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能登半島地震から学ぶこと。人的リソースを最大限に活かす方法。

元旦に石川県で起きた、能登半島地震。

自衛隊や消防。他府県からの派遣の遅れも指摘されている。震災直後のデッドラインは78時間。倒壊した家屋の下敷きになった被災者の生存率は、78時間を過ぎると急激に低下する。

1月1日に起きたはずの地震。
今現在も、まだボランティアの受け入れ態勢が整っていない。SNSでは「不要不急の通行は避けてください」と、支援者に待機するよう、指示をするばかり。

リーダーシップに危機管理能力は必須だが、最悪の想像をする余り、あるはずのリソースを使いきれていない状況が発生しているように思えてならない。

デジタル化の際にも、しばしば見られるこの状況。ある程度のリスクは織り込み済みとして、断固進めていくくらいで調度いいと思っている。ただ、震災に於いては、現地は混乱した状況にあり、人命が掛かっているのだから頭ごなしに批判ばかりしたくない。そこで、鳥取西部地震での災害ボランティアセンターで活動した経験と、今思う事を書いておくことにした。「現状、果たして本当にこれで合っているのか?」根本を見直すキッカケになればと思う。


2000年。鳥取西部でマグニチュード7.3、震度6強の地震が起きた。家屋は半壊、全壊。山崩れが起き、電車は止まった。たくさんの人達が避難所に逃げ込んでいた。

テレビで災害ボランティアの募集をしていると言っていた。ネットで検索すると、米子の災害ボランティアセンターが出てきた。PCを使用しての事務仕事が出来る人を募集していた。これは行くしかないと思い、現地の情報収集を始めた。

現地の情報を調べるのだが、重要な情報はほとんど見つからない。アクセス情報や、現地のインフラがどうなっていて、何がないのか全くわからなかった。その反面、注意書きだけは大きな声で書かれていた。

「現地は何もないと思って行くのが基本」
「被災地は食料がないと思って行かなくてはならない。ボランティアは滞在する日数分の食事を持参すること」
「現地は混乱にあるのだから、自分がケガをして消防の足を引っ張らないように」

誰が書いているのか、そんな文言ばかりがそこにはあった。

私も災害ボランティアの経験がなかったので、全てを鵜呑みにして、3日分の食料を持っていくことにした。食べないことも考えて、プロテインバーなども入れた。


米子市ボランティアセンターに志望のメールを入れると、すぐに返信が来た。「PCを使える人がいないんです。ぜひ、お願いします。」高齢の方が多いのかなと思うと同時に、一体どんな事務仕事があるのだろうと不思議だった。返信メールには、センターまでの交通情報が記されていた。米子までの特急は復旧されており、被害の大きかった地域では徐行運転されていると。持ち物については記載がなかったが、とにもかくにもお世話にならなくていいよう、食べるものはやはり持っていくことにした。


特急列車に揺られていると、景色に異変が起き始めた。トンネルを抜けると、土砂崩れが起きた跡が見られ、お墓が複数倒れている。山合いにある家は半壊。瓦が落ちたであろう屋根には、既にブルーシートで覆われている家もある。列車は徐行運転を始め、ローカル線よりもっと速度を落として走行していた。

米子駅に着いて、歩いてセンターへ向かう。神戸の震災ほど悲惨な光景ではないことに安堵した。

センターはまだ新しいように見えた。これならまた揺れがきても大丈夫だろう。そう思えるほど、大きくて立派なセンターだった。

センターの事務所を訪ねると、そこには既に多数のボランティアの人達が滞在していた。「お待ちしてました!京都からわざわざありがとうございます!」丁寧に迎えられ、一通りセンター内の説明をしてくれた。

センター内には体育館があり、そこに被災者の皆さんが避難していた。子どもも高齢者も含まれていた。広い体育館のはずなのに、家族毎に距離を保つわけでもなく、皆固まるように身を寄せ合っていた。おそらくは、次々に起きる余震の恐怖心からだと思う。

事務所にいると、とにかく電話がよく鳴っていた。被災した人達から、ボランティアの手を借りたいと相談の電話が寄せられる。センターは被災状況を確認し、安全を確認した上で、ボランティアを現地に向かわせる。よくあるのは「屋根にブルーシートを掛けてほしい」というもの。倒壊は免れても、瓦が落ちてしまうと、雨漏りになる。高齢者が出来るはずのない高所作業。相談は当たり前のことだった。ただし、ボランティアは当然、素人。センターでは高所作業はお断りするのが常だった。だから、今回の能登半島地震でも、悪徳業者の詐欺が横行する。ブルーシートを被せるだけで20万。急いでなんとかしたい被災者は支払ったあとに後悔する。そんな報道を見る度、はらわたが煮えくり返る思いになる。


ボランティアの人達は8割が男性だった。年齢の幅も広い。全国各地から来ていた。キャンピングカーで来ている強者もいた。キャンピングカーでいつもボランティアに行くのだと言う。その人は、寝泊りも車でしていた。他にも、キャンプ用品を持って来ている人達も大勢いた。キャンプのスキルは、サバイバルに本当に役立つなと心底思ったものだ。

意外だったのは、頼まなくても毎回食事が振る舞われたことだった。支給された食料が十分にあったというのもあるが、現地にいてわかることは、「被災して機能を失っているのは一部地域」ということだ。打撃が少なかった場所では、平時のように店は開いている。ボランティアの人達の中にも、「ご近所の人」が複数いた。助けたいと思う人は、被災地の中にもたくさんいる。

寝泊りも、ボランティア宿泊用にセンター内の一室を提供してくれた。病院の大部屋のような部屋だったが、いくつか救護用のベッドもあった。ボランティアの男性達が、気を遣って私用に別室にソファを運ぶことを提案してくれたが、私はそれを丁重にお断りした。だだっ広い部屋に一人。その上、余震が日に何度も続いている。怖いので、ここで寝させてくださいと、男性陣に紛れて寝させてもらった。

ある日、事務センターに常駐している私を連れだしてくれた人がいた。カウンセラーと共に避難所を回るから、ついておいでと声を掛けてくれた。何か仕事を割り当てられたわけではなく、ただ単に「話を聞いてあげてほしい」とだけ言われた。

体育館の中には、心配な家族が避難していると聞かされた。小学生の女の子がいて、震災後一言も話さなくなったらしい。私の年齢が近いので、ぜひ一度声を掛けてあげてほしいと。

なるほど。そう思い、とにかく家族に声を掛けてみた。お母さんは意図をすぐに察知してくれ、笑顔で迎え入れてくれた。女の子は恥ずかしそうにしているようにも見えるが、うつむいたままだ。ある程度の表面上の情報をお母さんが話してくれたので、女の子にいろいろと質問をしてみる。が、一切反応はない。下を向いたまま、もじもじとしている。

あぁ。聞こえているが、心を閉ざしてる。

なぜかは分からないが、対処方法がわかった。別に相手に強要をするわけでもなく、でも相手が興味のあることを話し続ける。要所要所で、質問にも似た「?」を入れて、女の子の反応を見る。

お父さんもお母さんも、私の試みをわかったらしい。2人とも、私達の傍をそっと離れた。

お母さんが口にした、女の子が興味を持っている事。いくつか試したが、一つ、彼女の好奇心に火が灯った話題があった。片隅に置いてあった、雑誌。明星だ。ジャニーズが大好きな彼女。避難所にも明星を一冊持ち込んでいた。

ジャニーズに興味のない私。パラパラとページを捲りながら、知っている内容を必死で思い出しながら、一人話し続けていた。

この人ってあのCMに出てるひとやっけな?いや、違うな。名前なんやったかな。

ジャニーズ音痴の私を見た彼女は、下を向いたままおずおずと近づいてきた。体育館の地べたに座りながら、雑誌を捲る。お互いの距離が一気になくなったように感じた時、彼女の口から一言。「違う!」

ジャニーズ音痴にお叱りの声を掛ける、ジャニオタの姿があった。

そこからは、ペラペラペラペラと大好きなジャニーズの話を永遠としてくれた。笑いながら話す私達を、少し離れた場所から、大人達が驚いた様子をみせていた。皆、一様に彼女のことを心底心配していたのだと思う。帰りの車の中で、カウンセラーの方が「信じられない!」と何度も言っていた。
彼女はきっともう、大丈夫だと思った。


「聞くこと」被災地ではこれが非常に重要だ。私達はつい、「聞いちゃいけない。」「思い出させてはいけない」そう思ってしまう。でも、現実には真逆だ。「家、大丈夫でした?」「どうやって逃げたの?」そんな声掛けの方が重要なのだ。質問をして、黙る人はいない。みんな、どうやって命からがら逃げたのか、自分がどこにいて、家がどうなったかまで全てを吐き出してくれる。それを聞いた私達は、一緒にその恐怖を受け止める。それが共感であり、被災地で求められる傾聴だ。被災時だけに限ったことではないが、人は辛い想いをした時、他者に話すことで痛み分けをすることが出来る。話を聞いた相手が自分以上に怒ったり、悲しんだりする様子をみて、逆に申し訳なく思ったことはないだろうか。それは、期待以上に相手があなたの痛みを引き取ってくれたことに他ならない。人と人というのは、そういった相互関係の中にある。

体育館に避難していたおばあさんも、よく話した一人だ。私は時間が空くと、よく体育館に行っていた。地震発生時、たまたまトイレにいたおばあさん。家は半壊したが、トイレにいたことが幸いした。トイレは狭いスペースに柱が4本あるので、壊れにくいとされている。家具などが倒れてきて、閉じ込められるケースもあるが、このおばあさんは運よく自力で外に出ることが出来た。何度もこの話をしていたおばあさんだが、顔を合わせるうち、この話をしなくなっていった。気持ちが落ち着いてきた証拠だった。痛み分け。どこでも誰にでも出来るコミュニケーションだ。


事務所での仕事の一つに、現地メディアへの日報送信があった。災害センターが把握している、被災状況、避難者人数、問い合わせ件数や内容など。当時はFAXで毎日送信をしていた。

震災時には、こういった情報を、全て公開してほしいと思う。必要物資なども毎日ネット上に公開すべきだと思う。テレビで哺乳瓶や粉ミルクが必要だと聞くと、まるで全ての避難所で哺乳瓶や粉ミルクが必要かのように思ってしまうのが現実だ。最近でも、貧困女性が生理用品を買えないと報道され、学校では支給品の生理用品が余っている。希望する生徒たちがいないためだ。

Amazonが提供している、欲しいものリストをご存知だろうか。欲しい商品を登録しておくと、プレゼントしたい人がそれを贈ることが出来るというもの。個人的に使用されることもあるが、児童養護施設が活用していたのは、画期的だった。各地の施設が全く違う物を登録していた。扇風機を全ての部屋に置きたいとの書き込みもあり、20台もの扇風機をリクエストしている施設もあった。複数人が扇風機を贈ると、「あと◯台」と残りの必要台数が表示される。震災時にここまでは高望みかもしれないが、そこはマンパワーでなんとかなるだろう。

ほとんどの状況が刻一刻と変わる。私が最初に得ていた情報も、状況が随時アップデートされていないことがわかる。情報を共有するということは、政府だけでやるべきことではなく、手助けをしたいと思う全ての人達に公開した方がいい。

統制を取るというのは、人数が増えれば増えるほど難しくなる。ただ、組織が複数に渡る場合、情報を公開して自主性に任せることも一つの手だと思う。手を差し伸べたい人は大勢いる。通行してほしくない道路があれば、地図で指し示せばいい。ボランティアは夜間走行のみとするのもいいだろう。他のルートがあるとわかれば、彼らはリュックサックを背負って、歩いてでも向かうだろう。小さなボランティア志望の人達かもしれないが、彼らも大きな戦力だ。

何も使えるのは陸路だけではない。必要なものを各施設から更新出来るのであれば、「必要なもの」に「船」と書いてもいいわけだから。地元の漁師だって、喜んで協力してくれるだろう。

ただし、こういった無数の協力を得ていくためには、同一の情報をリアルタイムで共有し、ニーズを満たせる人と、被災地の人が直接打ち合わせが出来ることが望ましい。物資提供の声があれば、どこどこまで持ってきてほしいと、物資引渡場所を設けることだって出来る。


エンジニアはプログラムやデータを公開して、何の繋がりもない人達がプログラムを自主的に修正したり、改変したりしてアップデートしていく文化がある。中には悪用する人も出てくるのだが、そこは織り込み済みなのだ。そういった事態は、後から問題視され、そういった類のホームページが閉鎖されたり、サーバからバンされたりする。

最近では、ウクライナのデジタル庁が、敵がどこにいるのかを、一般市民が投稿出来るアプリを開発し、戦争もデジタル戦になったと話題になった。今回は震災だが、これに似たシステムで応用出来るのではないかと思う。被災状況の動画や画像を投稿したり、救助要請として、どこに何名取り残されている可能性がある等、現地の人たちが投稿出来ればいいと思う。

あまりにも杜撰な指示の出し方で、混乱を招くことはNGだが、正確な指示で迷惑を掛ける人が出て来た時に、大きな声で注意すればいい。エラーを出さず、60%のリソースで100%統制を目指すのか、60%統制で混乱しながらも100%のリソースを使うのか、の違いだ。

震災の時に、批判が来ない事の方があり得ない。報道を観た人達は、不安や悲しみを共感しているので、「早くどうにかしてあげてほしい」と願うからだ。その結果が、政府への批判として違う形で表出する。

かく言う、私もその一人だ。支援したい人達と政府が上手く噛み合っていない状況を見るのが、悲痛でならない。

取り留めもなく、過去の経験と今回の状況を観て思うことを書き連ねた。

どこかの誰かに、伝わるものがあればと願って。



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