私にとっての付き合うという言葉の定義

相手のことが好きでも自分のことは犠牲にしたくないし、相手にも何かを犠牲にしてほしくない。
まあ人と付き合うから何も犠牲にしないというのは無理な話だ。時間もお金も多少は犠牲になってしまう。相手に友人が多かったら人間関係も含まれてしまうのだろうか。
けど、そういう話でなくて、例えば恋人がいるから極端に友達付き合いを減らそうとか、異性絡みを0にしようとか、休日は全部相手と過ごそうとかそういうことはしたくないからして欲しくない。そういうのは重いと感じるようになってしまった。なんとなく、私のために我慢してやっているんだという圧力を感じてしまう。始めは好意でそうしてくれてても、もともとそういう人でないなら限界がくるだろう。私には相手のために何か犠牲にできるものがない。

噓も方便。
異性絡みなんかは特にいくら相手のことを信用していても相手の異性のことまでは信用できないので、その辺は隠すなり聞かないなりすれば良い。
相手の全てを知ってていいことなんてない。いくら恋人だからって全ては背負えないし。友達だったら許せるけど、恋人だからこそ許せないこともあると思う。だからそういうのは自分の責任で処理して、できないんだったら我慢すれば?と思ってしまう。

ん?これって別に相手のこと好きでないのか?

でも、恋愛経験を積んでいくと理想と現実の違いに気づく。
盲目的に好きでなんでも犠牲にしたって終わるものは終わるし、そうやって依存してしまうと必ずどこかで問題は発生するし、なんか自分が自分でなくなる気がしてしんどいし、理想を押し付けると嫌な面を見た瞬間に簡単に幻滅する。
全部がぴったり合う相手なんているはずがない。そんな白馬の王子様的な相手を探してこの人はここがだめだから次探そうとかという風に夢を見続けるより、どうやったらうまく相手と関係を築けるか試行錯誤したり、もしくは良い関係を築けそうな相手を探す方が幸せに近いのではないかと思うようになった。

じゃあ、付き合うって何なの?

相手の生き方考え方を一番間近で理解しようと努めて尊重し合うこと、全く異なる人間同士がお互いに幸せで、関係を続けるために努力し合うこと、2人の間に起こる幸せなことも辛いこともを共有し合うこと、2人の間に起こる問題を乗り越えて成長していくこと、相手の嫌な部分もひっくるめて好きでいることかなと思う。お互いにとって1番の存在という保証が欲しいのかもしれない。また、幸せな結婚をするための練習といえば良いだろうか。
もちろん失敗しないのが理想だけど、付き合っている間に失敗をしたら次はこうしないようにしようと思えるし、こういう人は自分と合わないとかそういうことも学べる。少なくとも私は失敗しないと学べない。
セフレとも友達とも違う気がする。セフレは単にそういう欲求を満たすためという目的が強いし、あまり安定した関係は築けないと思う。友達も同様。つながりが弱いというか脆いというか。結局どちらかが好意を持ってしまうことがほとんどだと思うし。

少しドライすぎるだろうか。。。でももう盲目的な恋愛をするエネルギーは私には残っていない。

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