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『墓守りバルザックの預かり:行方知れずの行商人』

 ある晴れた月夜の晩に笛の音が聞こえてきた。

 墓守りの自分は、墓地に併設された小屋に住む爺だ。棺桶に片足どころか半身まで浸かり、10年以上墓守りをしている自分からすれば、今更幽霊が出てきても驚きもなくなっていた。


バルザック


 街はずれで他に誰もいない墓地で、聞こえないはずの笛の音が聞こえてきても死んだ誰かが奏でているのだろうと普段なら気にしない。
 ただ、その笛の音があまりに耳心地がいい物だから、コップに酒を入れて表に出た。
 秋の夜長に笛の音でいっぱい呑むのも悪くないだろう。

 雨上がりの澄んだ秋空に半月が昇っている。
 墓地の端には無縁仏の集合墓地があり、傍には大きな楓が植わっている。すっかり秋色になった楓の下で、若い女が笛を吹いていた。

 鎮魂の美しい音の調べに誘われて、墓の隙間から白く半透明のオーブが漂っている。シンメモリーという名のそれは魔力と思いが結びついたときに現れる魔物の種のようなものだ。死んだ者の魂と呼ぶ者もいる。

 酒がなみなみと注がれたコップには、半月が映っていた。その月の光を吞んでいるかのように、酒が身体に染み渡る。
 笛の音はいつしか止まっていた。
 
「あ、すみません」
 女は笛を口から離して、こちらに謝ってきた。足は地面についているし、背景が透けているわけでもない。肌が真っ白で、頬は夜の寒さで赤く染まっている。よかった。死人ではないようだ。

「いえ、美しい鎮魂の音でした。どなたかのご遺族ですか」
「ええ、たぶん……」
「たぶん?」
「わからないのです。父はこのクーべニアの町から送られた手紙を最後に、行方知れずになってしまったのです」
「そうですか。では、まだ生きている可能性が……」

 そう言うと、女は首を横に振った。

「父は行商人でしたから。なにかあれば必ず私に連絡が来ます。最後の手紙にも戻ったらまた連絡すると書かれていました。どこかで山賊か魔物に襲われたか、もしくは山のどこかで亡くなっていると思います。もう二年になります」

 クーべニアから北には山脈があり、山里に行商に行く人たちは多い。山賊もいないわけではないが、山合には旅で傷ついた冒険者の療養所もあるので滅多に出ない。冒険者のギルドを敵に回すほど、山賊もバカではないはずだ。

「クーべニアには御父上の行方を捜しに?」
「いえ、ギルド職員として赴任してきました。冒険者ギルドの」
 言われてみれば、女は白いシャツに黒い職員用のスカートを履いている。
「父がいなくなったのは職員になるための試験の半月前でした。晴れて職員になったことを、父に報告したかったんですけどね」
「捜索の依頼はされたんですか?」
「ええ。ですが1年経っても見つかりませんでした」
 冒険者の誰かが依頼を請けたはずだが、山は魔物も多い。生きているかどうかわからない人を探すよりも、魔物を討伐する方が実入りはいい。捜索願は半年も経てば依頼書の束に消えてしまう。

「もしかしたら、父もここに眠っているかもしれないと……」
 女は無縁仏の墓を見つめた。

 長年の勘だが、この集合墓地に女の父親は眠っていない。もし、いればもっとシンメモリーが女にまとわりついているはずだ。突発的な死を体験すれば、未練が残る。近縁の者も納得できないのであれば、特に思いは強くなるだろう。

「おそらく、ここにあなたの父上はいません」
「じゃあ、やっぱり……!」
 そう言ってすぐに女は口を塞いだ。
「何か心当たりがあるんですか」
「私が王都の学校に通っていたので、父は苦労をさせたくないと無理な仕事をしていたかもしれません」
「具体的には?」
「御禁制の薬を扱っていたのではないかと……。年に一度会う時に、ほのかに薬の臭いがしたんです」
「もしかしたら、取引先の山賊とトラブルがあったかもしれない?」
「ええ。そうでもしないと私にあれほどお金を送ってこられるはずがないのです」
 最後の手紙が来る少し前くらいから、大金が同封されていることがあったという。

 彼女の父親は「いい仕事があったから」と言っていたが、内容については「いつかわかる」と教えてくれなかったという。

「その『いつか』はとうとう来ませんでした」
「父親が本当は何者で会ったか知りたいですか?」
「はい。私の晴れ姿のために頑張ってくれていたのはわかります。でも、もし悪事を働いていていたのなら、被害者に申し訳がない。父が何をしていたのか知りたくて、赴任希望を出したんです」

 彼女の吐く白い息が、暗い墓地を振るわせているようだった。墓地に潜むシンメモリーが思いを受け取ってしまった。

「その一件、この爺めに預からせてはもらえませんか」
「え、墓守りのあなたに」
「これでも、以前は冒険者見習いのようなことをやっていたこともあります」
 自分の冒険者カードを見せながら微笑んだ。
「今は、誰もやりたがらない忘れられた事件を請け負ったりしているんです」
「そうですか……」
「もちろん、成果は上がらないかもしれませんがね」
「もともと誰もやらない依頼ですよ」
「時間のある爺向きです」
 そう言うと、女は少しだけ笑った。

「では、お願いいたします」
「承りました」

 女の名前はアンネ、父親の名前はハロルドとだけ聞いて、町まで送り届けた。

 翌日、副業の古道具屋に行き、準備を始めた。行商人のように肩当付きの服を着て、蓋のある籠を背負い、腰に元主人から貰った切れ味の鋭い刀を差す。魔物除けの薬は有名な駆除会社の物を使い、音爆弾や閃光玉なんかも予備で持って行く。お金は少し多めに持って行くか。

 山はもっと寒いから厚手の上着も持って行こう。手拭いは多めに。
 古道具で売れない鉄瓶とコップも籠に入れておく。休憩は大事だ。お茶の葉がどこかにあったかな。せっかくだから新茶を買っていこうか。

 特に急ぐ仕事でもなく、お金のためでもない。
 準備ができたら、近所にある金物屋の倅に古道具屋の店番を頼む。元冒険者たちも仕事としてやってくることはあるが、なかなか居着いてはくれない。冒険者として再起するか諦める者の寄り道として、古道具屋は始めたのでそれでいい。

 町の城壁を出たところに、行商人たちの市が立っている。月に一、二度あったが、秋のワインが出荷され始めてからずっと立ち始めていた。
 旬の名産品があると、それだけで町は賑わう。

 市場も、香辛料から外国から取り寄せたというピクルスやジャムなども置いてある。タバコや砂漠で咲く薬草なんかの店まで出ていた。

「おや、バルザックさん。なにか欲しいものでもあるのかい?」
 以前うちの古道具屋にいて、行商人として再起した元剣闘士が声をかけてきた。顔も体も傷だらけだが、悪い人相の方が売れるものがある。

「繁盛しているようで何よりだな。ビクター」
「そうでもないさ。なかなか魔物の素材は使い方を見せないと売れなくてね」
 傷のある男が取り扱っているものなら確かなものだろうと思うもので、行商人を始めた頃は繁盛しているように見えた。今は景気も悪くなり、実演して見せないと売れないらしい。

「このマンティコアの汗を魔物がひとたび嗅げば、1年は鼻から臭いが取れないという代物。害獣の被害が多い農場主にはもってこいさ。逆に、このアルラウネの香水は、どんな男でも寄ってきてしまう。あまりに効果があり過ぎて、これを使った娼館はその日のうちに押し寄せた男たちによって潰されちまった逸話まである。ここにあるのはローズの香りを足して、効果を下げているくらいでね……。ああ、どうも毎度あり!」

 実際に、何に使うのか見せれば飛ぶように売れていく。

「お香を取り扱っている行商人は限られているかい?」
 店先の商品がなくなったタイミングで聞いてみた。
「ワインの香りを楽しみに来ている旅人からすれば、余計な匂いだからね。うちと、この通りの裏手にあるハーブ売りの婆さんがいる。もう一軒あったんだけど、ここ1、2年は見ないな」
 きっとそれがハロルドだ。

「その行商人は、山の方に行かなかったかい?」
「ああ、行っていたかもしれない。山の療養所でお香が流行っていると聞いたことがある。今はどうだか知らないけどね。ハーブ売りの婆さんにも聞いてみようか?」
「頼む。ちょっと人捜しをしていてね」
「なんだ、依頼か」
「金にはならんぞ」
「そういう依頼の方が、後で大仕事がやってくるからなぁ。ちょっと待っててくれ。婆さんに紹介するよ」

 ビクターはさっと店を畳んで、ハーブを並べている婆さんのもとに連れて行ってくれた。

「療養所でお香を流行らせたのは私だよ。それをハロルドの奴が一手に扱い始めちまって。それから……、それから、あいつはどこかに消えちまったんだ」
 婆さんにとってはハロルドは商売敵だったはずだが寂しそうだ。看板には『ご禁制お断り』の文字が書いてある。

「気のいい商人でね。利に敏いから、すぐに販路も開拓しちまう。お香と一緒にハーブも扱った方がいいって言ったのはあいつなんだよ。余計なことをしなくても真っ当にやっていればいいって、こんな看板まで作ってくれた。まったく、どこで眠っているのやら……」
 ハロルドは仲間内でも好かれていたのか。

「冬になる前に届けないと山も入れなくなるから、ビクターに頼まないとね」
「俺より冒険者を使ってください。山の方は得意じゃないから」
 ビクターは曲がらない膝を見せていた。

「だったら、自分が届けますよ」
「そうかい?」
「その代わりに茶葉を少し融通してもらえませんかな」
「構わないよ。売るほどあるからね」

 缶に入ったハーブと一緒に、小袋で貰った茶葉を籠に入れて、ビクターにお礼を言った。

「助かったよ」
「こんなことでよければいつでも。大口の仕事があれば教えてください」
「ああ。お香がまた取引されるかもしれないから、取引先を決めておいた方がいいかもしれない。まぁ、墓守りの言うことだ。話半分に聞いておいてくれ」
「わかりました」

 それから、すぐに町の北側まで回り、そのまま街道に抜けて、山道へ向かった。
 魔物も多いが、魔物除けの薬をたっぷり染み込ませた匂い袋を腰にぶら下げ、馬車が通れない曲がりくねった道を登っていく。

 小さな鳥の鳴き声がするうちは、獣はそれほどいない。落ち葉が溜まる道に雨水がたまっていて滑ってしまう。
 湧き水の通り道には壺が置かれ、山道を進む者の喉を潤すことが出来るようになっていた。以前来たときは垂れ流しているだけだったが、登る人が増えれば気を遣う者も出てくる。


山を登るバルザック

 
 さらに進むと日の光も届かないほど、木々が鬱蒼と生い茂って肌寒くなってきた。
 厚手の上着を持ってきてよかった。

 休憩をしようと沢に下りていくと、川原に魔物の糞がコロコロ落ちている。ジビエディアという鹿の魔物のものだろう。大人しく、冒険者が山に入って狩るなら、この魔物の依頼を請けるだろう。ただ、もちろん魔物なので大きいものになると体高が家の屋根も程もあり、角で突かれれば即死だ。

 周囲に気を配ってみたが、魔物の影は見えない。
 枯れ枝で火を焚き、鉄瓶をかけて川の水でお湯を沸かす。茶葉の袋を開けると一気に香りが広がった。

 ガサッ!

 近くの藪が揺れる。
 咄嗟に刀を手に取った。

「こんにちは」
 ボロボロの服を着た男が蓬髪に枝や葉を絡ませて現れた。傷だらけで泥だらけだ。
「こんにちは。って、あんた大丈夫か?」
「すみません。この先の療養所の者なんですけど、キノコを取りに来たら迷ってしまって。道はわかりませんか?」
「ここを上がったところだ。とりあえず、お茶でも一緒にどうだ?」
「よかった。いただきます。ひどい目に遭った」
 そう言いながら、男は顔に付いた泥を沢の水で洗っていた。
「ああ、髪も洗った方がいいぞ」
「そうですね。いや、こりゃ酷い。服も洗った方がいいな」
 ようやく髪の毛が、鳥の巣状になっていることに気づいたようだ。

 男が身体を洗っている間に、お湯が沸いた。茶こしに茶葉を入れて、ゆっくりコップに茶を注いでいると、笛の音が聞こえてきた。

「鳥ですかね?」
 全身をずぶ濡れになった男が音のする方を見た。
「いや、笛の音だろう?」
「やっぱり笛ですか。ここ最近、聞こえるようになって気味が悪いと療養所の皆言ってます」
「前は聞こえなかった?」
「そうですね。この山には、俺たちしかいないはずですから」
「山里に人がいたんじゃなかったかい?」
「山里にはもう誰もいなくなってしまったんです。高齢化が進んで、若い奴らは町に行かないと仕事がありませんから。山賊も、金にならない場所にいてもしょうがないといつの間にか姿を消していて……」
 近くの山のことなのに、まったく知らなかった。最近は、技術が進むのも早ければ、衰退するのも早い。爺にはついていけなくなったのか。

 一段と笛の音が大きくなったかと思うと、消えてしまった。

「魔物の仕業ですかね?」
「わからない。死者の声かもしれないよ」
「怖いこと言わないでくださいよ」
「すまん、すまん。ほら、お茶を飲んで落ち着いてくれ」
「ありがとうございます」

 男はタロベェという名で、以前、歩荷をやっていたという。山へ荷運びをする仕事だ。

「こりゃ、美味しい茶だ。南部の茶ですかね?」
「そうかもしれない。君はずっとクーべニアなのかい?」
「いえ、アペニール出身です。開国で外に出されて、行商人や冒険者の方々と仕事をさせてもらっていたんですがね。クーべニアの西の方で魔物に襲われてから、仕事と聞くと足が出なくなってしまいまして……」
 今は山間で療養しているという。
心の問題は、原因がわかっていてもなかなか治りにくい。過去は戻らないからだ。

「そりゃあ、大変だな。山は今でも好きなのかい?」
「ええ。好きです。背負子を背負うのも全然問題はない。ただ、何かの拍子に仕事と思うと、もう一歩も動けなくなってしまう。先日、雨降りの日があったでしょう?」
「もしかして、あの雨降りの日から遭難してるのかい?」
「そうです。キノコを採るためと思えば、なんてことはなかったんですけど、これは療養所の皆の食事になる仕事だと思ってしまった途端、動けなくなりまして。雨が上がり夜が明けて、ようやくこれは遭難だと思い、キノコが入った籠も放り出して駆けだしてきたというわけです」
 人がなににトラウマを抱えているかはわからない。むしろこうして喋っていられるだけ、症状は軽い方なのだろう。

「なかなか一人で出歩かない方がよさそうだね」
「一緒にキノコを採っていた薬師も心配しているかもしれません」
「よし、じゃあ、一緒に療養所まで登ろう」
「お願いします」

 コップを沢で洗って冷めた鉄瓶を籠にしまい、タロベェと共に山道を登る。タロベェは濡れた服を乾かすために半裸だが、それほど寒くないという。

「獣人ですから、寒いのは慣れてます」
 やせ我慢をしているが、唇が紫色になっている。
 自分の上着を着せてあげると、「すみません」と謝っていた。

「なんでもそうだが、無駄な嘘はつかない方がいい。特に療養中はね。難しいのは自分に嘘をついてしまうことなんだ。だから頑張りすぎないことだよ」
「すみません」
「気にすることはない。お茶で身体も温まっているから。でも、少し急ごう。山の天気は変わりやすいから」
 
 木々の隙間から見える空には雲が立ち込めている。午後にはひと雨降りそうだ。

 山道には丸太で階段が作られているところが多い。クーべニアのこの山間にも多いが、メンテナンスが間に合っていないから、ところどころ崩れていた。人がいなくなると道も崩れていく。道がなくなれば、人も来なくなる。

 もしかして療養所も経営難か。
 冒険者ギルドの下部組織として運営されていたはずだが、最近は冒険者に無理をさせるような依頼はない。魔物が出ても、多人数で上位ランクの冒険者たちが仕事をすることになっている。育成も力を入れているところが多いから、ケガ人も少ないと聞いた。

 療養所の役目を終えたとも言える。

 山道を登り、小さな山の峰を通って、さらに山深い場所へ歩を進めた。

「雨のにおいがしますね」
 タロベェはこちらに上着を返してきた。自分の服が乾いたのだろう。
「バルザックさんは健脚ですね。歩荷の俺でも急いだので、追いつけないと思ってたんですが……」
「爺も意外とやるだろ。町でもそれなりに鍛えられるんだ」

 冒険者ギルドの依頼を請けていると、自然と体の動かし方はわかってくる。あんまり疲れたなんて言っていると、元主人に笑われてしまう。

「見えてきました」

 大きな丸太で作った門が見えてきた。
柱には魔物除け用にヒイラギの葉が刺さっている。

 門をくぐれば、大きな長屋が経っている。

「タロベェさん!」

 紺色の帽子をかぶったエルフの女性がタロベェに気づいて、駆け寄ってきた。

「心配したんですよ!」
「申し訳ない。沢の畔で、急に病が出てしまいまして……。このバルザックさんに助けていただきました」
「いえ、自分は何もしていません。お茶を飲もうとしたら、タロベェさんが藪から出てきたんで一緒に連れてきてもらっただけです」
「あら? 入山希望の方ですか?」
「いえ、人を捜しておりまして」
「人捜しですか……」

 エルフは途端に難しい顔をした。

「とりあえず、どうぞ。雨が降ってきますから。タロベェさんは身体を洗って来てください!」

 タロベェは奥に駆け出し、自分は長屋の奥に案内された。

「どうぞ、こちらでお休みください」

 そう言って、エルフがドアを閉めた途端、ザーッと雨が降ってきた。

「山の天気は変わりやすいですね」
「本当に」

 エルフと二人、しばらく雨を見つめた。

「この療養所には長いんですか?」
「3年ほどでしょうか。元々は錬金術師として、冒険者の真似のようなことをしていたんですけど、上手く馴染めず、こちらで厄介になることになって……」

 メープルという名の女性は、冒険者として日々仲間のために薬や毒を調合していたが、魔物と対峙するわけではなく後方支援をしていたという。


「あまり役に立っていない自覚はあったのですが、仲間のランクが上がったことを機にクビになりまして、途方に暮れていた時にギルドから要請があって、こちらの療養所で働くことになったんです。すみません、私の話なんて……」

 山には人が少ないから自分のことを語ってしまうのだろう。

「捜している人というのは……?」
「二年前までこちらに来ていた行商人の方なんですけど」
「二年前ですと、まだ、里にも人がいましたし、この療養所にも人の出入りが多かったので、特徴などがわからなければ難しいかもしれません。どんな方ですか?」
「お香を売りに来ていた男性なんですけど……」
「ああ、そう言えば、お香が流行っていた時期がありますね。傷を直すときに膿が出ることもありますし、自分一人では便通もままならないという方もいますから、臭いに関しては意外と気を遣うことがあるんです。行商人の方のお名前はなんでしたかね?」
「ハロルドさんです」
「ああっ! そう! ハロルドさん! いつの頃か来なくなってしまったんで、こちらの商売では実入りが少なくなったと思ってたんですけど……」
「こちらの山でいい商売を見つけていたらしいです。なにか覚えてませんか?」

 メープルは天井を見上げながら思い出そうとしてくれた。

「二年前は山賊の襲撃があったりして、忙しかったんですよ」
 そんな襲撃があれば、すぐに冒険者ギルドが対応するはずだが、ここ二年の間に山賊の討伐依頼を聞いたことがない。
「冒険者ギルドに依頼は?」
「もちろんしましたよ。ただ、ここの療養所にいた人たちでアジトを壊滅させてしまったんで、すぐに依頼は取り下げました」
「なるほど、それは目に付かないわけだ。療養されていたのは有名な冒険者の方ですか?」
「ええ、王都では有名な方のようです。魔体術を使うカロリーナという女性で、山賊を次々と壊滅させていきました」
 聞いたことはない名だが、隠れた猛者なのだろう。
「ここにはまだ?」
「いえ、山賊を壊滅させた後、療養明けとなってすぐに旅立ちました」

 ザーッ!

 再び、雨脚が強くなった。

「今日は帰れなそうですね」
「すみませんが、一晩雨風のしのげる場所に泊めてもらえないでしょうか」
「もちろん、構いません。どうぞ、この部屋をお使いください。わかっているかと思いますが、どこで土砂崩れが起こるかわかりませんから、外には出ない方がよろしいかと思います」
「わかりました」
「後ほど、ご飯をお持ちします」
「お気遣い感謝します」
 お茶はあるが、食事は山のものを食べようと思っていたので、用意してこなかった。最悪、茶菓子としてクッキーは用意している。タロベェと食べようかとも思ったが天気が心配だった。

 メープルは仄かに薬品の香りをさせながら、土砂降りの中を駆けだしていった。風魔法の得意なエルフなら、すぐに衣類も乾かせるのだろう。

「寝床も食事も、一人増えたくらいでは問題ないということか」

 経営難というわけではないのかもしれない。
 人の気配が少ないので、それほど療養所にはいないのだろう。それでも物資はギルドから必ず届けられることを考えると、余っているのか。

 できれば人の出入りと、食料の帳簿が見たい。
 
 部屋の隅に籠がいくつか置かれている。療養中の内職だろうか。木箱なんかもあるが、薬用の箱だろうか。薬用の小瓶もある。自分がやっている薬屋は、以前は薬屋だったので、同じような小瓶が所狭しと並べられていた。
こんな山の中に瓶を作るような炉があるのか。材料を運ぶのだけでも大変だろう。過去の療養している者たちが持ってきたのか。

 自分は犬の獣人なので鼻が利く。炊事場から、スープの匂いがしている。ピクルスの匂い。パンの焼ける匂い。雨の臭いに紛れて、いろんな匂いがする。
 それよりも、やはり魔物除けで使う辛い香辛料の匂いが強い。
 
 長屋ではなく、少し離れたところに薬の工房があるのか。
 森のなかをじっと目を凝らしてみたが、暗い影と木々で全く見えなかった。

 風呂もあるようで、石鹸の香りをさせたタロベェが炊事場に向かってかけていくのが見えた。

 雨足が弱くなっている。

 すぐにタロベェは手拭いを頭にかけて、何かを持ってこちらに走ってきた。

「いやぁ、なかなか止みませんね」
 タロベェは剃りたてのつるりとした顎を見せて言った。

「髭も剃ったのかい? 男っぷりが上がりましたな」
「ええ。山にいるとあまり気を遣わないんですが、時々剃らないと町の生活を忘れそうで。あ、これ、一緒に食べましょう。猪肉サンドです。ソースが美味しいんですよ。野草は口に合うかわかりませんが……。こっちは薬草スープで、初めは美味くはないですが飲んでいるうちに苦みが癖になってきます」
「ありがとう。いただきます」

 まずは猪肉サンドから。

 がぶりと噛むと、猪肉の肉汁がジュワッと出てきて、口の中に広がる。
 味付けのソースも美味いが、野草が固いし、どこかで嗅いだことのある匂いがする。口の中から取り出して見せると、やはり眠り薬に使う薬草だった。

「やっぱりダメでしたか?」
「これは眠り薬の葉だ。療養する者にはいいかもしれないが、自分が食べたら、明日の夕方まで寝てしまうよ」
「そうでしたか」

 スープも確かに苦いが、刻んだにんにくと山椒が入っていて、ピリリと旨い。ただ、酩酊状態にする木の実も入っている。香りを嗅ぐと、幻覚を見るヒキガエルの毒の匂いが微かにする。

「やっぱり口にあいませんでしたか?」
「いや、これはちょっと飲まん方がいい」
「なにか腐ってましたか?」
「そうじゃない。毒が入っている」
「毒ですか!」
「どうやら、自分に何もさせたくない者がいるようだ。誰が作ったんだい?」
「メープルさんが……」
「タロベェさんは、毎日これを食べてたのかい?」
「毎日ってわけじゃないけど……。眠れない日が続いたときなんかは猪肉サンドが出てきたなぁ。スープは……、スープは……」

 タロベェは何かに気が付いたらしい。

「何かが起こる前の日に出されていた?」
 タロベェは深刻な表情で頷いた。

「小声で喋ろう。今さら敬語もいらない。何が起こる前に食べたんだい?」
 耳が長い地獄耳のエルフに聞かれるとマズい。すでにドアの向こうで足音がしている。

「夢を見る日だ。バルザックさんは、なにか勇者のような英雄になる夢を見たことはあるかい?」
「あまりないな。幼い頃は見ていたかもしれない」
「俺の場合は、自分が大きな熊になって暴れまわっている夢を見るんだ」
「変身願望ってやつか」
「そうなのかもしれない。その夢は、毎回違う場所で暴れまわるんだけど、最後は必ず一緒に仕事をしていた人を突き飛ばしてしまうところでいつも終わるんだ」
「熊なのに突き飛ばすのか?」
「そう。おかしいだろ? 目が覚めると汗でシーツがぐっしょり濡れている。その夢を見た翌朝、土砂崩れがあったり、里山に魔物が出たって言われるんだ……。もしかして、本当に俺が寝ている間に熊になってるのかな」
 幻覚とトラウマで記憶が混乱しているのだろう。
「大丈夫だ。そんな効果はこのスープにない。せいぜい幻覚を見るくらいなものさ。それに、もし自分が変身したら、耳を確認するといい」
「耳?」
「そう。目の横にあるのか、それとも頭にあるのか。両方あったら変身していると考えてくれ。もしもウェアベアに覚醒しても、自分の身体のコントロールを失うわけじゃない。ちゃんと自分を心を体の中心に置くんだ。そうすれば誰かに何をされても左右されない」
「わかった」
「さて、この療養所には何人、人がいるかな?」

 入口まで行って刀を構える。
「7人だ。俺以外、皆元冒険者のエルフだ」
「移民か……」

 ここ最近、東の大陸で内乱があったと聞いた。亡命してきた者たちか。
 ドアの向こうの森に4人。反対側の窓の外に4人で、この部屋を囲んでいる。
 隣の部屋にも人の気配がある。

「おかしい。足音が7つより多いな」

 タロベェとの会話を聞いて殺すことにしたのか。だとしたら、タロベェはどうして今まで生かされてきた。これまでにいつだって殺せたはずだ。
 タロベェは敵か。
 いや、怯え方に嘘がない。
 この療養所は隠れ蓑に使える。タロベェを使って、冒険者ギルドから援助を受け取っていたのか。

 雲の切れ目から月が覗いている。
 猪肉のせいなのか、血が駆け巡っている音が耳の奥で聞こえてきた。
腰の刀をするっと抜いた。


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