺すそのときに、俺は初めて、あのひとの目に映ることができる。
歯車が一つでも狂えば、すべてが立ち行かなくなる。
自分は決められた役割を完璧にこなさなければならない。
ただ俺は、あのひとの最期のときに、その目に映りたい。
雨が降ったのは、彼が彼女を知ってから三週間が過ぎた頃だった。
暗闇に静かに雨が降る。
彼はレインコートのフードを被る。
これから初めてあなたに会う。
どうか俺を見てください。
彼は眼鏡を外した。
そうしてから、降り続く雨の中に静かに踏み出した。
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