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消えたチーズ

それはある晩の出来事だった。
私は一緒に寝ている妻がベッドから出ていく気配を感じた。
最初はトイレに行ったのだろうと思った。
しかし妻はいつまで経っても戻ってこない。
結局妻が戻ってきたのは小一時間ほど経ってからのことだった。

私は翌日妻にあんな真夜中になにをしていたのかと問うたが、妻はキョトンとした顔で「なんのこと?」と答えた。
もしかしたら私が見た夢だったのかもしれない。
しかし、翌日も、その翌日も妻は夜中に起きてはふらふらとどこかへ行った。
家の中を探しても見つからず、今度は夜が明けると冷蔵庫のクリームチーズが全て食べ散らかされていた。

私は再度妻に尋ねたが妻は「知らないよ」としか答えなかった。
私は次に妻の浮気を疑った。
そういえば最近、よく妻は友達と会っている。
しかし、妻の友達といえばほとんど地元にしかいないはずで、頻繁に会っているのは良く考えればおかしかった。
もしかしたら妻は夜中ベッドを抜け出し、浮気相手とクリームチーズをアテに飲み歩いていたのではないだろうか。
だからクリームチーズはなくなった。
家中探しても妻が見つからなかった理由にも説明がつく。
後ろめたい気持ちはあったが、私は探偵を雇うことにした。
真夜中に妻がどこに行って誰と会っているのかどうしても知りたかったのだ。

しかし、結果から言ってこの計画は失敗だった。何週間か調査をしてもらったが、妻は夜中どこにも出かけてなどいなかったし、友人に会っていたのも本当だった。
ならば毎晩ベッドから抜け出してどこへともなく消える彼女はなんなのか?

私は考えた。その末に思い当たったのが以前テレビで観た「夢遊病」という名の病気だった。
彼女は夢遊病で、眠っている間に家のどこかに隠れたり、食べ物を食べたりしているのだ。
そうして夢遊病のことを調べるうちに、勝手に家から出て車に轢かれてしまうという事故に巻き込まれる可能性を知った。
私は彼女のことが心配になって「落ち着いて聞いてくれ。きみは夢遊病だと思うんだ。ほら、以前クリームチーズがなくなっていただろう?あれはきっときみが眠りながら食べたものだったんだ」その後も毎晩ベッドを抜け出していること、家の中で忽然と姿を消すことなども付け加えて話した。
彼女は最初狼狽えたようすだったが、次第に落ち着きを取り戻し「そうね、そうかもしれない」と状況を飲み込んでくれた。

そして私と彼女は次の休みで脳神経内科を受診することにした。
通院するかもしれないなら、病院は自分で選びたいという彼女の希望から病院選びと日程の調整は彼女に任せた。

当日、彼女と病院へ向かった。
少し家から離れた都会にある病院だ。
待合室に入り、順番が来るのを待つ。私は彼女のことが気が気でなく、順番を待つ間そわそわと手足を動かしていた。
名前を呼ばれ診察室に入ると丸い眼鏡のくるくるとした髪の医師が座っていた。
私は医師に彼女の症状を伝えようと口を開きかけたのだが、それを遮るように「先生、こちらが私の旦那です」と妻が言った。
私はその口ぶりに疑問を覚えた。まるで以前からの知り合いのようなその口ぶりに。
医師は「こんにちは、はじめまして」と私に話しかける。咄嗟に私も「はじめまして」と答える。
そして今度は妻が私に話しかけた。
「黙っていてごめんなさい。でも、きっと本当のことを言ってもあなた信じないだろうと思って…」
何の話だ?という顔の私に妻は「あなたは私が夢遊病だって言ったけど、それは違う。夢遊病なのはあなたなの」
状況が飲み込めない。妻はスマートフォンを取り出して撮影しておいた家の中を映し出した。
そこには私が、朝食用のパンを食い散らかしている様子が映し出されていた。

夢遊病なのは私だったのだ。

つまり、私が「妻がどこかへ行ってしまう」という夢を見ていただけで、実際にベッドを抜け出していたのは自分で、妻はそのことに気づき、事前に友人と医師に相談をしており、今日ここに来たのも妻の作戦だったというわけだ。

それからは病院で脳の検査などを受けて、幸いにもほとんどの場合併発するような病気は今のところないことが分かり、私は定期的に通院をすることになった。

そして色々な夢遊病防止策と、心のケアのため仕事をしばらく休みにしてこの機会に動物を飼うことにした。
綺麗なクリーム色の猫。名前はチーズ。
チーズは賢い猫で、私が布団から抜け出そうとすると小さな声で鳴き妻を起こす。
妻とチーズで私が暴れないようそっとベッドまで引き戻してくれる。

通院と、妻とチーズのおかげか、私が夜中徘徊する頻度は徐々に減っていき、今では月に数回ほどの頻度になっていた。

聡明な妻と賢い猫に囲まれて、今日も私は安心して眠りにつくことができた。


END

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