「革命」は全く目指してないけれど

4年以上前の記事。ポツポツスキのお知らせが入るので読んでみると、自分の書いたものの中では珍しく読み易い。

とはいえ、自分の書いたものの中では、、、という限定付きなので。。。

分かりにくいところをより具体的に言えば、最後の「負け戦みたいで云々・・・」というところ。自分でも当時一体何を考えていたのか?と思い出す必要があった。

4年経った今でもというか、4年経って益々、圧倒的な主流に抗うことはとても難しいと感じている。

じゃあ抗うんじゃなくて、動かし難い主流に乗っかりつつ、無限に多様なはずの私たち一人一人が、できるだけ幸せを感じられるようなことを、小さいことでもいいので一つ、二つ、、、と積み重ねていけば・・・というのをどうも受け容れたくない自分がいる。

今でも。

葛藤ですな。

圧倒的に現れてくる主流というのは、私たちが普通に考えたり考えなかったり、努力したりしなかったりしながら生きてて出てくる傾向のはずだから、どうしようもないように思える。どうしようもないというか、もうそれが人間というものの能力、性質なんだろう。

他方、人間には言葉とか考える力などが現にある。つまりそれらだって人間の能力や性質ではないのか?「普通」をちょっとずつでもチェンジし得るツールを人間は持っている。じゃあ使いようによっては・・・。

「普通」をチェンジ。

「普通」というのが曖昧なんだな。

「チェンジ」というのもどこか大袈裟な印象がある。私がイメージするところのものはそんな大したことじゃない。ここまで有史数千年、やってきたまんまでいい。というかそれ以上のことはまずやろうと思ってもできないということを「普通」に得心してもらいたい。「普通に」というからには特別な努力は要さない。いや。やっぱり努力はいるのかなぁ???今まで通り普通にやってていいんだけれど、その様を自分自身でなるべく正確にとらえる。

むずかしいね。。。

やっぱり。。。

「チェンジ」というのは僅かばかりではあってもかなり難しいこと。

難しいから目指すなということではなくてね。

「チェンジ」は普通にしててもたまには目指したくなるもので、それも私たち人間の性質。

ただ、目指したくなるからといって実際にできるわけでもないし、目指すからにはできなきゃダメだ!ということでもないのよね。

私たちの「普通」というのは、そういう中々厄介なこと、やった方がいいのは分かってるんだけども中々できない、、、そういう結構細々こまごまと現れるダメな部分に悶々とさせられるというのが含まれるはずなんだな。

なんでそんな社会の大勢にはほぼ何の影響も及ぼさない細々としたパーソナルな”悶々”に注意を向けさせたいのか?というと、結構考える方の人間であったとしても、人間全員を面倒は看切れないものだからなんだ。

例えば、司馬遼太郎さんの小説『翔ぶが如く』を読んでいて、誰それさんはずっとお屋敷住まいだったから民衆のあれこれは全く見えていないが、誰それさんは現場の人だから見えていた、というような描写がある。
民衆のアレコレというのは、その人が民衆とされる人々の一人であったとしたってそうそう分かるもんじゃない。
歴史小説だから、歴史的な人物たちの間で、民衆なるものにそもそも注意が向いていたか否か?という次元での対比でしかない、と理解すべきなのだろう。多分。
歴史小説が読めるほどに、昔のアレコレについて調べることができる世界に生きている私たちは大変恵まれている。
ただ、歴史小説を読んでいると感じるのが、何人生きて死んでいっているのだろう?というその数の無数なことよ。
歴史小説も含め、小説はあくまでもフィクション。架空のお話と理解することが肝要と言われる。
架空のお話を読むのだから、当然、自分が実際に生きている世界とは違う。如何に歴史的事実をつぶさに追っていたとしても。
この厳然たるギャップがあるからこそ、現実の世界の様子を完全に理解なんてできないまでも、新たな注意が向くことで、結果としてより詳しく知ることができる可能性が生まれる。と私は信じている。
「普通に」小説を読んでいる人は今でも(数は減っているとは言われるけれど)沢山いるわけで、楽しみながら現実世界についてよりよく知ることができている。はず。。。

「はず。。。」と言った通り、そんなにすんなりは行かない。

行っているなら世の中は今とちょっとは違う感じになっているはずなので。。。

小説読むとかでなくて、普通に生きていく中で、先に述べたような細々とした、特にダメな部分に煩悶するような瞬間瞬間のことについて、全く注意が向いていないと、沢山読んだところで結局何も起こらない。

残念ながら。。。

小説の中で描かれるような、象徴的な、或いは、印象に残りやすい、架空の世界と、現実の世界。両者相互に違っていることは分かっているけれど、何がどう違うのか?なんてことに引っかからずに、すぅ〜〜っと過ぎ去っていってしまう。

小説のように豊かに、微細に描くことができるモードでも、それが創り出す架空の世界は現実世界の多様さには及ぶべくもない。

人間全員の面倒は看れないのだ。

ごくごく当たり前のことなんだけどね。。。

「当たり前」と言うわりには、実はあまり振り返られていない。

人間全員の面倒を看るというのは、「無限」をどう扱うか?という数学的問題とも無関係ではない。

数学的な「無限」なんて人間の生活にどんな関係があるのか???

私の考えでは、哲学であろうが、数学であろうが、小説であろうが、、、人間が営んでいるものなら何でも、結局のところ、自分のありのままの実力、何ができて何ができないのか?をより正確に知りたい、という方向に収斂しないのなら、やっても意味がないばかりか、害悪にしかならない。

ありのままの自分を知れるものなら知りたいというのと、人間全員の面倒を看れるものなら看たいというのとは、実は全く同じ根っこから生まれてくる。

後者の方は「無私」に近いように思えるかもしれないけれど、じゃあ「私」なんてものもこれまた曖昧だけれども、それを「無」になんてできるのか?

人間全員の面倒を看れるものなら看たいというのは、何かを「無」にしてしまえば世の中が変わるというような安直な理屈には批判的だ。それじゃあダメなんだというところから出発する。

自分と呼ぼうが私と呼ぼうが、私たち一人一人は生きているからには簡単に「無」になんてできるわけがないし、できるなんて思っていてはいけない(だから簡単に死んだり、殺したりしてはいけない)。

無数にあるそうした個々に異なる私たちが、どうやったらより幸せな気分で生きて死んでいけるのか?

一人一人にできることってのは、月並みに過ぎるけれども、、、結局自分自身のことなのよね。。。どんな状態なら幸せって思えるかなぁ???

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