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フランスの教員襲撃事件から、授業のあり方を考えた

このような記事がSNSで話題になっています。

パティさんは表現の自由を授業で取り上げ、仏風刺週刊紙「シャルリーエブド」がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を生徒に見せたことがきっかけで襲撃されたとみられる。

引用したこの事件について、社会科教員の立場から、思うことを書きたいと思います。


1 生徒に意図は説明したのだろうか?

私がもし学校でこの風刺画を扱うなら、その教育としての意図を事前に説明して、生徒に了解を取ります。

これは、自由云々以前に、人としての思いやり、気遣いの問題だと思います。

記事に「表現の自由を授業で取り上げ」とあることから、当該の風刺画を取り上げたのは、表現の自由について学ぶ際の教材との位置づけだと思います。

ですので、「シャルリーエブド襲撃事件をもとに、表現の自由とは何で、どこまで許容されるのか?どのような心構えが必要か?について、皆さんに議論をしてもらいたい」といった意図を説明します。当然、このときに「イスラム教を冒とくする意図で、提示するわけではない」と明言しておく必要があるでしょう。


2 どういう風潮で授業は展開されたのか?

おそらく、クラスの中で「風刺画は、涜神的で許容できない」という生徒も出てくるし、「表現の自由の範囲内で容認されるべき」という生徒も出てくるでしょう。

そういう違う考えに出会うことが、この授業の本質だろうと思います。

どちらかに結論を決める必要は全くなく、意見を交換することが重要です。


クラスの進捗次第で、教員が「意見が論理ではなく、根本の価値観の部分で割れている」ということを整理しつつ、「その場合に、どうすれば事件のような悲惨な結果を避けられるか?」といったことを追加で問うと、より深まると思います。

特に、フランス社会では、表現の自由優位論が多勢で、許せない論は少数派なのでしょう(大統領もその論調です)。であれば、その少数派にどのように配慮するか?を、結論が出ないなりに考えるのは意味があると思われます。

最後まで「でもやっぱり表現の自由の範囲内だし、嫌なら見なければいい」というふうな考えで終わっても構いません。それでも、「嫌な思いをする人は、すぐ身近にもいる」という事実を知ることだけでも価値のあることだと思います。

往々にして、マイノリティーについて考えるとき、人は「どこか遠くの話」というイメージを持ちがちです。でも、すぐそばにも苦しい思いをしている人がいる。それを知ることがものすごく重要だと思います。言ってしまえば、うってつけの教材というわけです。


安易に、例えば「表現の自由を認めるべきだ」といった価値を注入する授業にしていなかったか?は検証が必要だと思います。

教室は、教員の政治演説の舞台ではありません。

教員が「こんなもの、表現の自由で認められるに決まってる」と仮に思っていたとしても――もちろん、被害者の方がそうだと言っているわけではありません——、様々な意見を公平に扱って、嫌な思いをせずに議論できる空間を提供するのが教員の仕事です。

片方に教員が肩入れするような風潮で、授業を作ってはいけません。


3 授業前にマイノリティの生徒に相談はしたのか?

また大前提として、授業よりも前にムスリムの生徒に、「こういうテーマで議論をしたいと思う。私(教員)は、イスラム教を冒とくしようという思いは一切ない。むしろ、こういう問題をみんなに知って、考えてほしいと思っている。でも、みんなに本音を語ること等で、嫌な思いをするようであれば、授業で取り上げるのはやめにする。どう思う?」といった相談をしておくべきだとも思います。

マイノリティにあたるムスリムの生徒がこの問題を取り上げることをOKしていたのか。

嫌な思いをする恐れのある生徒への配慮は、最大限講じるべきだと思います。


4 そもそもクラス集団は、この授業をしても大丈夫な実態だったのか?

全生徒に対して、日頃から人種や宗教に対する差別は良くないということを指導している必要があります。そもそも、日常的に差別が蔓延しているのであれば、このセンシティブな教材を取り上げる以前の問題であって、「まだこれを取り上げて議論するのは早い」と判断しなければなりません。

自分とは違う他者の意見をまずは聞く姿勢が全員に備わっているか?について、事前に丁寧に分析しておかないといけません。

クラスの実態を見て、大丈夫だと判断したうえででないと、センシティブな問題を安易に取り上げることはできません。まだ尚早だと判断したなら、もう少しマイルドな話題で、議論するときの姿勢、他者受容の精神性を育んでから、この話題を議論するべきでしょう。

そもそも、そういう判断をして、目の前の学習者にとって最適な授業を構築するのがプロとしての教員のスキルです。

亡くなられた被害者の方については、詳細は分かりかねるので、決めつけることは決してできませんが、そこを軽んじて、安易に表現の自由を教員自身が振りかざしてしまった可能性もあります。

繰り返しになりますが、教室は、教員の政治演説の舞台ではありません。(被害者の方がそういうことをしていたと断ずるわけでは、決してありません)


5 というか、教材はこれが最適だったのか?

根本的な問題ですが、指導において、最適な教材がこれだったのか?も考える必要があります。

表現の自由について学ぶ場合、別にこの教材以外に取り上げられるものがないというわけでもありません。最適な教材は他になかったのか?も重要な論点です。

実際、社会科教員をしていると、「この問題、話し合わせたい!」とか「この事例を取り上げたい!」とか思うこともあります。ですが、深呼吸をして「で、それを通じて何を学ばせたいの?」「他にもっと良い手はない?」と考える時間が大切でしょう。


6 おわりに

こうしたハレーションは、日本でも起こり得ることです。

現場にいたわけではないので、憶測でしかありませんが、もし事前に意図を説明し、了解を得て、当日も意図を繰り返し伝え、単純に「表現の自由」をただ主張するに終わらない展開を取っていたとしたら、悲劇は防げたのではないか?と思います。(繰り返しですが、現場にいたわけではないので、当該の授業がどんな内容だったか?は分かりませんが)


人権や自由に関する授業など、社会科(特に公民的分野)では、往々にして、結論ありきで教員が主張をしているケースがあります。

例えば、憲法の平和主義に関する学習では、自分の政治信条が露骨に出た授業をする教員は、それなりにいるように思います。(政治信条が右とか左とか何であれ)

そういうことはやめて、教員はファシリテーションに集中する。生徒は、どちらかに結論を出すことを目指すのではなく、他の考え方に触れること、他の考え方の人の譲れない価値観に気づくことを目指す

これが重要だと思います。


SNSでは、「ネトウヨ」やら「売国奴」やらと、考え方の合わない人をすぐ敵認定してブロックしたり、誹謗中傷したりする風潮が後を絶ちません。最近では、研究者やジャーナリストですら、その有り様です。(というよりも、あくまでも私の実感としては、そういういわゆる“知識層”で、安易に人にレッテルを貼って、攻撃的に見下す人が顕在化しているようにも思います)

自分の考えと違ったら、その人の論理や譲れない価値観など全否定する。それでは一生、分かり合えないし、分かり合えないなりの付き合いすらできません。


社会学に「他者の合理性」という考え方があります。仮に、自分にとっては到底理解ができないとしても、他者にとっては納得のいく行動や考えがあるのです。

他者なりの合理性を知ろうとする。そこが重要です。

厄介なことに、他者の合理性は他者のものであって、完全には理解できません。しかし理解した気になって、勝手に哀れんだり、手を差し伸べるポーズをとったりするケースもあります。これは余計に「見下してる!」といった具合に溝が深まるだけです。(特に、上述の“知識層”で安易にレッテル貼りをする人には、こういうパターンが割とあると思います)

だから、安易に他者を想定して、その他者を気遣った(と自分が思い込んでいる)結論を出すのも、結構怖いことなのだと私は思います。


今回の場合なら、「表現の自由こそ至上」という価値観だけではなく、嫌な思いをする人を想像し、折り合いをつけようとする。仮に最後まで考えは変わらないとしても、そういう人の存在を頭の片隅に刻んでおく。

これは、日本社会でも必要な感覚だと思います。

今回、悲劇を生んでしまった授業がどのような授業であったのか?は分かりませんが、少なくとも政治的にセンシティブな話題を扱う時には、価値注入的な授業は避け、十分な注意を払って行うべきだろうと思います。

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