ささやかなしあわせ

日本人は何かと西洋の方を自分たちよりも上に見る傾向がある。

歴史を振り返ればそれも無理はない。

21世紀の現在もメインのシステムは白い人たちが開発したものなのだから。

とはいえ、戦後も70年以上が過ぎ、ある側面では追いついた、追い越した感のある今、盲目的に全てにおいて西洋が上だと信じている人はそれほど多くはないだろう。

でも、とりあえず、自分らより上がある、と想定しておくことは、何かと便利だ。

問題が起これば「西洋オリジンだから」と言えるし、散々っぱら勉強して伝えようとして上手く行かなかったとしても「俺ら西洋人じゃないしよ」って言い訳もできる。

どこかに現に生きている現実世界とは別の世界があるのかもしれない。しかもよい世界が。。。って思うのは、生きていく上でとっても有効な戦略だ。

今はダメでも明日がある。

これはなにも日本人特有の性質ではない。

白い人たちも同じ。

ただ辿ってきた歴史は違う。

現存する一神教の起源、ギリシャ哲学。

延々人々が自らに言い聞かせてきたことは、「じたばたしたって無駄。主にまかせよ。」

神もロジックもそこに違いはない。

ちっぽけな人間。足掻いたところで何になる?

アジア的、非西洋的なのは自然に任せるところだけれど、白い人たちだって別に個々人が偉大なる力に立ち向かっているわけでもない。

面倒なことは誰かがお治めくださると思っている。

個人の意志を尊重しているなんてのは大嘘。

どちらかというと個々人が避けがたく経験する矛盾や葛藤について、「それって結局俺ら不完全生物同士で話したって明確な答えなんて導き出せないでしょ?」ってお互いに諦めさせ合った上で、実証主義だの科学的合理主義だのといって目に見える事実を分析しましょうと、より確実性の高い外のものどもへ目を向けることで安心しようとしている、という点において非常に貧弱な考え方だと言える。

全く自己を振り返るという可能性をシャットダウンしてしまっている。その気がある人もいるかもしれないけれど、制度的に「無駄だ」と宣言しているので、どんどんと芽は摘まれていく。

世界的に白い人たちが発明したシステムが広まったのも、人間が弱いから。

何に弱いって自らの中にのべつくまなく湧いて出てきてしまう曖昧な感覚。不安であり不確実性であり。これがあるからこそ楽しいこともあるし、将来予測などもできるのだけれど、やっぱり不安な気分は嫌なものらしい。

でなければいちいち「こっちの方が確実だ」なんて言い合わずに済ませられるはずなのだ。

中央集権的資本主義であろうとローカル分散型共産主義であろうと、物が行き渡らなくて死んでいく人間はいなくなりはしない。

つまり問題は生産分配システムではないのだ。

人間のくせに「死んじゃうのは仕方がない。それは虫けらやその他の動物と同じこと」と言って悟った気になることで種々不安をないものとしようとするのは個人レヴェルでは各自勝手にご自由にでいいかもしれないけれど、他人を巻き込もうとしたり、クソ真面目に「よりよいものを」と励んでいる人間を小馬鹿にするのは不誠実だ。

人間の誠実さなんてその程度のものなのかもしれない。

だとしても、それを醜いと感じないというのはウソだろう。

全ての人が万能になれるわけがないのと同様に、生きている以上絶え間なく現れる不安やよく分からない感覚の処理の仕方だって様々だ。

処理の仕方は様々なれど、その人なりに美醜の感覚はある。

そんなもん知らん。拘らない。

という人も結構いるだろうけれど、残念ながら言っちゃった時点で拘らざるを得ない。

あたかも拘りのないように生きているように見える人々は、それでいいのだ。どんなぼろ布を着ていようが、施しに依存していようが。

別の何かに気付いてしまった以上、美醜には都度結論出さないわけにはいかない。

ハッピーなのは、その結論が長続きすること。つまり、一度結論付けた方針で一心不乱に生き続けられること。死ぬまで。

ただ大多数の人間には、そういった極上のハッピーは訪れない。

だから小まめに見直さざるを得ない。

それでいいのではないか?

何故普遍的な美醜の基準を設ける必要がある??

普遍的な基準が必要であるとすれば、それは見直す人々の判断材料になる、という意味において。目安があった方が考えが進む。その程度の意味だけだ。

間違っても最終回答を人々に代わって宣言してくれるようなものではない。

人間にとってのささやかな幸せって本当にささやかなものなのだよ。

何かとトータルにがっと片づけたがる面々には、もっとその辺のことの重大さについて理解してもらいたいものだ。


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