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私が統一教会を辞めようとしている理由

2022年7月の安倍元首相銃撃事件の後、各メディアでは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に関する様々な報道が行われています。

「カルト宗教」「詐欺集団」「反社会的勢力」。私が生まれながらに所属していた教会は、世間でそのように呼ばれています。

そして私は今、その教会を辞めようとしています。

子供たちは嘘をつき続ける

私は統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の祝福二世と呼ばれる立場の人間です。そして現時点では、まだ「信者」と呼べる状況にあると思います。

私の両親はいわゆる「合同結婚式」で出会い、籍を入れました。そして私も、両親の世代とは形式が異なるものの、統一教会内で今の夫と出会い結婚をしました。

私と夫の間には二人の子供がいます。
子供達はまだ幼く、今回の事件や報道のことも理解していません。しかし、子供たちがそれらを知る時は、いずれ必ずやってきます。

教会内で違法性のある勧誘や行き過ぎた献金が行われたことは紛れもない事実だと思います。そして、自分達がそういった行為を行っていなかったにしても、私たち家族はその団体に所属しています。

子供が幼稚園や小学校に入った際、私はきっと、いじめ等を考慮して「教会のことは誰にも言わないように」と子供達に言い聞かせることになるでしょう。子供達は友達や先生に嘘をつき続けることになるでしょう。心の中に後ろめたいものを抱きながら対人関係を築いていくことになるでしょう。

各メディアでは、統一教会の二世や三世の心の苦しみや家庭の分裂が多数報告されています。統一教会に所属することは、家庭や子供の心を危険に晒す可能性に繋がります。

私は親として「それでも統一教会に所属する理由」を子供に説明できなければなりません。

しかし、情けないことに、私はそのことについて今まで真剣に向き合うことをしてきませんでした。そして今更ながら、自分が子供たちに説明できるような「理由」や「信念」を持ち合わせていない、ということに気が付きました。

私が統一教会に所属している理由

私は「自分が統一教会に所属している理由」について改めて考えてみることにしました。

もちろん初めのきっかけは両親ということになります。しかし、それはあくまできっかけであり、大人であり自分で物事を判断できる今現在の私が教会に所属している理由にはなりません。

では何が理由でしょうか?原理講論(統一教会の教典)の教えや、その教えに基づいた理想世界の実現を心から信じ願っているからでしょうか?多分それは違います。私と夫は、今現在、収入の十分の一を献金したり、毎週日曜に礼拝を行ったりはしていますが、伝道など教会を広げるための積極的な活動は行っておらず、今後もそのような活動を行うことはないと思います。また、教会内では信者の高齢化が進んでおり若いメンバーは非常に少なくなってきています。私たち夫婦のように積極的な活動をしていないメンバーも多いことや、今回の事件が与える影響なども考えると、統一教会の教えが今後世界に広がるとはとても思えないし、私はその努力もしていません。

こうして突き詰めて考えると、私がいま統一教会に所属している本当の理由は「教会の中での人との繋がり」なんだと思います。批判を受けるかもしれませんが、一般の教会員には本当に優しい人が多いというのが私の率直な印象です。彼らは心の底から世界の平和を願い、祈り、自分の時間やお金を費やしています。そんな彼らが居るからこそ私は統一教会に所属しているんだと思います。

しかし、そう考えたときに、この「教会の中での人との繋がり」という理由は「子供のため」のものなのか、それとも「私のため」のものなのか、という疑問が浮かびました。

誰のための選択なのか

私は今まで、統一教会に所属していることは自分の子供の為にもなると考えていました。私自身、統一教会の優しいメンバー達と触れ合うことで心が救われたことが何度もありました。そのことで私も人に対して優しくなることが出来ました。人を愛することが出来るようになりました。だから統一教会は子供達のためにもなるんだと、そう考えていました。

しかし、考えてみれば当然ですが「優しい人」「人のために尽くしている人」「世界の平和を願う人」は統一教会の信者以外にも大勢います。もしそういった人の割合が多い団体に所属したい、というのであればユニセフの組織やボランティア団体に所属するなど、いくらでも方法はあるはずです。収入の十分の一は人の為に使うべきだという考えがあるのであれば、単純に募金等を行うだけでも良いはずです。礼拝に参加して神様を信仰したいのであれば、一般的なカトリックやプロテスタント等に所属すれば良いはずです。統一教会の教義的にも、他宗教を信仰している人間は否定されるべきような存在ではないはずです。

つまり、私がいま統一教会の信者としてやっていることは全て、統一教会に所属しなくても出来ることなのです。

そして、そういった状況の中で、それでも私が子供達への心の負担を顧みずに「統一教会に所属すること」を選ぶのであれば、それは子供の為ではなく、統一教会が「私の生きてきたコミュニティ」だからであり、結局は「私のため」なのだろうと気が付きました。

私の生きてきたコミュニティ

正直に言えば、私には「統一教会を辞めるのが恐い」という気持ちが有ります。無理な引き留めや報復はきっと無いと思います。少なくとも自分の教区内ではそういった話を聞いたことが有りません。

しかし、私は物心が付く前から両親に連れられて統一教会の礼拝に参加していました。自宅でも聖書や原理講論を読み、時には修練会と呼ばれる行事に参加することも有りました。洗脳をされたとまでは自分では思ってはいませんが、幼い頃から「正しいもの」として教えられてきた統一教会を辞めることに罪の意識のようなものを全く感じていないかと言えば、それは嘘になります。

私は小学校から大学まで一般の学校に通いました。その中で仲の良い友人もできました。しかし、自分や自分の親が統一教会に所属していることは、学校の友人には打ち明けることが出来ませんでした。ずっと隠していました。私の時代には現在のように統一教会の問題がニュースで報道されるようなことは有りませんでしたが、それでもやはり友人の反応が恐かったです。また、教会の禁忌である異性との交際を当然のように行っている同級生たちに、少なからず心の壁を感じていたと思います。

結局、統一教会の中で育ってきた私が心を開いて隠し事なく話ができるのは、両親を含む教会のメンバーしかいませんでした。

夫とも統一教会というつながりの中で出会い、ともに生きてきました。今回、幸いにも夫は統一教会を辞めるという私の考えに同意してくれています。両親や教会の友人もきっと理解してくれると信じています。しかし、それでも今まで通りの関係でいられるのかという不安は残ります。

私は、私が生きてきたこの統一教会というコミュニティを抜けるのがとても恐いです。

あなたの一番大切なものを捧げなさい

「あなたの一番大切なものを捧げなさい」という言葉があります。

これは統一教会ではなくても、色々な思想・宗教の中で多少ニュアンスや形を変えて使われている言葉だと思います。仏教で言うと「煩悩を捨てる」でしょうか。

もしこの言葉が「自分が最も執着している・囚われているものを捨てることで、最終的に救われることができる」という意味なのであれば、私がいま捨てるべきなのはきっと「統一教会というコミュニティに依存している自分」なのだと思います。凄く恐いけど、不安だけど、私はそれを捨てなければいけないのだと思います。

私はそれが子供達や家庭のためになると信じています。もちろん、統一教会を辞めたからといって全てが上手く行くわけではないと思います。そこは私たち家族にとってのスタートラインでしかないんだと思います。

それでも、子供達の未来を犠牲にするような選択を私は絶対にしたくありません。そんな生き方をしたくありません。

だから私は統一教会を辞めます。


※他の統一教会の信者の方に私の選択を強制するようなつもりは有りません。そんな力もありません。それぞれの家庭の状況や統一教会への向き合い方が有ると思うので、私の選択やここに書いた内容が誰にでも当てはまるとも思っていません。ただ、私のこの投稿を誰かひとりでも読んでくださり、家庭について、子供について、信仰について改めて考えるきっかけになればと願っています。

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