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バトルグランド 

●途中まで試し読みでお楽しみいただけます。続きは有料となりますので、よろしくお願いいたします。
「バトルグランド」は、Amazon Kindleでも販売しています。

●光一
 ベッド脇にあるサイドテーブルの上で、スマホが激しく振動した。
 重い身体を起こし、スマホに手を伸ばす。
「お兄ちゃん?」
 妹の五月だ。
「どうしている? 大丈夫? 玲子さんが家を出たって聞いたけど、本当なの?」
 返事をしようとしたが、喉から出てきたのは掠れた音だけだった。玲子が出て行ってから一週間、誰とも話をしていない。声が出てこなかった。
「もしもし? お兄ちゃん?」
「……大丈夫だ」
 絞り出した声は乾いていた。
「玲子は……出て行った……」
「何があったの? 大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「ああ……腹が減ったら、とりあえずあるものを食べているよ」
「病院は?」
「近所の病院には行った」
 発作を起こしてからすぐ、玲子が知人から聞いたという心療内科に行こうとした。だが、電車で一時間以上かかるその病院に行く途中、光一はひどい発作を起こして、結局家にとって帰すことになった。
 徒歩で行ける近くのメンタルクリニックは、予約が出来ない。一時間以上待つことになり、処方された薬も期待したほどの効果を感じられず、足が遠のいた。
 鈍い痛みが頭の奥に張り付き、身体は重苦しくかったるい。何もやる気が起きなかった。
 気分を変えた方がいいという医者や玲子の薦めで、近くまでならと何度か外出を試みたが、マンションのエレベーターの扉が閉まると脂汗が出てきて、激しい動悸が始まる。乗り物に乗ろうものなら、吐き気と腹痛が始まった。
 通院するのもきつい。おのずと、外出を厭うようになった。
 そして、家に引きこもったまま数か月が過ぎていた。
「……玲子が愛想を尽かして出ていくのもわかるよ……何もしないで寝てばかりで、挙句に会社も辞めてしまった……」
身体が震え、嗚咽が漏れた。
「どうしていいか、わからないんだよ……玲子が出ていった時も何も言えなかった……自分になにが起きているのかわからないんだ……どうにもできないんだよ……どうしちゃったんだ? 僕に何が起きてるんだ? なぁ、五月、僕はどうしたらいいんだ?」
 夕日が差し込むベッドルームで、光一はスマホを持ったまま、声をあげて泣き出した。

 それは突然起きた。
 小雨の降る六月上旬、仕事で外出中、何の前触れもなく激しい動悸と呼吸困難に襲われて意識を失い、救急車で運ばれた。精密検査を受けたが、身体に異常は見られなかった。
 二日間の入院の後、帰宅途中の電車の中で再び発作が起き、そのまま病院へとって返した。
 何が起きたのかわからず戸惑う光一に下されたのは、重度のパニック症候群という診断だった。
「過度のストレスや疲労が原因になることもあります。自覚できないうちに、そういったものが蓄積して、爆発してしまう事もあります」
 医師の言葉に、思い当たるふしはいくらでもあった。
 職場はアメリカIT企業の日本法人だが、一年前に社長がアメリカ人から日本人に変わり、開放的だった社風が一変した。
ワンマンな社長のやり方が横行し始めて、組織の風通しが悪くなり、意味のない会議が増えた。上層部も社長の顔色をうかがうようになり、それまで必須だったアメリカ本国へのレポートは止められたのを手始めに、顧客重視という体裁で取引先の言いなりになる事が優先されるようになった。
 現場にまでは影響はあるまいと思っていたのは甘かった。利己的で抜け目のない営業担当の駒田と取引先の尊大な責任者が、それに乗じて好き勝手を始めた。
 気づいた時にはもう、光一が担当するプロジェクトにも支障が生じ、問題が起きていた。
 営業関係や調整は、駒田が担当している。光一が知らない、あるいは知らされていない所で、次々と問題が発生し、チーム全員が翻弄された。スタッフは疲弊し、進捗は遅れに遅れ、事態をなんとか収拾し、プロジェクトをまとめようとする光一の努力は空回りして、状況の改善には至らなかった。
 疲れは溜まり、精神的には厳しい状態だったが、会社の方針には従うしかない。
 駒田の事は好きになれないし、厄介な人間だと思ってはいたが、そもそも大きなプロジェクトの契約を取ってきたのは駒田だ。クライアントとの折衝に、現場の人間が口をはさむ事は出来ない。
 仕事そのものは好きだったし、納得のいく給料は得ていた。結果を出せばボーナスの額も上がる。責任者である以上、過度のストレスも仕事のうちだと考えていた。その分、プライベートでは仕事を忘れ、楽しく過ごせばいいし、切り分けは可能だ。
 妻の玲子とは、友達の紹介で知り合った。
 美しく、華やかでソツのない性格の玲子は、いつも人の輪の中心にいた。平凡で地味な自分には遠い存在だと思っていたが、交際のきっかけは玲子からだった。
「なんで僕だったんだ?」
 その問いに、玲子は艶やかな笑みで答えた。
「私が知っている中で、あなたが一番誠実で真面目で、私の事をそのまま受け入れてくれると思ったから」
 彼女と出会い、夫婦となったことは、人生で最も素晴らしい出来事だと思っていた。もともと社交的ではないし、異性からモテたという経験もない。そんな自分を玲子が選んでくれたことを、奇跡のようにも感じていた。
 しっかりとした価値観と美意識を持つ玲子は、どんな小さな選択にもこだわりを見せ、勉強や人脈作りにも努力を惜しまない。キャリア磨きにと英語を学び、ワインに興味を持てば、専門家のコースを受講した。SNSに掲載する写真のために、撮影技術を習いに行った事もあった。
 玲子のSNSのアカウントは、洗練されたライフスタイルを発信する女性として人気を呼び、三万人のフォロアーがいる。
 流行にも敏感で、人気のカフェやイベント、話題のレストランには光一を伴って訪れた。もともと自分は、そういうものに興味があったわけではない。だが、玲子とふたりで過ごす時間は楽しかった。時折重苦しい疲れを感じることもあったが、四十代を前に、体力の衰えもあるのだろうと考えていた。
 だが突然、光一の身体は、それまでの生活をすべて拒絶した。すぐに落ち着くだろうと思われた発作は、一週間の休暇が明けても、症状はおさまらなかった。
 何度も途中で下車しながら、這うように出社した光一を見て、上司がその場で休職を進めた。
「ひどい顔色だよ。無理しないで、しばらく休んだ方がいい」
 家にいれば発作は起きないが、身体は常に重苦しく、何もやる気が起きない。何度か自分を奮い立たせて会社に行こうとしたが、ひとたび外に出て、電車やバスに乗ると、発作は容赦なく襲ってくる。
 外出する事が恐怖となり、家から出られなくなった。
 何もしないで、ただベッドに横たわる日々が続いた。
 そうしているうちに、最初は心配していた玲子も、次第に苛立ちを隠さなくなっていった。
「疲れがたまっているだけなのよ」
「言い訳ばかりしていないで、もっと自分から治そうって気持ちにならないの?」
「仕事しないままで、マンションのローン、どうするつもり?」
 ベッドの横に立ち、怒りと不安をぶつける玲子に、何も言えないまま、布団をかぶる日々が続いた。
 そして、休職して三か月経った九月初め、光一は退職を決めた。これ以上会社に迷惑はかけられない。そう思ったが、一番の理由は、光一自身が自分の状態に絶望してしまっていた。
 辞表を出すと告げた次の日、玲子は家を出て行った。
「あなたひとりで大変なわけじゃないのよ。病気を治そうって気も見せないで、ただ家にいるだけ。挙句に会社まで辞めて、これからどうしようって言うの? いい加減にしてよ。何よ、あなた、逃げているだけじゃないの」
 怒りを露わにする玲子に、光一は何も言えなかった。
 そして、田町のタワーマンションにひとり取り残された。

●あかね
「お先に失礼します」
 定時の五時半と同時に立ち上がった加賀見あかねに、対面に座っている堂島愛美が視線を向けた。十分ほど前に、営業の関口から、帰社が六時を過ぎると連絡があった。アシスタントの愛美は彼の帰りを待つのだろう。
 そこまでする必要はないと思うが、愛美は必ず彼の帰りを待つ。
 あかねはそのまま、何も言わずに席を離れた。周辺で、定時に上がる社員はあかね以外いない。定時退社をよく思っていない人間がいることは知っているが、気にするのはとっくにやめた。
 エレベーターを待っていると、人事部の内藤佐和子がやってきた。数少ない定時退社仲間だ。仕事の後、佐和子は大学院で勉強している。そのことを知っているのは、社内でも数人しかいない。
 飛鳥製菓は、日本ではその名を知らぬ者はない有名な菓子メーカーだ。スーパーやコンビニには、飛鳥製菓の商品が数多く並び、毎日テレビにCMが流れている。 会社は昭和三十年代創業から今まで、有楽町にオフィスを構えている。菓子以外に、薬品やバイオテクノロジー分野でも業績は好調で、大手優良企業のひとつにあげられていた。定年退職まで働き続ける社員も多い。だが、古い慣習は未だ色濃く残っており、女性管理職はほとんどおらず、女性社員の多くは事務職だ。
 あかねも、都内の女子大を卒業後入社、化学薬品部に配属されてから三十二歳の今まで、異動もなくずっと営業事務をしている。
 居心地は悪くない。福利厚生がしっかりした、女性でも定年まで働ける会社はむしろありがたいくらいだ。だが、良くも悪くも古い体質のままなためか、結婚や出産を機に退職する女性は未だに多い。
 三十代以上の女性在職者の多くが独身だ。ほとんどの女性社員は、キャリアを磨き、スキルを身に着けてステップアップするという考えとは無縁だ。資格やスキルを身に着けたところで、給料は変わらないし、事務職には出世も関係ない。やるべき事をきちんとやっていれば問題ない。社風ものんびりしているからか、佐和子のように目標を高く持ち、努力する人間は珍しい。
「学校ですか?」
 尋ねたあかねに、「そう、急がないと遅れちゃう」と答えた佐和子は、エレベーターの扉が開くやいなや、「お先に」と言って、重そうなトートバッグを肩に走り去った。
 その後ろ姿を見送りながら、あかねは深いため息をつく。仕事と勉強に追われる佐和子はいつも忙しそうだ。だが、走り去る後ろ姿は活き活きとしていた。自分の未来に希望を託している姿は、輝いてみえる。
 私はあんなふうにはなれないな。
 佐和子を見ると、いつもそう思う。
 佐和子が去った方向をしばらく見つめていたあかねは、もう一度、小さくため息をつくと、くるりと方向を変え、駅近くにある家電量販店に向かって歩き出した。
 今日は、待ちに待ったゲームの最新作の発売日だ。
 三年年半前からプレイを始めた『バトルグランド』は、FPS(ファースト・パーソン・シューター)と呼ばれるオンライン対戦ゲームで、全世界に二百五十万人のプレイヤーがいる、PS4のビッグタイトルゲームシリーズだ。毎年秋に新作が発売され、世界中で話題となる。
 あかねが『バトルグランド』を始めるきっかけとなったのは、以前つきあっていた秀樹だ。
 秀樹とは合コンで知り合った。ずんぐりとした容姿は好みではなかったが、朴訥とした雰囲気に好感を持った。
 その後何度か会って、つきあってほしいと言われ承諾した。
 恋愛感情があったわけではないが、自分のような地味で、とくに目立って良いところがあるわけでもない女に交際をもちかける男は、もう現れないかもしれないと思った。二八歳という年齢で、結婚をあせる気持ちもあったのは否めない。
 結婚するのなら、真面目な人がいい。単純にそう考えた。
 だが、つきあって一年が過ぎた頃には、自分の浅はかな考えを後悔するようになっていた。
 秀樹は真面目だが、逆に言えば、それだけの男だった。世の中の情勢や問題には、さっぱり興味がない。本も映画にも興味なく、テレビのお笑い番組を見るのが唯一の楽しみで、テレビをほとんど見ないあかねとの会話はおよそはずまない。会社や飲み仲間という自分を巡る狭い人間関係に満足していて、そこでの価値観を絶対的なものと考えていた。
 それは、自分が理解できない事、知らない事を否定し、拒絶するという言動に現れた。気に入らない事や、自分の思い通りにならないことがあると、あかねが謝罪し、二度とやらない、言わないと誓うまで、秀樹はあかねを否定し責め続ける。
 何度も別れようと思ったが、出来なかったのは、好きだと言ってくれた彼の気持ちを信じたかったのと、これを逃したら、もう結婚の機会はないかもしれないという気持ちからだった。
 その秀樹が、ある日買ってきたゲームが、『バトルグランド』だった。
「これ、すごいゲームなんだぞ」
 週末、いつものように泊りに行ったあかねに、秀樹はうれしそうにゲームソフトを見せた。
「今、このゲームの配信がはやっててさ。それで金、稼いでいるプレイヤーがてくさんいるんだ。俺も、学生の頃はゲーマーだったし、やってみようと思ってさ。この間の飲み会でも、すっげぇ話題になったんだ」
 だが、意気込んでプレイを始めた秀樹は、一週間でゲームを放り出した。
「つまんねぇ。クソゲーだったわ」
 たいしてやってもいないのにクソゲーもなかろうと思ったが、それを言えば、機嫌を損ねるだけだ。適当な相槌を打ったあかねの横で、秀樹は不貞腐れたように寝転んで、テレビをつけた。
 次の週の金曜日、仕事が終わって、いつものように秀樹の家に向かったあかねは、途中でLineを受け取った。
『悪い。接待はいっちゃった。適当に食べて、先、寝てて』
 コンビニで買った夕食を食べ終わったあかねは、時間を持て余した。つきあっている相手の家とはいえ、所詮は他人の家だ。時間を潰せるような、興味をひくものは見当たらない。
 その時ふと、棚に乗ったままのゲームソフトが目にはいった。ゲームなんて、小学生の時に少しやった事があるだけで、それからはまったく縁がない。
 まぁ、でも、暇つぶしくらいにはなるかな。
 最初は軽い気持ちだった。だが、何がなんだかわからないまま始めたゲームに、あかねはのめりこんだ。
『バトルグランド』は、楽しいゲームではなかった。
 最初のうちは、わけもわからずやられるばかりで、ひとりも敵を倒せなかった。右往左往している間に叩きのめされた。だが、あかねはなぜか挫けず、ひたむきに練習に励み、着実に上達していった。
 家にきても、ゲームばかりするようになったあかねに秀樹は苛立ちを露わにした。
「俺がいるのにゲームばっかりしてるって、ありえないだろ?」
 自分だって私を無視して、さんざんひとりでスマホのゲームしていたじゃないの。
 言い返そうとしたが、やめた。言えば、怒鳴り合いの喧嘩になる。あかねがゲームをやめるまで、秀樹は執拗に責め続けるのはわかっていた。
 短期間で秀樹がゲームを放り出した理由も、すでにわかっていた。
 初心者が最初から高いスコアをあげ、思う存分楽しめるようなゲームではない。プレイヤーはみな、地道に練習を積み、技術を磨いている。配信で人気を集めているのは、超上級者ばかりで、その中でも収益をあげている者はごくわずかだ。昨日今日プレイを始めた人間が、そう簡単に出来るわけじゃない。
 思惑通りにいかないからやめた。そういう事だ。
 彼はそういう人間だ。それはもう変わらない。
 ならば、自分はこのまま、秀樹が居心地が良いとする世界で、彼の機嫌をうかがいながら生きていく事を選ぶのか?
「ゲームか俺か、どっちか選べよ」
 笑いながら言った秀樹に、あかねは「じゃあ、ゲーム選ぶわ」と答え、驚き固まる秀樹を置き去りにして、その場を去った。
 後悔はなかった。秀樹といるより、ひとりでゲームをしている方がずっと楽しい。
 結婚のために、楽しいとは思えない人生を選ぼうとしていた自分が、馬鹿馬鹿しく思えた。
 それからあかねは、『バトルグランド』に夢中になった。寝食を忘れて没頭するという体験は初めてだった。心から楽しいと感じた。
 生活も一変した。それまでは、帰宅後、やる事もなく無為に過ごしていった。早くゲームを始めたくて、てきぱきと食事や風呂をすませるようになった。遅くても九時にはゲームを始め、夜0時前には終わり、就寝する。
 ゲームをプレイしていると時間を忘れる。
『バトルグランド』のことを考えると心が躍る。
 人に誇れるような趣味ではない。けれど、『バトルグランド』は、人生で初めて出会った、夢中になれるものだった。
 そうやってゲームに楽しむ日々を過ごすうちに、あかねは三十二歳になっていた。

 帰宅してすぐ、あかねは『バトルグランド』の最新作『オペレーションD』を開封し、ディスクをPS4に挿入した。
 重々しいベースの音から始まり、激しいロック調の音楽が鳴り響く。そこに爆撃音が加わり、オープニングタイトルが映し出された。新作を始める時のこの瞬間がいちばん好きだ。期待と興奮、新たなる挑戦の始まりに、胸が高鳴る。
 最初の画面で、武器をとアバターを選ぶ。
 あかねのプレイスタイルは凸(とつ)と呼ばれる特攻型で、得意な武器はショットガン(SG)だ。
 始めたばかりの頃は、ひとりも敵を倒す事は出来なかった。銃を構える前にやられるし、自分がどこにいるかもわからない。
 毎日練習モードで自主練し、有名配信者の動画を見て、むさぼるようにして知識やテクニックを学び、繰り返し練習した。今は、強さを測るキルレ(キルレート)も、平均値の1を遙かに超える2.4を維持している。
『バトルグランド』には、八人対八人で戦うゲームで、戦場となる八つのマップと、三種類のプレイモードが用意されている。撃ち合いのチームデスマッチ、三本の旗を取り合うドミネーション、設置された爆弾を解除するサーチアンドデストロイで、自分の好きなモードを選択してプレイする事ができる。
 一番難しいとされているのは、サーチアンドデストロイで、プロリーグも開催されているが、一番人気があるのは、あかねがプレイするドミネーションだ。
 ドミネーションは、奪取した旗の数と確保時間、倒した敵の数でスコアがカウントされる。攻撃と防衛の両方を考えた戦略が必要となり、チームプレイが重要とされるゲームだ。
 ドミネーションのプレイヤーは、ドミネーターと呼ばれており、動画配信者も多く、有名配信者もいる。中でも尊敬され、ドミネーターたちから神と呼ばれているのが“ガゼル”だ。
 外国人プレイヤーからは“カミカゼ” と呼ばれている恐ろしいほど強いプレイヤーで、チームプレイを重視し、難しい局面でも決して諦めない戦い方は、観る者の心を鷲掴みにする。感情を極限まで上げ、神経を研ぎ澄ませて戦うこのゲームで、冷静さを保つのは難しいが、ガゼルはおのれを見失う事なく、勝利をあきらめずに戦い続ける。
 秀樹と別れた直後、あかねはガゼルと遭遇した。その時はまだ、ガゼルの存在を知らなかった。
 惨敗というのもはばかれるほどひどい負け試合で、がっくりと肩を落としたあかねの耳に、敵のプレイヤーたちの声が響いた。
「養分プレイヤーのみなさん、おっつ~」
「楽々、勝たせてもらいましたぁ! クソ雑魚ども」
「ねぇねぇ、恥ずかしくないの? そんなクソプレイしていてさぁ」
 敵はフルパ(フルパーティ)と呼ばれる、フレンド登録した者同士で組んだ八人組だった。パーティを組んでボイスチャットを使った会話は、パーティ内に限定される。だが、敵のパーティは、あかねたちに罵声を浴びせるために、ボイスチャットをわざわざオープンにした。
 当時はまだ、初心者やスコアの低いプレイヤーに暴言や罵声を浴びせる輩がいる事を知らなかった。叩きつけられる悪意に全身が粟立ち、嫌な気分でいっぱいになったその時、若い男の声が響いた。
「味方! 抜けるな! 次のゲーム、勝とう」
 味方は全員、野良と呼ばれるソロプレイヤーばかりだった。
「大丈夫だ。次は勝てる。俺がみんなに指示を出す。ついてきてくれ」
 自信に満ちた声だった。
 敵のプレイヤーたちはその声をあざ笑った。
「なんだ、こいつ、うぜぇ」
「馬鹿じゃねぇの? クソ雑魚並べて、俺らに勝てると思ってんのかよ」
 野良プレイヤーは、ランダム抽出でチームを組まされる。味方のほとんどは、あかねと同じ新兵か、キルレの低いプレイヤーばかりだったが、ひとりだけ、抜きんでてキルレの高いプレイヤーがいた。それが声の主だった。
 ただでさえ、パーティを組む敵に対して野良プレイヤーばかりの味方は連携を取るのは難しい。そのうえ、あかね達は力量も経験値も明らかに劣っている。だが、全員が再戦のボタンを押していた。
「ひとり、初期旗守備にはいってくれ。別でひとり、右側通路を確保。残り全員、俺とB旗を目指す。デスを量産しても気にするな。何がなんでも旗を取る、絶対に渡さないって気持ちで戦うんだ」
 旗はA旗C旗の初期旗がそれぞれの開始位置にあり、B旗はマップ中央に設置されている。二旗確保が勝利の鍵となる事から、B旗周辺は激戦となる。
 開始と同時に、「いくぞっ」と叫び、“彼”はB旗に向かって駆け出した。
 敵は手練れがそろったフルパだ。連携も取れている。
 次々と味方は倒され、リスポーン(復活)位置に戻されていく。
 だが、明らかに最初のゲームの時とは違っていた。味方に勢いがある。 “彼”の声が、みなを鼓舞し続ける。
「ひるむな! 何がなんでも倒せ!」
「左通路、敵が侵入したぞ! 抑えろ!」
「押せ! 押しまくれ!」
 “彼”の声に、味方全員が高揚し、ひとつになる。
 なんとかB旗にたどり着いたあかねの前で、“彼”が次々と敵を倒していく。
 圧倒的な強さだった。その見事な指揮と強さの前に、敵は撹乱され、連携を崩していく。
「死んでもB旗を渡すな! いいぞ、みんな! いける!」
 死に物狂いで戦う味方に檄が飛ぶ。
 どこの誰かもわからない者同士が繋がり、共鳴していく。
 ばらばらだった味方がひとつにまとまり、絶対に勝ってやるという決意が熱い闘志へと変わる。
 飛び交う銃声、激しい爆発音、次々と倒れる味方。けれど、士気は落ちていない。
 立ち上がれ!
 立ち向かえ!
 そして勝て!
 あかねは、何度も何度もB旗に向かって走り続けた。
 死にもの狂いだった。何をどうしたかも覚えていない。
 ただただ、“彼”の指揮のもと、旗に向かって走り続け、目の前に現れた敵と戦った。
 そして、唐突にゲームは終わった。
 Winという文字が、画面に大きく表示され、あかねの手から、コントローラーが滑り落ちた。
「勝ったぞ! みんな! 勝った!」
 “彼”が叫んだ。
「……勝った」
 呆然と画面を見つめるあかねの耳に、“彼”の声が響いた。
「いいチームだった。君たちといっしょに戦えてよかった。また、どこかの戦場で会おう!」
 それが、ガゼルだとわかったのは、一週間ほど過ぎた頃だった。
 配信動画の中に、彼の声を見つけた。九十万人の登録者がいる、人気配信者だと知った。そこには、ゲームに負け、膝を折りかけた自分を鼓舞し、勝利に導いた“彼”がいた。
 どんなゲームでも、ガゼルは同じ姿勢を貫き、決して暴言を吐かず、常に勝利を信じて戦う。そのプレイに、精神に、姿勢にあこがれた。
 彼が何者か知りたくて検索してみたが、何ひとつわからなかった。ガゼルは個人情報をいっさい公開しておらず、SNSのアカウントも持っていなかった。フレンドもおらず、パーティを組んでプレイする事もない。常にひとりだ。
『また、どこかの戦場で会おう』
 その言葉が心に刻まれている。いつかまた、彼とプレイする時には、肩を並べ、共に戦場を走りたい。
 その願いが、あかねの目標となった。

 練習モードでプレイしていると音がして、画面の端にボイスチャットルームの招待が表示された。
 フレンドのジャックだ。ジャックは、最初に出来たフレンドで、初心者時代の師匠でもある。ずっといっしょにパーティを組んでプレイしてきた。
「こんにちは、ニナさん! オペレーションD、どんな感じ?」
 ゲームの中で、あかねはIDからニナと呼ばれている。
 「まだ始めたばかりですけど、いい感じです」
「こっちは、僕の好きなAK(ロシア製の銃)があるんで、テンションあがってますよ」と、アサルトライフル(AR)を使うジャックがうれしそうに言った。
「ショットガン(SG)は、レミントン(アメリカ製の銃)最強説がもう出てますが、私はサイガ(ロシア製の銃)が好みかもって思ってます」
『バトルグランド』を始めて、銃器にも詳しくなった。実際の銃とはもちろん違うが、使っているうちに、歴史や背景、性能についても調べるようになり、知識が増えた。
「また一年、よろしくお願いします。楽しくやりましょう」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 あかねは、画面の向こう側にいる、顔を知らない“友人”に笑顔を向けた。

●光一
 十歳になる息子の保の手をひいて五月が家にやってきたのは、電話がかかってきた次の週末だった。
「連絡もよこさないし、お父さん達も心配してるよ」
 そう言いながら家にあがった五月が、リビングにはいるなり叫んだ。
「やだぁ、きたなーい! お兄ちゃん、何やってるの。なんか変な臭いする。掃除していないでしょ! 窓もあけてないし。やだもう、信じられない」
 カーテンをして閉め切ったままの部屋は空気が淀み、衣類やごみが散乱して、あちらこちらに食べたままの食器や食べ残しが積まれている。
 五月は窓を全開し、衣類をまとめて洗濯機に放り込み、掃除を始めた。
 居場所を失った光一は、身を小さくしてソファに座りこんだ。そこに、保がやってきた。
「おじちゃん、ゲームしてもいい?」
 保が指をさしたキャビネットの隅には、埃をかぶっているPS3があった。
 独身時代、さんざん遊んだゲーム機だが、結婚後は、ゲームを嫌う玲子に遠慮してしまいこんでいたものだ。
「いいけど、ずっと使っていないし、動くかどうかわからないよ」
「繋いでみるよ。僕、自分で出来るんだ」
 慣れた手つきでケーブルを繋いだ保は、PS3のスイッチをいれた。起動音がして、テレビに画面が映し出される。
 キャビネットの奥にしまってあったソフトから、一枚選んだ保がそれを挿入すると、豪快なエンジン音を響かせて颯爽と走るスポーツカーの映像が流れた。昔、夢中で遊んだレーシングゲームだ。
 車を選んだ保が、コントローラーを器用に操り、夜の高速道路を模したステージを爆走する。かつて何時間も走っていた懐かしい景色がそこにあった。ゲームに没頭していた頃の自分が蘇る。
 光一は、無心に遊ぶ保の小さな背中超しに、ゲームを見つめた。
 家中を掃除し、洗濯物を干し終わった五月は、夕刻、帰って行った。
「作り置きしたもの、冷蔵庫にいれておいたから食べてね。無理しなくていいけれど、きちんと食事して、お風呂にははいるようにして。折をみて、また様子見にくるけど、何かあったら、すぐに連絡ちょうだい」
 日が沈み、暗くなった部屋に光一はまた、ひとり取り残された。
 きれいに片付いた部屋を見回すと、保が繋いだPS3が目にはいった。スイッチをいれると、真っ暗な部屋に画面が青く浮かび上がる。
 昔はよくゲームで遊んだ。有名なタイトルはほとんどプレイしていたし、社会人になってからも、熱中しすぎて、そのまま朝を迎えてしまった日もある。
 やめたのは、結婚したからだ。玲子がゲームを嫌っていた事もあるが、自分でも、結婚したらやめるものだと、なんとなく思っていたし、実際、結婚してからはゲームをする時間もなかった。
 けれど、保がプレイする姿に、ゲームを楽しんでいた頃の気持ちが蘇った。
 ゲーム開始ボタンを押すと、爆音と共にコントローラーがぶるん! と大きく振動した。ゆっくりと動き出した車はそのまま、海辺の道を走り出す。道を囲む人々の歓声が耳を打つ。さらにスピードを上げ、先に走る車を次々と追い越す。
 窓からさしこむ薄い月明かりの中、光一はそのまま一晩中、コントローラーを握りしめて車を走らせた。

 三日後、長く放置されて埃をかぶっていたPS3は、突然電源が落ちて動かなくなった。なんとか起動しようといろいろいじってみたが、だめだった。
 諦めて寝室に戻り、ベッドに寝転がったが、目がさえて眠れない。そして、いつものように、ぐるぐると埒もない事を繰り返し考えてしまう。
 上司の勧めで休職してはみたものの、症状は改善されなかった。せめて、会社にさえ行く事ができればと、何度か電車に乗ってみたが、そのたびに激しい発作に襲われて出社できずに終わった。
 仕事に戻らなければという気持ちは、発作のたびに削られていき、張り付いたような頭痛と気怠さに起き上がろうとする意欲は萎んだ。そうしているうちに疲弊し、最後にはすべてを諦めてしまった。
 会社にも、仕事をカバーしてくれている他の人々にも、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。いつ戻れるかもわからない状態にあせりを感じ、そのつらさに耐えきれなくなった。それが退職を決意した理由だ。
 それからは何もせず、ベッドに横たわるだけの日々が続いている。
 このまま自分はどうなってしまうのだろう。
 この先、どうやって生きていけばいいのだろうか。
 押し寄せる不安は、光一を深い谷底に突き落とそうとする。呼吸が浅くなり、心臓がどくどくと音をたて、嫌な汗が額ににじむ。
 ゲームをしている時は、すべてを忘れていた。考える事もない。不安も恐怖もなかった。そして、ゲームを楽しんでいた。
「休む事も大事ですが、無理のない範囲で気分が変わること、楽しいと思える事を見つけてください。がんばって治そうとしないでください」
 心療内科の医師の言葉が頭をよぎる。
 身体を起こした光一は、ベッドサイドテーブルに手をのばしてスマホを取った。通販サイトを開き、PS3の後継機PS4を探す。そして、注文ボタンを押した。プレイしていたレーシングゲームを探したが、PS4での発売は見当たらない。
 他にプレイできそうなゲームはないだろうかと、売り上げランキングページを開く。トップには、両手に銃を構えた兵士のシルエットが描かれたパッケージが上がっていた。発売されたばかりのゲームで、タイトルには『バトルグランド オペレーションD』とある。
 タイトルは聞いた事がある。何年も前から続いている戦場を模したゲームで、ゲーム好きな同僚が熱心に話していた事があった。けれど、実際、どんなゲームなのかは知らないし、想像もつかない。
 動画配信サイトを検索してみると、驚くほどの数のプレイ動画が見つかった。配信者も大勢いる。
 こんなにあるのか。
 ゲーム配信が人気を博している事は知っていたが、ここまでとは思ってもいなかった。日本だけではなく、世界中、様々な国のプレイヤーが動画をあげていて、中には数百万の視聴回数になっているものもあった。
 国内人気トップの動画を開いてみると、バトルグランドのタイトルと共に、若い男の爽やかな声が響いた。
「こんにちは! ガゼルです。いつも見てくれてありがとう」
 画面が切り替わり、参加しているプレイヤー全員、敵と味方それぞれ八人のIDが並んだ。
「今日も、いつものドミネーション、やっていくね。いいゲームになるといいな。楽しんでいこう!」
 再び画面が変わり、今度は兵士のアバターが並んでいる。
「今回はショットガンでいくぞ。よぉし! Here We Go!」
 開始と同時に、ガゼルが走り出す。画面はプレイヤー視点なので、まるで自分がそのままそこにいるような映像が映し出されている。
 ガゼルは旗を通り越し、向かってきた敵を一瞬で倒した。そしてくるりと向きを変え、右側を走っていた敵を倒し、そのまま脇から旗にはいろうとしていた敵を倒す。
「味方! 今だ! 旗取れるぞ!」
 味方二人が旗に伏せ、一人がガゼルの反対側に立った。
 他のプレイヤーの声は聞こえてこないが、ガゼルの声は味方には聞こえているようだ。
「よし! B旗奪取! この勢いで行くぞ!」
 そう言うと、ガゼルは再び走り出した。
 初めてゲームを見る目にも、ガゼルがかなり強いプレイヤ―であろうことはわかる。軽やかに戦場を駆け回り、次々と敵を倒していく。
 しかし、敵もそのままやられっぱなしではなかった。
 1ラウンド目は取ったが、2ラウンド、3ラウンド目と、敵の勝利となった。
 2対2で迎えた5ラウンド目、ガゼルのチームは序盤でB旗を奪取したが、すぐさま敵に取り返されてしまった。敵のチーム上位ふたりが常時ガゼルをマークし、動きを封じようとしている。
 前線は後退して、B旗から離れていく。
 ガゼルの声にもあせりが出てきた。
「くっそ、敵、手ごわいな」
「このままだと負ける。なんとかB旗を取り戻さないと」
「よし! 俺が行く!」
 走り出したガゼルは、敵が敷いた防衛ラインをあっという間に突破した。
「前はまかせろ! 俺が潰す!」
「左! 二階窓! 敵スナイパー!」
「右側、敵をおさえろ!」
 防衛ラインを崩された敵が見せた隙を、ガゼルが見逃さなかった。
「今だ!」
 B旗前に立ったガゼルは、襲い掛かってくる敵を次々と倒していく。                                                       
 機銃が連射する音が響く。味方がガゼルを後方支援しているのだ。
「いいぞ! いける! あきらめるな! 勝利を信じろ!」
 少しずつ、味方の勢いが盛り返していく。ばらばらになりかけていた味方チームが、ガゼルの声に応じて、ひとつなっていくのがわかる。
 B旗を奪取したガゼルたちは、そのままの勢いでゲームを押し切った。
「よっしゃあ! 勝ったぁ!」
 ガゼルが叫ぶのと同時に、Winの文字が画面に浮かび上がる。スコア画面のトップには、GAZELWINDと表示された。
「劣勢からの勝利は気持ちがいいね! みんなでがんばった結果だ。どんな状況になっても、最後まであきらめない。それが大事って、俺は思ってる。ありがとう! 今日はここまで! またな!」
 動画はそこで終わった。
 はぁぁっと大きく息が漏れた。呼吸を止めて、夢中で見入っていた事に気づく。
 圧倒された。
 かっこよかった。
 ガゼルは、まだ二十歳前後の若者だろう。声がまだ若い。三十八歳の自分から見れば、若造もいいところだ。
 だが、そのプレイに魅せられた。ショットガンを手に戦場を駆け抜けるプレイも、味方を鼓舞する声も、圧倒的な強さも、すべてがかっこよかった。無茶苦茶かっこよくて、見る者を夢中にさせ、胸を熱くするエネルギーに満ちていた。
 味方が勢いを失っていく中で、彼だけが勝つという意志を失わなかった。決してくじけず、あきらめなかった。
「まだいける! 気持ちで負けちゃだめだ! 勝負は決まっていない! 最後まであきらめるな! あきらめなければ勝つチャンスはある!」
 ガゼルの声が耳にこだまし、身体の奥底に浸透していく。
 画面を切り替えると、光一は躊躇なく、『バトルグランド オペレーションD』の購入ボタンを押した。

 次の日、PS4とゲームソフトが届いた。説明書を見ながら設定をし、IDを決めた。Pika_the first、考えた挙句、本名をそのまま模して使う事にした。
 ゲームを起動すると、爆撃音と共に、タイトル画面が現れた。
 手にいれたばかりのゲームを初めてプレイする時の興奮で、ぞくぞくする。懐かしい感覚だ。
 武器は、ショットガン(SG)、サブマシンガン(SMG)(機動力のある小型機関銃)、アサルトライフル(AR)(中距離突撃銃)、ライトマシンガン(LMG)(機関銃)、スナイパーライフル(SR)(狙撃銃)の中から選ぶ事ができる。その中にいろいろなタイプが用意されていて、アサルトライフル(AR)なら、AK―47(ソ連製)、SCAR(ベルギー製)などがあり、実在の銃がゲーム用にアレンジされている。それにアタッチメントをつけてカストマイズし、自分にあった仕様にしていく。
 武器の他に、倒した敵(キル数)やスコアで出す事ができる、スコアストリークと呼ばれるボーナス武器がある。敵の位置を画面に出すレーダー、設置された電子系武器を破壊するEMP、設置型自動マシンガンや地雷、ボムカーペットと呼ばれる航空支援による絨毯爆撃などだ。一度も敵に倒される事なくスコアとキル数をあげる事ができれば、より強力なスコアストリークを出す事ができる。
 チュートリアル(ルール説明)で基本操作を覚えてから、練習用ステージで何度かプレイし、いよいよ本番に挑む。
 選んだのは、ガゼルがプレイしていたドミネーションだ。
 ルールがわかっているのはドミネーションだけだし、ただで切り倒すのではなく、三つの旗を取り合うルールが面白いと思った。
 表示された光一のIDには、レベル1と表示されていた。他のプレイヤーは、みなレベル50以上で、中にふたり、100超えている者がいる。
 初心者はアバターの選択はできず、新兵のアバターが自動的に設定される。武器も、初期設定のものしか使用できない。
 並んだ味方のアバターはみな、服装や武器、アタッチメントまで、カストマイズされていた。
 開始の合図と同時に、光一は走り出した。
『バトルグランド』をプレイするのは初めてだが、ゲーム歴は長い。学生時代はゲームセンターに通っていた事もあるし、対戦ではそれなりの戦績も残した。
 ガゼルには到底及ばないにしても、それなりに戦えるだろう。
 そう思っていたが、甘かった。
 勢いよく走り出したものの、フラググレネード(投擲爆弾)が飛んできて、あっという間に吹き飛ばされた。リスポーンして、B旗に向かおうとしたが、たどりつく前に倒される。
 すでに味方は、B旗奪取に激しい戦闘を始めているが、光一はそこに近づく事すら出来ない。どこから攻撃を受けているのかわからないまま、倒される。上手く隠れたつもりが狙い撃ちされ、動きを見透かされたかのようにフラググレネードやクレイモア(設置型爆弾)で吹き飛ばされる。
 手も足も出ない。コントローラーを握る手に、じわりと汗を感じた。
 ここまで何も出来ないとは思ってもいなかった。
 あせりばかりが先走り、どうしていいかわからずに右往左往しているうちに、ゲームは終了した。戦績は、2キル36デス。十六人の中、最下位だ。
 だが、光一のチームが勝った。
 味方の上位三人のスコアが高い。
 トップは、42キル20デス。キルレは2を超えている。
 このゲームには、初心者用のステージは存在しない。敵にも味方にも、彼らのような熟練の猛者プレイヤーがいて、初心者も彼らと並んで戦う事になる。
 かなうわけがない。野球を始めたばかりの小学生が、プロ選手と戦うようなものだ。
 ゲームは楽しむものだと思っていた。だが、このゲームは違う。
 やるせなさと悔しさしか残っていない。
 やらなきゃよかった。
 そう思った瞬間、唐突にガゼルの声が耳の奥に響いた。
「まだいける! 気持ちで負けてはだめだ! 勝負は決まっていない! 最後まであきらめるな! あきらめなければチャンスはある!」
 はっとした。
 確かに、今は何も出来ない。だが、あきらめなければ、負けることを恐れなければ、戦えるようになるかもしれない。練習し、経験を積んでいけば、出来ることは増えていくはずだ。
時間はたっぷりある。コントローラーを握る手に力が戻る。
 光一は、ゲームスタートのボタンを押した。

 それから毎日、寝食を忘れてゲームに没頭した。夜は灯りもつけずに真っ暗な中でプレイし、朝日が差し込んできても気づかなかった。睡魔が襲ってきたら、そのままリビングのソファに転がって眠る。
 ゲームに熱中している時は、不安も恐怖も感じずにいられる。発作も起きないし、身体に不調を感じる事もない。不規則ではあるが、眠れるようにもなった。
 会社を辞めた挙句、家にこもって毎日ゲームをしているなんて、許される事じゃない。現実逃避だとわかっていたが、やめる事はできなかった。
『バトルグランド』は、今までやってきたゲームとは違う。物語を進めれば呪文や武器が揃って、強くなっていくゲームではない。
 時間をかけて技量を磨き、戦略や戦術を覚えていかなければ、いつまでたってもやられるばかりの弱いプレイヤーのままだ。
 多くのプレイヤーは、何年もこのシリーズのゲームを継続してプレイしてきている。基本的な技術を身に着け、長い時間をかけて経験を積んできた熟練者ばかりだ。 そんな彼らに、始めたばかりのプレイヤーが太刀打ちできるわけはない。
 初心者の多くは、早い段階でこのゲームをやめていく。だが、光一は違った。やられればやられるほど、のめりこんだ。
 どうやったら撃ち勝てるか。
 どう立ち回ればいいのか。
 考え、試し、何度もやり直す。エイムの精度をあげるために、毎日何時間も練習する。
 有名なプレイヤーの動画を見まくって、それを参考にした。武器の性能やマップを細かく調べて検証し、ゲームに搭載された機能で自分のプレイを録画して、繰り返し見た。
 そうやってみて、あらためて、ガゼルの凄さを実感した。エイムの確かさ、技術の高さ、立ち回りの良さは群を抜いており、画面の端に表示されるレーダーを見ながら、敵の動きを読み取る力もすごかった。到底真似出来るものではない。
 どんな世界にも天才はいる。
 ガゼルは天才だ。手をのばしても届かない、空高く輝く星のような存在だ。
 その輝きが、自分の中に光を灯した。それを消したくない。
 光一は画面を見つめ、コントローラーを握りしめる。
 いつか、ガゼルと共に戦いたい。
 それが光一の目標となった。

 「なんだよぉ。3キル39デスとか、ありえねぇわ」
 画面から怒りを含んだ声が突然響いた。味方の野良プレイヤーだ。猛者を二人擁する敵チームに、完全な敗北を期した直後だった。
「クソみたいなスコアしか出せねぇんだったら、はいってくんなよ。、そもそも初心者なんて、味方の足、引っ張るだけだろ、お前のせいで負けたんだぞ」
 僕のことだ…。
 一目瞭然、スコアは最下位、しかも断トツ低い。まともに戦う事も出来ず、デスを量産して、味方の足を引っ張ったのは事実だ。
 わかってはいるが、罵倒の言葉は光一の心を貫いた。ねっとりとした感覚が全身を覆い、嫌悪感に包まれる。吐き気がせりあがってきて、汗が噴き出した。
 発作の兆候だ。
 罵倒する声は、まだ幼さを残している。声変わりはしているが、中学生くらいだろう。
 現実の世界なら、そんな子供にあんな言葉を投げつけられるような事は起こらない。だが、ここはゲームの世界だ。年齢は関係ない。しかも、彼が言っている事は間違っていない。
「初心者はひとりでパズルでもやってろ、ばぁーか」
 全部見透かされているような気がした。仕事を辞め、妻にも去られ、家に引きこもっているしかできない雑魚。何ひとつ満足に出来ない自分を、つきつけられたように感じた。
 がくりと力が抜けた。
 今日はここまでにしよう。
 そう思ってゲームを落ちようとした時、別の声が響いた。 
「何、えらそうなこと言ってんのよ」
 女の声だ。
「誰でも最初は初心者でしょ? 自分はこそこそ隠れてキル稼ぎしてたくせに。えらそうな事いうなら、初心者引っ張って勝つくらいのプレイ、したらどうなの」
 誰だ?
 慌ててIDを確認しようとしたが、画面はメニューに戻ってしまった。
 呆然と画面を見つめた光一の耳に、メッセージ着信音が聞こえた。画面右上に、、JackTheRiver という見知らぬIDが表示されている。
『はじめまして。今のゲームでプレイしてた者です。暴言吐いたやつに毒舌返したのは、パーティ組んでいる僕のフレンドです。よかったらいっしょにやりませんか?』
 送られてきたフレンド申請に、メッセージが書かれていた。初めてのフレンド申請だ。見ず知らずの他人と関わる事には抵抗がある。だが、誘いを受ければ、声の主が何者かを知る事ができる。
 あの人が誰なのか、どんな人なのか知りたい。
 光一はフレンド申請を受領した。

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