言語は回る
時代も回る(中島みゆき)。
金は天下の回り物。
意識的に回す方法。
考えてみる価値があるのではないか?
読み手を意識しながら。
読み辿るラインがゆっくりと #円 または #螺旋 を描く感じ。
似たような方法
視点、語り手を変える。
命題、反対命題、それらを解釈する人。
書く人向けに #書く技術 として明示することも意味があるけれど、ともかく、言葉って普通に使っているだけで、使う人(書く人だけじゃなくて読むだけの人も)の視点がぐるぅーーーっと回っている、というか、異なる人々からの光をそれぞれの人がその表面で反射させているんだ(個人は #玉虫色 )、ということを、内面化する。
めちゃくちゃ蠢いているものがある。一人一人の中に。勿論外からの刺激を受けてのものが圧倒的に多いのだと思うけども、 #蠢き が起きているのは一人一人の中。外ではない。
その内なる蠢きにまずは注意を向ける。
その拠り所となるのが、言葉。言葉に照らされて、様々に光り方( #色彩 )が変わる自分の表面。その変化を見る。言葉を通して。
言葉はウソをつく。
だから #ウソ は織り込み済みにする。
どんなにウソをついたとしても、逃れられない真実。
何だ?それ?
否定だね。
#否定の肯定 ?
クレタ人が「全てのクレタ人はウソつきである」と言うお話??
え?
それって真/偽が分からなくなるだけなんじゃ??
ポイントはそこ。
真も偽もどっちか分からなくなるってところ。
これ以上の真ってないって思いません??
言葉は必ずウソをつく。
だから読まねばならない真実。
語り、説得せねばならない真実。
その辺の真剣さが必ずや滲み出る。どんなに取り繕ったり、自然を装おうとしたり、おちゃらけたりしたとしても、、、。「あーこれは深刻に受け止めなくてもいいんだな」とかいう”真実”も含め。
「騙されているとしても、この読みでいく。」という覚悟。自らの読みを信じるということ。
無意識(盲目)の #信頼 でも尊い。一応 #覚悟 はしたことになっているから。勿論脆弱でもある。信頼が裏切られた場合。つまり #意識 の領域に入ってしまった時。
脆弱さを補うためにも、意識の領域では、「裏切られたらこわい。だから疑う。」で止まってはいけない。「裏切られる可能性は十分ある。でも信じる。信じられるように十分注意しつつ。」まで行く。「十分注意」は「健全なる疑い」≒「建設的批判的見方」。「100%正解まちがいなし!ということはない」という疑い。これを”言葉のせい”にするのではなく、自分自身で納得の上受け入れる。
この困難な作業(修業?)へ向かうさらなるインセンティブとして、、、
評価システムを変える
真剣さを評価する。ハッピネスへの真剣さ。
原則1:「真/偽」で判定しない。(全部が真)
原則2:クォリティは問わない。(善悪の判定は、個別の言葉のみからでは不可能であり、善悪判定の試みは、いかなる理屈で正当化を試みようとも非倫理的)
どうやって真剣さを評価する???
読んだ人が決める。
「決められないよ。そんなもん。」=「真剣さ0点」
「事実関係精査しました。」=「30点」
「場の適正さ(マナーを守っているなど)で評価しました。」=「30点」
「真意読み取りました。」=「0点。本当に読み取れていたとしても30点」
「全体の雰囲気で決めました。」=「0点~75点」
以上↑↑↑は「読む人の態度」の評価でした。。。↑↑↑でも、
以下↓↓↓「読む際に参照する評価基準表」↓↓↓を理解するのに役立つはず(両者は関連性がある。言葉は回るから)。
「ハッピーな感じ(勇気が湧く、クスッと笑えるなど)」=「高評価」
「みんなでハッピーになろうとの意識は感じるけどうまくいっていない(笑えないジョーク、押し付けがましいポジティヴさや盛り上げなど)」=「中評価」
「ハッピーになろう感が自分自身向け」=「低評価」
「深刻過ぎる」=「低評価」
補足説明:
「真剣さ(深み)」は、一方向的では出ない。自分自身→他者→自分自身→別の他者(環境など)・・・とか、事実関係→場の(不)適正さ→内心の動き(真意、気持ちなど)→・・・とか、未来(計画、目標などまだ実現していないもの)→現在→過去(歴史、思い出など)→現在→・・・のような反復、逡巡に現れる。
自分自身や現在を巻き込まない言説は #モラル が低い。
「自分自身を巻き込む」とは言っても、それは、「自分自身にだけ注意を向けなさい」ということではない。巻き込まれる #時の流れ (歴史的経緯など)、人々(社会や #慣習 など)をイメージする。「私はどうでもいいから…」もダメ。自分以外のものに全てを決めてもらうことはできない。
「 #巻き込み 」は、上記の「読む人の態度評価」と「読む際に参照する評価基準」を行ったり来たりする。
例えば、「読んでハッピーな気持ちになった」とする。「なんでかな~?」と探る時、「読む人(=自分)の態度の評価」を見てみると、「事実関係の正確さ」「場の適正さ」「書いた人、喋っている人の真意」、それらが醸し出す「全体の雰囲気」全てを絡め合わせていることが分かる。これらの要素の内どこに重点が置かれやすいか?などの傾向も。
そして、最も大事なことは、「全体の雰囲気」を決めるのは「読む人(読んでいる自分)」だ、ということで、最終的には自分で引き受けるということ。
その前に、読んだ感想について、「なんでかな~」という疑問をなるべくはっきりとさせ、引き続いて原因・要因探索に向かわせられるようになることが大切。ただの猜疑心や批判に終わらない「疑問を投げかける力」の養成。
目指すところは「ハッピー」(読んだ際に高評価を与えることができること)。
それ自体が報酬であり、「視点を上手に回して読むことができるようになる」などの技術的側面では、これを上達させられれば社会的利益(高い評判)、経済的報酬(金銭的にもそれなりに報われる)などもイメージされるかもしれないが、そこは目指さない。いや、当初は目指すとしても、自身の高評価や高報酬を追求すれば、多かれ少なかれ他者を排除してしまうので、あまり「ハッピー」にならないことが理解される。つまり、目指すのは「みんなのハッピー」となる。
このようなまどろっこしく、かつ、曖昧な「真剣さの評価」が必要な理由
データがビッグでなくてもコントロールが効きやすいシステムを考えることも大事。
いつまでも好きなように情報発信したり、どんなデータもかき集められる時代が続くとは限らない。限られたデータから的確な判断を導き出せることは今も将来にわたっても重要。
リスクマネジメントとしての権限分散、つまり、個々人のスキルを全体として、僅かばかりでも上げていくことを目指すべき。
おっきな社会システムは現行のものをドラスティックに入れ替えることは想定しない。いかに現行システムを使いこなせるか?を追求する。おっきなシステムでも、結局”ラスト・ワン・マイル”は各ローカルの工夫次第。
いかにテクノロジーが進歩しても、人間が生きるのはローテク。ローテクで大事なのは注意の向け方。特にハイテクとローテクの決定的な違いに注意を向ける。大枠はメタファーとナラティヴ。他物代替可能性と唯一無二性。
時間と空間
無限(ハイテク) 有限(ロー)
繰り返し
リカーション(ハイ) リダンダンシー(ロー)
エラー
確定された答え(ハイ) 問う機能の停止(ロー)
ロジック
二項(ハイ) 三項(ロー)
「人間の生きる」がローテクであっても、ハイテクを無視したり棄却してしまいなさい、ということではなく、ハイとローの間を取り持つ役割を担っているということ。
Narrative Theoryも万能なわけはなく、特に対照的に異なるロジックについて、「つなぎ」をいかに実践していけるか?の道筋を示してくれるのみ。
視点をぐるーーーっと回すことが何故ハッピーに大事なのか?また、そのハッピーが自然と個々人のカベを超えるものとなるか?を説明してくれる。
中心は「モラル」。
「モラル」で重要なのは「善悪の基準」ではなく、各自が自分自身と現在を巻き込んで物事を意味付けることができるかどうか?
言葉を読むのも、アクションを言葉で解釈するのも、ただ対象(言葉やアクション)を正確に知るだけではない。正確に知るにしても、それを求めるのはその時々の自分自身の中で蠢いている何か。
言葉はその訳の分からない感覚と、外の世界とを様々につなぎ合わせてくれるもの。
この「つなぎ合わせ」は、感覚と言葉とが一対一で対応するのではなく、同じ言葉であっても、その時々で異なる色彩を放つ。その異なる色彩の原因が自分の中でくるくると変わり続ける感覚にもあることを知る。つまり、感覚と言葉とはそもそも照らし合わせるもの。照らし合わすことによって、感知される光・色彩。これらを手掛かりに、わけのわからない感覚が、これまた言葉の助けを借りて、表現可能になる。勿論個々の感覚の表現は、言葉以外のメディアでもよくて、何でもかんでも言葉に翻訳されなければならないというわけではないけれど。
「言葉が分かる」ということが人間にとって死活問題的に重要なのは何をおいても表現可能性を上げることができるため。
多くの人々と通じる言葉があれば、とにかく格段に打てる手が増える。事実関係を正確に捉えるにしても、場の適正さを知るにしても、各々の内面を探るにしても。
特定の判定基準での価値付けをあまりにも当たり前のものとして考えていると、その打てるはずの手が極端に制限されてしまう。
ここをあまり極端にならないようにすることが重要。
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