レイニーナイト(オンザプラネット)3
「最低」
そう吐き捨てるように言うと、目の前の女は十何本目かのタバコを灰皿に強く押し付けた。
まるでそこに憎む相手がいるかのように、強く強く。
微かに雨の音がする。
この部屋に窓はないが、外で雨が降り続いているのがわかる。
その時、テーブルに置いていた、私のスマートフォンが震えて着信を知らせた。
「ちょっと失礼しますわね」
口角を上げて上品に見えるように笑う。目の前の女はまるで聞こえていないのか、再びタバコに火をつけながら、呪詛のような言葉を吐き続けている。
最低よ。最低。あんな女。全部あいつのせいよ。
あんなの産むんじゃなかったわ。
電話を取る。
「どうもー」
聞き慣れた若い女の声がする。いつもながらぶっきらぼうな喋り方だが、目の前にいる人物より遥かに心地よい声だ。
「いつ頃届けてくれるのかしら?」
私はその声がよく聞き取れるよう、顔の横の白髪をかき上げて耳の後ろにやる。白髪が増え始めてからロングはやめてボブにしたけれど、もう少し短いほうが邪魔にならないかしらね。
「それがねー」
電話の向こうで彼女がため息をついた。
「今回はキャンセルしたいんだって」
「どういうこと?」
即座に問い返しながらちらりと目の前の女を見る。
あいつがいるせいで結婚できないなんてバカげてるでしょ。
でもまあ簡単よね、いなくなってくれればいいんだもの。
相変わらず呪詛は続いている。
彼女の、「邪魔だから実の娘を殺してほしい」という依頼を受けて、私たちは今動いている。
娘の死体が到着するまでの間、半端な時間があったので、依頼人の話を聞かされる羽目になってしまった。
依頼人には好きな男がいる。彼女はその男と結婚したいと思った。しかし断られたそうだ。
彼女はその理由を、「私に子供がいるから」だと言う。
しかし本当にそうだろうか?
電話の向こうの声が言う。
「死体を譲ってほしいんだってさ」
「…どうして?」
「好きになっちゃったから飾っておきたいんだってー」
声はぶっきらぼうを通り越して、投げやりというか呆れているように聞こえた。私は少し笑ってしまった。
「あなた、死体は確認したの?」
ほんの少し間があった。
「ええ」
彼女はそう言った。
「髪の毛だけ切ってよこしたんだけどどうする?確か死体を処理するとこを見たいとか言ってなかった?あの」
オバサン、と、彼女は続けた。それが聞こえたら困るなと思い、目の前の女に再び目をやった。
女はタバコをふかしながら、まだ娘の悪口を言い続けていた。
女の子はお母さんの敵になるって言うけどほんとうよね。
男の子を産むんだったわ。失敗した。
私が電話をしていることも、話を聞いていないことも、気づいていないのかもしれなかった。
もしかしたら、私に向かって話しているのではないのかもしれなかった。
「そうよ。今ここにいらっしゃるわ。彼女の存在がこの世から消えてなくなるところを、きちんと確認なさりたいそうよ」
「ええー」
電話の主の迷惑そうな顔が見えるようで、思わずまた少し笑ってしまった。
「ちょっと」
目の前の女が急に身を乗り出してきた。
「何笑ってるのよ」
私は指先で少し口元を隠し、その指を移動させて通話口を塞ぐように見せ、
「あら、失礼いたしました」
女に向けて笑顔を作った。
「実は少々手違いがありまして」
電話の向こうで低い声がした。
「またかけ直すわ」
頭の回転の速い同僚(その呼び方であっているのかは別として)というのは本当にありがたい。
そんな風に思いながら、電話を元あった場所に置いた。
「手違いって?」
タバコを乱暴に揉み消した女は、足と腕を組んでこちらを睨みつけている。
「たいしたことじゃないんですのよ」
にこやかに私は言う。
「予定よりほんの少し手間取ってしまったようで、到着が遅れるんですって」
女が文句を言い出すその前に、私はこう言った。
「よかったらもう少し、お話を聞かせてくださらないかしら?」
女はその返答を気に入ったようだった。組んだ腕をほどき、カールさせた長い髪をかき上げ、いいわよ、と満足げに頷いた。
そしてこう尋ねてきた。
「あなたお子さんはいるの?」
私は笑顔のまま首を横に振る。
「いいえ、残念ながら」
「あら、それはごめんなさい」
女が不憫そうな顔で謝ってくる。
どうしてなのかしら。
笑顔のままで私は考える。
子供なんか産まなきゃよかったと言いながら、子供のいない私を憐れむなんて。
「こんな仕事をしていれば仕方がないんだけど、寂しいと思うときもありますわ」
「そうでしょうね」
憐憫を表現するために眉を寄せている女の顔を、私は観察した。
若く見えるけれど、実際は私と同じくらいなのかもしれない。
彼女の娘は24歳。母親からは離れて一人暮らしをしており、仕事も持っている。
もうとうに自立している娘のせいで、結婚を断られるようなことがあるだろうか?
私は一度写真で見た、その娘の顔を思い出した。
透き通るような白い肌、長いまつげ、美しい黒髪。
それなのに彼女はとても寂しそうな顔をしていた。
「ねえ、まだかかるの?」
不満げに女が訊いてくる。
「もうじきですよ。それより私、あなたのお話もっと聞きたいわ」
私の言葉に女が目を輝かせるのがわかった。
「いいわよ」
「女の子はお母さんの敵になる、っておっしゃったわね。あれは誰の言葉なのかしら?」
女の目に、今までとは少し違う色が宿ったように見えた。
「わたしの母親よ」
悪口とはいくら話しても話し足りないものだ。それは何もこの女に限ったことではない。
私は適度に相槌を打ちながら、考え続ける。
電話の向こうの声が言った言葉の意味を。
これから自分がすべきことを。
何が起きたのかは大体想像がついた。
過去に一度だけ会ったことのある、仕事をするときには必ず眼鏡をかける男の顔を思い出す。
彼の思惑通り、眼鏡の印象が強く、顔自体をはっきりと思い出すことはできない。
目の前の女はきっと納得しないだろう。死体がないということに。
取り戻してこいと言うに違いない。
そんなの面倒だわ。
私は思った。
若い時ならともかく、あんな男と殺し合いなんか真っ平ごめんよ。
私の想像が正しければそうなるはずだ。
彼から「死体」を奪おうとするならば。
答えは一つ。
目の前には煩い女。
浴室には人体用の溶解液を張ったバスタブ。
「そろそろ到着する頃ですわ。ねえ、マダム…」
「私はマダムじゃないわ。ミスと呼んで」
女が人さし指の長い爪を私に向け、そう非難した。
爪に塗られた真っ赤なマニキュアは、ほとんど剥げかけていた。
「これは失礼いたしました、マドモアゼル…」
私は立ち上がり、恭しくお辞儀をする。
「よろしければ、事前に処理を行う場所を見学されませんこと?」
女が怪訝そうな顔をする。
私は女の前に跪き、その右手をそっと取る。
とても細いけれど、隠すことのできない皺の刻まれた手だった。
そう、私と同じような。
「浴室までご案内しますわ、マドモアゼル」
女の表情が引き攣った。
意識しなくとも、自分が満面の笑顔であるということはよくわかった。
女が私の手を振りほどこうとした。私は決してその手をはなさなかった。
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